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第四章 戦乱と決意
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隣国の影が静かに帝国へと迫ってきたのは、初夏のころでした。
宮廷内では舞踏会や晩餐が変わらず催され、煌びやかな楽の調べが漂っていましたが――街の人々は、もう気付いていたはずです。戦の足音がすぐそこに迫っていることに。
けれど、わたしの胸を占めていたのは恐怖だけではありません。
それ以上に、皇帝レオンハルトへの想い。まだ名も持たぬ感情が、日増しに心を揺らしていたのです。
「陛下は戦の先頭に立たれる、と……」
かすかに震える声で尋ねたわたしへ、侍女殿はうつむき、静かに答えました。
「ええ。……陛下は剣を手に取り、ご自分の命を懸けて帝国を守ろうとされています」
その言葉に胸は重く沈みました。
もし、あの強い彼が……倒れてしまったなら。
想像するだけで、身体の奥まで冷えきってしまいそうでした。
出陣の日。甲冑に身を包んだ陛下の姿は、黄金の光を背に戦神のごとく輝いていました。
その凛然とした姿は誰も寄せつけぬ威厳に満ちていたのに……わたしには恐ろしいほど遠く感じられたのです。
思わず裾を掴み、必死に言葉を紡ぎました。
「陛下……お待ちください! 敵は湿地を越えようとしています。雨のぬかるみで馬は必ず足を取られます。それを利用すれば……!」
「敵兵は重い鉄鎧を好みます。ですが、関節が脆いのです。そこを狙えば崩せます……! どうか……!」
武官たちが息を呑むのも構わず、涙混じりの声で必死に知識を口にしました。
けれど心の奥底では――ただ、彼を行かせたくなかったのです。
「どうして……どうして陛下が先頭に立たねばならないのですか! お身体を失えば、帝国は……わたしは……!」
震えと涙を止められないわたしの頬を、硬い篭手がそっと撫でました。
「クラリッサ……」
黒曜石の瞳が揺るぎなく、けれど温かくわたしを捉えます。
「俺は皇帝だ。誰よりも前に立ち、全てを背負う。それが俺の誇りだ。――だが、お前の言葉も涙も、全て俺の力になる」
抱き寄せられた胸甲は硬く痛いのに、どうしようもなく温かい。
その瞬間、わたしは懐から古びた布切れを取り出しました。
アパートの一室で本にしおりとして挟んでいた、小さな布。なんの価値もない、ただわたしが大事にしていたもの。
両手で差し出し、涙をこぼしながら告げました。
「これを……持っていってください。……ずっと御守りにしていた布です。どうか、陛下を守ってくれますように」
彼は驚いたように息を呑み、それを慎重に胸甲の内へとしまいました。
「クラリッサ……こんな布切れ一枚でも、俺には何より強い御守りだ」
そう囁いた声は鋼よりも硬く、祈りよりも確かな誓いを孕んでいました。
「必ず帰る。そして帰ったら……二度とお前を離さない」
その誓いを胸に、わたしは震える手で彼の背を押し出すしかなかったのです。
ある夜。誰もいない聖堂に足を踏み入れ、わたしは震える両手を組んで祈りました。
「どうか……どうか陛下をお守りください」
涙混じりの声は静寂に溶け、月明かりを透かすステンドグラスが、頼りないわたしの祈りをそっと抱いてくれているようでした。
その時、不意に侍従が駆け込み、一枚の文を差し出しました。
「……陛下が、負傷されたと」
視界がぐらりと揺れ、息が詰まりました。
「そんな……!」
手を強く握りすぎて震え、涙が滝のように頬を伝いました。
無力なわたしには、ただ祈ることしかできない。――そう、思った矢先でした。
それでも。彼は戦場で深い傷を負われました。
血に染まる軍服、蒼白な顔色。消息を聞きつけて駆け寄った時の胸の締めつけは、今も忘れられません。
彼の胸元には、あの布切れが汗に濡れてなお大事に縫い込まれるように抱かれていました。
見た瞬間、わたしの胸は張り裂けそうに震えました。致命傷になるはずのここだけは、傷一つ無かったのです。
あの粗末な布切れが、帝国を、そして陛下を生かした――。
涙は止まらず、わたしはその手を握りしめ叫ぶように語りかけました。
「わたし……陛下のために何ひとつできないと思っていました。でも……守れたのですね。ほんの少しでも……!」
寝台に横たわる陛下を囲む医師たちは、治療に必要な薬草が不足しているとひそひそ声で囁いていました。
その名を耳にして、わたしの心に電流のように知識が蘇ったのです。
「――待ってください。それなら、中庭の影に自生する“銀葉の草”が使えます。止血と癒傷に効くはず……」
医師たちが驚いて振り返り、手筈を整えて薬草を煎じると、確かに陛下の出血はおさまり傷も静まっていきました。
「なぜそんなことを……」と誰かがつぶやいた時、わたしはただ答えました。
「本で読みました。……薬草についての古文書を」
陛下の熱い体温が次第に落ち着いていくのを感じた時。胸が震え、涙がこぼれました。
――知識が、わたしを救ったのではなく。彼を救ってくれたのです。
夜更け。彼が静かに瞳を開かれました。
「……クラリッサ……」
掠れる声に名を呼ばれ、わたしは堪えきれず彼の手を握りました。
「陛下……ご無事で……」
頬へと伸びた彼の指が涙を拭い、かすかに笑みを刻みます。
「お前なしでは、もう生きられない」
胸が張り裂けるような告白に、わたしは縋り付くしかありませんでした。
震える鼓動。それでも生きている証。涙とともにわたしは、ただただその鼓動を全身に刻みました。
弱々しく上体を起こした彼は、そっとわたしを抱き寄せました。
「泣くな……俺がいる」
額に額を重ね、熱を帯びた手が頬を撫でる。
そのぬくもりは愛おしさに満ち、恐怖さえ忘れさせました。
「どうしてそこまで……」
「お前だからだ。俺に必要なのは、お前だけだ」
その低い囁きは甘美な鎖となり、わたしの胸を絡めとって離しません。
わたしの胸を射抜き、永遠の灯となったのです。
宮廷内では舞踏会や晩餐が変わらず催され、煌びやかな楽の調べが漂っていましたが――街の人々は、もう気付いていたはずです。戦の足音がすぐそこに迫っていることに。
けれど、わたしの胸を占めていたのは恐怖だけではありません。
それ以上に、皇帝レオンハルトへの想い。まだ名も持たぬ感情が、日増しに心を揺らしていたのです。
「陛下は戦の先頭に立たれる、と……」
かすかに震える声で尋ねたわたしへ、侍女殿はうつむき、静かに答えました。
「ええ。……陛下は剣を手に取り、ご自分の命を懸けて帝国を守ろうとされています」
その言葉に胸は重く沈みました。
もし、あの強い彼が……倒れてしまったなら。
想像するだけで、身体の奥まで冷えきってしまいそうでした。
出陣の日。甲冑に身を包んだ陛下の姿は、黄金の光を背に戦神のごとく輝いていました。
その凛然とした姿は誰も寄せつけぬ威厳に満ちていたのに……わたしには恐ろしいほど遠く感じられたのです。
思わず裾を掴み、必死に言葉を紡ぎました。
「陛下……お待ちください! 敵は湿地を越えようとしています。雨のぬかるみで馬は必ず足を取られます。それを利用すれば……!」
「敵兵は重い鉄鎧を好みます。ですが、関節が脆いのです。そこを狙えば崩せます……! どうか……!」
武官たちが息を呑むのも構わず、涙混じりの声で必死に知識を口にしました。
けれど心の奥底では――ただ、彼を行かせたくなかったのです。
「どうして……どうして陛下が先頭に立たねばならないのですか! お身体を失えば、帝国は……わたしは……!」
震えと涙を止められないわたしの頬を、硬い篭手がそっと撫でました。
「クラリッサ……」
黒曜石の瞳が揺るぎなく、けれど温かくわたしを捉えます。
「俺は皇帝だ。誰よりも前に立ち、全てを背負う。それが俺の誇りだ。――だが、お前の言葉も涙も、全て俺の力になる」
抱き寄せられた胸甲は硬く痛いのに、どうしようもなく温かい。
その瞬間、わたしは懐から古びた布切れを取り出しました。
アパートの一室で本にしおりとして挟んでいた、小さな布。なんの価値もない、ただわたしが大事にしていたもの。
両手で差し出し、涙をこぼしながら告げました。
「これを……持っていってください。……ずっと御守りにしていた布です。どうか、陛下を守ってくれますように」
彼は驚いたように息を呑み、それを慎重に胸甲の内へとしまいました。
「クラリッサ……こんな布切れ一枚でも、俺には何より強い御守りだ」
そう囁いた声は鋼よりも硬く、祈りよりも確かな誓いを孕んでいました。
「必ず帰る。そして帰ったら……二度とお前を離さない」
その誓いを胸に、わたしは震える手で彼の背を押し出すしかなかったのです。
ある夜。誰もいない聖堂に足を踏み入れ、わたしは震える両手を組んで祈りました。
「どうか……どうか陛下をお守りください」
涙混じりの声は静寂に溶け、月明かりを透かすステンドグラスが、頼りないわたしの祈りをそっと抱いてくれているようでした。
その時、不意に侍従が駆け込み、一枚の文を差し出しました。
「……陛下が、負傷されたと」
視界がぐらりと揺れ、息が詰まりました。
「そんな……!」
手を強く握りすぎて震え、涙が滝のように頬を伝いました。
無力なわたしには、ただ祈ることしかできない。――そう、思った矢先でした。
それでも。彼は戦場で深い傷を負われました。
血に染まる軍服、蒼白な顔色。消息を聞きつけて駆け寄った時の胸の締めつけは、今も忘れられません。
彼の胸元には、あの布切れが汗に濡れてなお大事に縫い込まれるように抱かれていました。
見た瞬間、わたしの胸は張り裂けそうに震えました。致命傷になるはずのここだけは、傷一つ無かったのです。
あの粗末な布切れが、帝国を、そして陛下を生かした――。
涙は止まらず、わたしはその手を握りしめ叫ぶように語りかけました。
「わたし……陛下のために何ひとつできないと思っていました。でも……守れたのですね。ほんの少しでも……!」
寝台に横たわる陛下を囲む医師たちは、治療に必要な薬草が不足しているとひそひそ声で囁いていました。
その名を耳にして、わたしの心に電流のように知識が蘇ったのです。
「――待ってください。それなら、中庭の影に自生する“銀葉の草”が使えます。止血と癒傷に効くはず……」
医師たちが驚いて振り返り、手筈を整えて薬草を煎じると、確かに陛下の出血はおさまり傷も静まっていきました。
「なぜそんなことを……」と誰かがつぶやいた時、わたしはただ答えました。
「本で読みました。……薬草についての古文書を」
陛下の熱い体温が次第に落ち着いていくのを感じた時。胸が震え、涙がこぼれました。
――知識が、わたしを救ったのではなく。彼を救ってくれたのです。
夜更け。彼が静かに瞳を開かれました。
「……クラリッサ……」
掠れる声に名を呼ばれ、わたしは堪えきれず彼の手を握りました。
「陛下……ご無事で……」
頬へと伸びた彼の指が涙を拭い、かすかに笑みを刻みます。
「お前なしでは、もう生きられない」
胸が張り裂けるような告白に、わたしは縋り付くしかありませんでした。
震える鼓動。それでも生きている証。涙とともにわたしは、ただただその鼓動を全身に刻みました。
弱々しく上体を起こした彼は、そっとわたしを抱き寄せました。
「泣くな……俺がいる」
額に額を重ね、熱を帯びた手が頬を撫でる。
そのぬくもりは愛おしさに満ち、恐怖さえ忘れさせました。
「どうしてそこまで……」
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