3 / 6
第三章 揺らぐ心
しおりを挟む
セドリック様と過ごす日々は、わたしにとって、宝石箱を開けるような毎日でした。
図書館の窓辺に並んで腰掛け、午後のやわらかな光の中で厚い古文書を抱えるだけの時間。それなのに、わたしの胸は温かく満たされていったのです。
「この符文は精霊力の循環を示しているんですよ」
「えっと、このラインを重ねることで……え、こうですか?」
「そう。それで一気通貫になりますね。――ほら、できました」
不意に彼の手が伸びて、わたしの指先に触れました。
まるで導線を正すように、ほんの軽くなぞっただけ。それなのに、心臓が飛び跳ねてしまったのです。
「っ……あ、ありがとうございます」
「どうしたんですか? まるで火がついたみたいに真っ赤ですよ」
「ち、違います! これはその……その……!」
あたふたと弁解するわたしに、セドリック様はくすっと笑って、わたしの髪を少しなでおろしました。
「無理をしなくて構いませんよ。君の真面目さは十分伝わっていますから」
そのやさしい声音に、胸の高鳴りを抑えきれません。
(だめだめだめ! これは勉強が楽しいだけ。……そういうことにしないと!)
必死に打ち消そうとしても、触れそうな指先や彼の笑顔を前にすれば、鼓動は勝手に跳ね上がります。
そんな穏やかな日々にも、嵐の種はありました。
「まあまあ。お二人、今日も仲睦まじいですこと」
廊下に立ちはだかったのは――公爵令嬢カナリアさまです。
黄金の髪を揺らして、扇子をぱたぱたと仰ぎながら、まるで舞台の主役のように微笑んでいました。
「ち、違いますから! 仲睦まじいとかじゃないです!」
「あら? そうかしら。だってあなた、まっ赤な顔をしていますわよ」
「あぅ……!」
くっ……敵ながら、鋭く突いてきます。
その横でセドリック様は苦笑し、わたしを庇うように一歩前に出ました。
「カナリア嬢。彼女は神殿に仕える巫女になるために、真剣に学んでいるだけですよ。からかわないであげてください」
「まあ……セドリック様。かばってあげるなんて優しいんですのね」
その言葉の裏にある含みを察して、わたしはますます顔を赤くしてしまいました。
(ううっ、いったいどういう立場なんですか私……!)
カナリアさまはクスクスと笑い、去って行きます。
去り際に小声で「可愛い反応ですわね」と囁いてきたのは、絶対に聞き間違いじゃありません。
とはいえ、カナリアさまの挑発がどうこうより、胸をかすかに落とす瞬間がありました。
セドリック様の表情に、不思議な影がよぎる時があるのです。
指導の途中でふと目を伏せて、遠い何かを見るような眼差し。
そして――深い吐息。
「……セドリック様? どうかされたのですか?」
「え? ああ……。少し、疲れただけですよ」
笑ってごまかされてしまいましたが、なにかを抱えているのは明らかでした。
(わたしに……教えてくださらないのですか?)
胸に小さな痛みが刺さって、知らず拳を握りしめていました。
けれど、その問題が現実になるのは、思っていたよりずっと早く。
――ある朝。
図書館へ足を運んでも、セドリック様の姿はありませんでした。
翌日も。その次の日も。
「どうして……」
声が震えてしまいます。
毎日のように一緒にいたのに。あの微笑みに支えられていたのに。
扉を開けた静まり返る図書館は、ただ広すぎる空虚だけを返してきました。
(どうしたのですか……? どこに行ってしまったのですか、セドリック様……)
胸の奥にぽっかりと開いた穴から、涙が零れそうになります。
そんなわたしを見かねたように、後ろから声をかけてきた人がいました。
「泣いている暇がおありなのですか?」
「カ、カナリアさま……」
彼女は淡い紅茶色の瞳を細めて、わたしを真っ直ぐに見ました。
「あなた、彼がいなくてしょんぼりしてばかりじゃありませんの? 待っているだけでは駄目ですわよ」
「……でも、わたしになにができるというんですか」
「わたくしから言わせてもらえば、あなたは自分を過小評価しすぎですの。……いいですか? 次に彼と会うときに、“誇れる自分”でいなさい」
思わず息を飲みました。
嫌味の多い彼女の言葉でしたが、そのときだけは妙に真剣でした。
「誇れる……自分」
「そうですわ。あなたにしかできない努力をなさい。将来どうなるかなんて関係なく。胸を張れる自分でいれば、きっと後悔はいたしませんわ」
そう言い残して去って行ったカナリアさまの後ろ姿は、なんだかいつになく眩しく見えました。
それからの日々、わたしは泣いて過ごすのをやめ、必死で魔術の鍛錬に打ち込みました。
欠けているものを補おうと、夜遅くまで文献を読み漁り、実技の練習も欠かさずに。
もとより「補佐役エンド」でかまわないと思っていたはずなのに、今のわたしはただ――彼に胸を張れる自分でいたいと願っていました。
(会えない寂しさと……この想いが、わたしを変えていくのです)
だから。彼がどこにいても構いません。
もう一度出会える時が来たら、きっと今のわたしを見せたい。
図書館の窓辺に並んで腰掛け、午後のやわらかな光の中で厚い古文書を抱えるだけの時間。それなのに、わたしの胸は温かく満たされていったのです。
「この符文は精霊力の循環を示しているんですよ」
「えっと、このラインを重ねることで……え、こうですか?」
「そう。それで一気通貫になりますね。――ほら、できました」
不意に彼の手が伸びて、わたしの指先に触れました。
まるで導線を正すように、ほんの軽くなぞっただけ。それなのに、心臓が飛び跳ねてしまったのです。
「っ……あ、ありがとうございます」
「どうしたんですか? まるで火がついたみたいに真っ赤ですよ」
「ち、違います! これはその……その……!」
あたふたと弁解するわたしに、セドリック様はくすっと笑って、わたしの髪を少しなでおろしました。
「無理をしなくて構いませんよ。君の真面目さは十分伝わっていますから」
そのやさしい声音に、胸の高鳴りを抑えきれません。
(だめだめだめ! これは勉強が楽しいだけ。……そういうことにしないと!)
必死に打ち消そうとしても、触れそうな指先や彼の笑顔を前にすれば、鼓動は勝手に跳ね上がります。
そんな穏やかな日々にも、嵐の種はありました。
「まあまあ。お二人、今日も仲睦まじいですこと」
廊下に立ちはだかったのは――公爵令嬢カナリアさまです。
黄金の髪を揺らして、扇子をぱたぱたと仰ぎながら、まるで舞台の主役のように微笑んでいました。
「ち、違いますから! 仲睦まじいとかじゃないです!」
「あら? そうかしら。だってあなた、まっ赤な顔をしていますわよ」
「あぅ……!」
くっ……敵ながら、鋭く突いてきます。
その横でセドリック様は苦笑し、わたしを庇うように一歩前に出ました。
「カナリア嬢。彼女は神殿に仕える巫女になるために、真剣に学んでいるだけですよ。からかわないであげてください」
「まあ……セドリック様。かばってあげるなんて優しいんですのね」
その言葉の裏にある含みを察して、わたしはますます顔を赤くしてしまいました。
(ううっ、いったいどういう立場なんですか私……!)
カナリアさまはクスクスと笑い、去って行きます。
去り際に小声で「可愛い反応ですわね」と囁いてきたのは、絶対に聞き間違いじゃありません。
とはいえ、カナリアさまの挑発がどうこうより、胸をかすかに落とす瞬間がありました。
セドリック様の表情に、不思議な影がよぎる時があるのです。
指導の途中でふと目を伏せて、遠い何かを見るような眼差し。
そして――深い吐息。
「……セドリック様? どうかされたのですか?」
「え? ああ……。少し、疲れただけですよ」
笑ってごまかされてしまいましたが、なにかを抱えているのは明らかでした。
(わたしに……教えてくださらないのですか?)
胸に小さな痛みが刺さって、知らず拳を握りしめていました。
けれど、その問題が現実になるのは、思っていたよりずっと早く。
――ある朝。
図書館へ足を運んでも、セドリック様の姿はありませんでした。
翌日も。その次の日も。
「どうして……」
声が震えてしまいます。
毎日のように一緒にいたのに。あの微笑みに支えられていたのに。
扉を開けた静まり返る図書館は、ただ広すぎる空虚だけを返してきました。
(どうしたのですか……? どこに行ってしまったのですか、セドリック様……)
胸の奥にぽっかりと開いた穴から、涙が零れそうになります。
そんなわたしを見かねたように、後ろから声をかけてきた人がいました。
「泣いている暇がおありなのですか?」
「カ、カナリアさま……」
彼女は淡い紅茶色の瞳を細めて、わたしを真っ直ぐに見ました。
「あなた、彼がいなくてしょんぼりしてばかりじゃありませんの? 待っているだけでは駄目ですわよ」
「……でも、わたしになにができるというんですか」
「わたくしから言わせてもらえば、あなたは自分を過小評価しすぎですの。……いいですか? 次に彼と会うときに、“誇れる自分”でいなさい」
思わず息を飲みました。
嫌味の多い彼女の言葉でしたが、そのときだけは妙に真剣でした。
「誇れる……自分」
「そうですわ。あなたにしかできない努力をなさい。将来どうなるかなんて関係なく。胸を張れる自分でいれば、きっと後悔はいたしませんわ」
そう言い残して去って行ったカナリアさまの後ろ姿は、なんだかいつになく眩しく見えました。
それからの日々、わたしは泣いて過ごすのをやめ、必死で魔術の鍛錬に打ち込みました。
欠けているものを補おうと、夜遅くまで文献を読み漁り、実技の練習も欠かさずに。
もとより「補佐役エンド」でかまわないと思っていたはずなのに、今のわたしはただ――彼に胸を張れる自分でいたいと願っていました。
(会えない寂しさと……この想いが、わたしを変えていくのです)
だから。彼がどこにいても構いません。
もう一度出会える時が来たら、きっと今のわたしを見せたい。
1
あなたにおすすめの小説
記憶を無くした、悪役令嬢マリーの奇跡の愛
三色団子
恋愛
豪奢な天蓋付きベッドの中だった。薬品の匂いと、微かに薔薇の香りが混ざり合う、慣れない空間。
「……ここは?」
か細く漏れた声は、まるで他人のもののようだった。喉が渇いてたまらない。
顔を上げようとすると、ずきりとした痛みが後頭部を襲い、思わず呻く。その拍子に、自分の指先に視線が落ちた。驚くほどきめ細やかで、手入れの行き届いた指。まるで象牙細工のように完璧だが、酷く見覚えがない。
私は一体、誰なのだろう?
「転生したら推しの悪役宰相と婚約してました!?」〜推しが今日も溺愛してきます〜 (旧題:転生したら報われない悪役夫を溺愛することになった件)
透子(とおるこ)
恋愛
読んでいた小説の中で一番好きだった“悪役宰相グラヴィス”。
有能で冷たく見えるけど、本当は一途で優しい――そんな彼が、報われずに処刑された。
「今度こそ、彼を幸せにしてあげたい」
そう願った瞬間、気づけば私は物語の姫ジェニエットに転生していて――
しかも、彼との“政略結婚”が目前!?
婚約から始まる、再構築系・年の差溺愛ラブ。
“報われない推し”が、今度こそ幸せになるお話。
婚約破棄したら食べられました(物理)
かぜかおる
恋愛
人族のリサは竜種のアレンに出会った時からいい匂いがするから食べたいと言われ続けている。
婚約者もいるから無理と言い続けるも、アレンもしつこく食べたいと言ってくる。
そんな日々が日常と化していたある日
リサは婚約者から婚約破棄を突きつけられる
グロは無し
王子好きすぎ拗らせ転生悪役令嬢は、王子の溺愛に気づかない
エヌ
恋愛
私の前世の記憶によると、どうやら私は悪役令嬢ポジションにいるらしい
最後はもしかしたら全財産を失ってどこかに飛ばされるかもしれない。
でも大好きな王子には、幸せになってほしいと思う。
転生したので推し活をしていたら、推しに溺愛されました。
ラム猫
恋愛
異世界に転生した|天音《あまね》ことアメリーは、ある日、この世界が前世で熱狂的に遊んでいた乙女ゲームの世界であることに気が付く。
『煌めく騎士と甘い夜』の攻略対象の一人、騎士団長シオン・アルカス。アメリーは、彼の大ファンだった。彼女は喜びで飛び上がり、推し活と称してこっそりと彼に贈り物をするようになる。
しかしその行為は推しの目につき、彼に興味と執着を抱かれるようになったのだった。正体がばれてからは、あろうことか美しい彼の側でお世話係のような役割を担うことになる。
彼女は推しのためならばと奮闘するが、なぜか彼は彼女に甘い言葉を囁いてくるようになり……。
※この作品は、『小説家になろう』様『カクヨム』様にも投稿しています。
自業自得じゃないですか?~前世の記憶持ち少女、キレる~
浅海 景
恋愛
前世の記憶があるジーナ。特に目立つこともなく平民として普通の生活を送るものの、本がない生活に不満を抱く。本を買うため前世知識を利用したことから、とある貴族の目に留まり貴族学園に通うことに。
本に釣られて入学したものの王子や侯爵令息に興味を持たれ、婚約者の座を狙う令嬢たちを敵に回す。本以外に興味のないジーナは、平穏な読書タイムを確保するために距離を取るが、とある事件をきっかけに最も大切なものを奪われることになり、キレたジーナは報復することを決めた。
※2024.8.5 番外編を2話追加しました!
溺愛王子の甘すぎる花嫁~悪役令嬢を追放したら、毎日が新婚初夜になりました~
紅葉山参
恋愛
侯爵令嬢リーシャは、婚約者である第一王子ビヨンド様との結婚を心から待ち望んでいた。けれど、その幸福な未来を妬む者もいた。それが、リーシャの控えめな立場を馬鹿にし、王子を我が物にしようと画策した悪役令嬢ユーリーだった。
ある夜会で、ユーリーはビヨンド様の気を引こうと、リーシャを罠にかける。しかし、あなたの王子は、そんなつまらない小細工に騙されるほど愚かではなかった。愛するリーシャを信じ、王子はユーリーを即座に糾弾し、国外追放という厳しい処分を下す。
邪魔者が消え去った後、リーシャとビヨンド様の甘美な新婚生活が始まる。彼は、人前では厳格な王子として振る舞うけれど、私と二人きりになると、とろけるような甘さでリーシャを愛し尽くしてくれるの。
「私の可愛い妻よ、きみなしの人生なんて考えられない」
そう囁くビヨンド様に、私リーシャもまた、心も身体も預けてしまう。これは、障害が取り除かれたことで、むしろ加速度的に深まる、世界一甘くて幸せな夫婦の溺愛物語。新婚の王子妃として、私は彼の、そして王国の「最愛」として、毎日を幸福に満たされて生きていきます。
モブなのに、転生した乙女ゲームの攻略対象に追いかけられてしまったので全力で拒否します
みゅー
恋愛
乙女ゲームに、転生してしまった瑛子は自分の前世を思い出し、前世で培った処世術をフル活用しながら過ごしているうちに何故か、全く興味のない攻略対象に好かれてしまい、全力で逃げようとするが……
余談ですが、小説家になろうの方で題名が既に国語力無さすぎて読むきにもなれない、教師相手だと淫行と言う意見あり。
皆さんも、作者の国語力のなさや教師と生徒カップル無理な人はプラウザバック宜しくです。
作者に国語力ないのは周知の事実ですので、指摘なくても大丈夫です✨
あと『追われてしまった』と言う言葉がおかしいとの指摘も既にいただいております。
やらかしちゃったと言うニュアンスで使用していますので、ご了承下さいませ。
この説明書いていて、海外の商品は訴えられるから、説明書が長くなるって話を思いだしました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる