【完結】もう手を離さない ―失われた王国の王女と、ギターの青年―

朝日みらい

文字の大きさ
2 / 7

第二章 歌うことで生きる

しおりを挟む
 朝が来るのが、こんなに怖いと思ったのは初めてでした。

 夜明けとともに、森の中が少しずつ明るくなり、鳥たちのさえずりが戻り始めました。それなのに、私たちの胸の中にはまだ夜の冷たさが残ったままです。

 洞窟の入口で、カルベさんが静かに焚き火をおこしていました。  
 ぱちぱちと火が爆ぜ、橙の光が彼の横顔を照らし出します。  
 寝不足で少し乱れた黒髪。けれど、瞳は不思議なほど優しく光っていました。

「おはよう。少しは眠れた?」  
「……はい、少しだけ」  
 本当は、ほとんど眠れませんでした。  
 夢の中でも、燃える城の光が離れなかったのです。

 お母様はまだ休んでいました。リゼと従者の少年は疲れ果てたように丸まっています。  
 その静かな空気の中で、カルベさんが私の前に木の皿を差し出しました。

「干し肉とパン。あまりうまくはないけど、食べておくといい」  
「わあ……ありがとうございます。でも……こんな貴重なものを」  
「命のほうが貴重だよ」

 さらりとした言葉なのに、それが胸に沁みました。  
 乾いたパンをひと口かじると、なぜだか涙が出そうになったのです。  
 きっと、優しさなんて、今の私にはまぶしすぎたのだと思います。

「カルベさん……」  
「ん?」  
「昨日、助けてくださって、本当にありがとうございました。わたし――あのままだったら……」

「後悔するような顔するなよ」  
「えっ?」  
「生き延びたことを、悪いことだなんて思わないようにな」

 彼の声は穏やかでした。  
 けれど、静かな火の音に混じってその言葉が落ちるたび、心の奥が少しずつ温まっていくのを感じました。

****

 それから数日、私たちはカルベさんたちの一座と行動をともにしました。

 荷馬車に乗り、時には野原で夜を明かし、村に着いては薪を割ったり、食材を分け合ったり。  
 王城で絹のドレスを着ていた頃の私は、まるで別人です。

「おいエミ……じゃなかった、王女様、そっちの木箱持てるか?」  
 筋骨隆々の団長さん――モルスさんが笑います。  
「も、持てます! 大丈夫です!」  
 やけに明るく答えたものの、実際は全然重くて、腕がぷるぷる震えていました。  
 その様子を見て、カルベさんが苦笑しました。

「無理するなって。こっち貸して」  
「だ、大丈夫です!」  
「はいはい、わかった。でも倒れたら置いてくからな?」  
「ひどいです、冗談でも!」  
「冗談とは言ってないよ」

 そう言って、彼は軽々と木箱を肩に担ぎました。  
 筋肉が動くたび、シャツの袖口から日焼けした肌がちらりと見え――  
 あ、いけない。思わず目をそらしてしまいました。

「どうした?」  
「な、なんでもありませんっ!」

 そんなやりとりに、リゼが小声で「若いっていいですねえ」とつぶやき、私の顔がますます熱くなりました。

****

 その日の夕暮れ、モルスさんが言いました。  
「今夜はこの辺りの村で興業をしよう。歌い手が増えたとなれば、客も呼べる」

「歌い手って、まさか……」  
「エミース。君のことだよ」  
 カルベさんが、わざと軽く言うように笑います。  
 その呼び名に、私は驚いて瞬きをしました。

「エミース……?」  
「そう。もう“王女”じゃないだろ? これからは旅芸人の仲間として生きるんだから、新しい名前が必要だ」  
「でも、そんな急に……」  
「似合うと思うよ。君のみたいに柔らかくて、強い響きだ」

 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がふわりと揺れました。  
 ミルフィーユという名を捨てるのは、ひどく寂しいことのはずなのに。  
 なのに、なぜだろう――その響きが、少しだけ希望の光みたいに思えたのです。

****

 村の広場では、夕陽が西の空を染めていました。  
 子どもたちが走り回り、農夫たちが店を閉じ、奥さんたちが夕食の支度をしている。  
 そんな穏やかな風景が広がっていて、私は久しぶりに人の笑い声を聞きました。

 木製の小さな舞台の上に立つ自分の姿を見つめながら、手が震えました。  
 カルベさんがすぐ側で弦を調整しています。

「緊張してる?」  
「と、とても」  
「大丈夫。僕が伴奏する。目を閉じて、君が一番好きな歌を思い出すんだ」  
「好きな歌……」

 私は深く息を吸い込みました。   
 失ったもの全部を、もう一度抱きしめるように。

 声を上げた瞬間、周囲のざわめきが止みました。  
 まるで世界が私の歌に耳を傾けてくれるみたいで。  
 胸の奥の痛みが、少しずつ溶けていくのを感じました。


♪悲しみはそっと 風に溶けるの  
 つまずいた日々も 君がいれば  
 小さな手のひら 重ねた時に  
 弱虫な心に 陽射しが灯る


 遠ざかる雲に 不安を預けて  
 君の隣なら 歩いてゆける  
 あの日の涙も 明日の笑顔も  
 すべてが宝物 ここにあるよ


 寄せる風が 未来を撫でる  
 季節をめぐって ふたりは変わる


 流れ星 願いを乗せて  
 君のため歌うよ 永遠に  
 優しさが強さに かわるその瞬間  
 風と踊るよ 君と♪



 歌い終えると、人々から拍手が起こりました。  
 まぶしいくらいの笑顔が広場いっぱいに咲いていました。

「ほら、言っただろ?」  
 カルベさんが小さく笑いました。  
 その笑顔を見た瞬間、涙がこみ上げそうになって――私は思わず口を押さえました。

「泣くなよ。うまくいったんだから」  
「わ、わかってます……でも……」  
「でも?」  
「嬉しくて、なんだか変なんです」

 カルベさんがふっと笑って、優しく私の手に触れました。  
 その手はあたたかくて、指先の震えまで伝わってくるようでした。  
 心臓がまたどくんと鳴りました。

「生きている実感って、こういうことなんだな」  
 彼の低い声が、夕暮れの風の中で溶けていきます。

****

 その夜、焚き火を囲んで一座は陽気に歌いました。  
 モルスさんが冗談を飛ばし、笛吹きの少女たちが笑い転げています。

 私は少し離れた場所で、空を見上げていました。  
 満天の星の中に、焦げた塔の影がうっすら蘇ります。  
 でも、あの時のような絶望ではなく、ただ、遠い記憶のひとつになりつつありました。

「エミース」  
 背後から声がして振り向くと、カルベさんがいました。  
 焚き火の光が彼の横顔を赤く染めています。

「今日はよく頑張ったな」  
「はい。でも……カルベさんのギターがなければ、きっと声が出ませんでした」  
「なら、いい相棒になれたってことで」  

 そう言って、カルベさんは私の髪をそっと撫でました。  
 柔らかな指先が髪をくすぐるように滑り、思わず息をのみます。  
 心臓が跳ねて、視線が離せなくなりました。

「これからどうしますか?」  
「しばらくはこの一座で旅をしながら、北に向かう」  
「北……」  
「君の言ってた隣国シリウス方面だ」

「…………」  
 その一言に、胸が熱くなりました。  
   
 けれど、旅を終えてもカルベさんと離れたくない――そんなわがままな思いも、確かに胸の奥にありました。

「ありがとう、カルベさん」

 彼は火の向こうで、静かに微笑みました。  
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

龍王の番〜双子の運命の分かれ道・人生が狂った者たちの結末〜

クラゲ散歩
ファンタジー
ある小さな村に、双子の女の子が生まれた。 生まれて間もない時に、いきなり家に誰かが入ってきた。高貴なオーラを身にまとった、龍国の王ザナが側近二人を連れ現れた。 母親の横で、お湯に入りスヤスヤと眠っている子に「この娘は、私の○○の番だ。名をアリサと名付けよ。 そして18歳になったら、私の妻として迎えよう。それまでは、不自由のないようにこちらで準備をする。」と言い残し去って行った。 それから〜18年後 約束通り。贈られてきた豪華な花嫁衣装に身を包み。 アリサと両親は、龍の背中に乗りこみ。 いざ〜龍国へ出発した。 あれれ?アリサと両親だけだと数が合わないよね?? 確か双子だったよね? もう一人の女の子は〜どうしたのよ〜! 物語に登場する人物達の視点です。

「陛下、子種を要求します!」~陛下に離縁され追放される七日の間にかなえたい、わたしのたったひとつの願い事。その五年後……~

ぽんた
恋愛
「七日の後に離縁の上、実質上追放を言い渡す。そのあとは、おまえは王都から連れだされることになる。人質であるおまえを断罪したがる連中がいるのでな。信用のおける者に生活できるだけの金貨を渡し、託している。七日間だ。おまえの国を攻略し、おまえを人質に差し出した父王と母后を処分したわが軍が戻ってくる。そのあと、おまえは命以外のすべてを失うことになる」 その日、わたしは内密に告げられた。小国から人質として嫁いだ親子ほど年齢の離れた国王である夫に。 わたしは決意した。ぜったいに願いをかなえよう。たったひとつの望みを陛下にかなえてもらおう。 そう。わたしには陛下から授かりたいものがある。 陛下から与えてほしいたったひとつのものがある。 この物語は、その五年後のこと。 ※ハッピーエンド確約。ご都合主義のゆるゆる設定はご容赦願います。

【完結】ひとつだけ、ご褒美いただけますか?――没落令嬢、氷の王子にお願いしたら溺愛されました。

猫屋敷 むぎ
恋愛
没落伯爵家の娘の私、ノエル・カスティーユにとっては少し眩しすぎる学院の舞踏会で―― 私の願いは一瞬にして踏みにじられました。 母が苦労して買ってくれた唯一の白いドレスは赤ワインに染められ、 婚約者ジルベールは私を見下ろしてこう言ったのです。 「君は、僕に恥をかかせたいのかい?」 まさか――あの優しい彼が? そんなはずはない。そう信じていた私に、現実は冷たく突きつけられました。 子爵令嬢カトリーヌの冷笑と取り巻きの嘲笑。 でも、私には、味方など誰もいませんでした。 ただ一人、“氷の王子”カスパル殿下だけが。 白いハンカチを差し出し――その瞬間、止まっていた時間が静かに動き出したのです。 「……ひとつだけ、ご褒美いただけますか?」 やがて、勇気を振り絞って願った、小さな言葉。 それは、水底に沈んでいた私の人生をすくい上げ、 冷たい王子の心をそっと溶かしていく――最初の奇跡でした。 没落令嬢ノエルと、孤独な氷の王子カスパル。 これは、そんなじれじれなふたりが“本当の幸せを掴むまで”のお話です。 ※全10話+番外編・約2.5万字の短編。一気読みもどうぞ ※わんこが繋ぐ恋物語です ※因果応報ざまぁ。最後は甘く、後味スッキリ

【完結】以上をもちまして、終了とさせていただきます

楽歩
恋愛
異世界から王宮に現れたという“女神の使徒”サラ。公爵令嬢のルシアーナの婚約者である王太子は、簡単に心奪われた。 伝承に語られる“女神の使徒”は時代ごとに現れ、国に奇跡をもたらす存在と言われている。婚約解消を告げる王、口々にルシアーナの処遇を言い合う重臣。 そんな混乱の中、ルシアーナは冷静に状況を見据えていた。 「王妃教育には、国の内部機密が含まれている。君がそれを知ったまま他家に嫁ぐことは……困難だ。女神アウレリア様を祀る神殿にて、王家の監視のもと、一生を女神に仕えて過ごすことになる」 神殿に閉じ込められて一生を過ごす? 冗談じゃないわ。 「お話はもうよろしいかしら?」 王族や重臣たち、誰もが自分の思惑通りに動くと考えている中で、ルシアーナは静かに、己の存在感を突きつける。 ※39話、約9万字で完結予定です。最後までお付き合いいただけると嬉しいですm(__)m

婚約破棄したら食べられました(物理)

かぜかおる
恋愛
人族のリサは竜種のアレンに出会った時からいい匂いがするから食べたいと言われ続けている。 婚約者もいるから無理と言い続けるも、アレンもしつこく食べたいと言ってくる。 そんな日々が日常と化していたある日 リサは婚約者から婚約破棄を突きつけられる グロは無し

いつか優しく終わらせてあげるために。

イチイ アキラ
恋愛
 初夜の最中。王子は死んだ。  犯人は誰なのか。  妃となった妹を虐げていた姉か。それとも……。  12話くらいからが本編です。そこに至るまでもじっくりお楽しみください。

婚約者を奪った妹と縁を切ったので、家から離れ“辺境領”を継ぎました。 すると勇者一行までついてきたので、領地が最強になったようです

藤原遊
ファンタジー
婚約発表の場で、妹に婚約者を奪われた。 家族にも教会にも見放され、聖女である私・エリシアは “不要” と切り捨てられる。 その“褒賞”として押しつけられたのは―― 魔物と瘴気に覆われた、滅びかけの辺境領だった。 けれど私は、絶望しなかった。 むしろ、生まれて初めて「自由」になれたのだ。 そして、予想外の出来事が起きる。 ――かつて共に魔王を倒した“勇者一行”が、次々と押しかけてきた。 「君をひとりで行かせるわけがない」 そう言って微笑む勇者レオン。 村を守るため剣を抜く騎士。 魔導具を抱えて駆けつける天才魔法使い。 物陰から見守る斥候は、相変わらず不器用で優しい。 彼らと力を合わせ、私は土地を浄化し、村を癒し、辺境の地に息を吹き返す。 気づけば、魔物巣窟は制圧され、泉は澄み渡り、鉱山もダンジョンも豊かに開き―― いつの間にか領地は、“どの国よりも最強の地”になっていた。 もう、誰にも振り回されない。 ここが私の新しい居場所。 そして、隣には――かつての仲間たちがいる。 捨てられた聖女が、仲間と共に辺境を立て直す。 これは、そんな私の第二の人生の物語。

【完結】エレクトラの婚約者

buchi
恋愛
しっかり者だが自己評価低めのエレクトラ。婚約相手は年下の美少年。迷うわー エレクトラは、平凡な伯爵令嬢。 父の再婚で家に乗り込んできた義母と義姉たちにいいようにあしらわれ、困り果てていた。 そこへ父がエレクトラに縁談を持ち込むが、二歳年下の少年で爵位もなければ金持ちでもない。 エレクトラは悩むが、義母は借金のカタにエレクトラに別な縁談を押し付けてきた。 もう自立するわ!とエレクトラは親友の王弟殿下の娘の侍女になろうと決意を固めるが…… 11万字とちょっと長め。 謙虚過ぎる性格のエレクトラと、優しいけど訳アリの高貴な三人の女友達、実は執着強めの天才肌の婚約予定者、扱いに困る義母と義姉が出てきます。暇つぶしにどうぞ。 タグにざまぁが付いていますが、義母や義姉たちが命に別状があったり、とことんひどいことになるザマァではないです。 まあ、そうなるよね〜みたいな因果応報的なざまぁです。

処理中です...