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 わたしの脳裏にトマス様との楽しかった想い出がよみがえってきました。

 いっしょに屋敷で宝探しごっこをしたことや、追いかけっこをしたこと。ほかの子どもにいじめられた時に、追い払ってくれたこと。そして誕生日会で二人きりで踊った後でこっそり会場から抜け出し、星座がきらめく誰もいないバルコニーで、そっと秘密のファーストキスをしたこと……。

 夢のはずなのに次第に彼の口がだんだんわたしの顔面に迫ってきて、

「ぷはっ……! ごほっ!」

 わたしは口から水を吐き出して、大きく咳をしました。

 午後の昼近くになっていました。先ほどの晴れ間から灰色の雲がただよっています。

 わたしは岸辺に寝かされていました。ずぶ濡れのトマス様に介抱されていたのです。

 トマス様は「手間かけさせるなよ……」と息をつき、わたしをそっと抱き寄せました。

「……ごめんね」

 わたしはホッとした途端、ぼろぼろと涙が頬をなぞりました。

「まったく、泣き虫は昔から変わらないな」

「トマスは……泣かせ上手なんだよ」 

 わたしはここぞとばかりに彼のたくましい肩にしがみついて、大泣きしました。トマス様はだまって肩を貸してくれました。

 わたしの気持ちが落ち着いたころ、

「……寒いか?」
 
 トマス様が、優しい眼差しでわたしを見つめます。

「まだ……足りない……かな?」

 わたしは嘘をついて、トマス様にしがみつきました。

「ほんとうに、わたしと別れたい?」

 わたしはトマス様の耳元でつげました。

「ぼくと別れたほうが、きっと幸せになれるはずだよ、エメリー」

「……?」

(なにをおそれてるの? トマス様?)

 トマス様は、わたしの背中ごしにひろがる湖畔を見ていました。彼の瞳に、小型のボートのシルエットが映っていました。

***

 船員たちに救助されたわたしたちは、帆船で元の桟橋へもどってきました。

「トマス様ったら! 急にエメリー嬢を追って飛び込むなんて。気が知れていてよ!」

 エザベル嬢は水に突き落としたわたしには謝りもせず、トマス様にかけよって抱きしめました。

「エメリー嬢、何しろ君に怪我がなくてよかった」

 代わりにわたしをなぐさめてくれたのはアレクセイ様と、女友達たちでした。そして、アレクセイ様はエザベル嬢と横にいるトマス様を横目で見ながら、

「もう、あのふたりには近づかない方が身のためだよ。きみをめのかたきにしているからね」

と言うと、(その時、先日エザベル嬢が学校で木陰で歯ぎしりをしていた話もききました)、それぞれ足早に馬車に乗って帰っていきました。

 残ったのは、エザベル嬢とトマス様、そして帰りそびれた婚約者のわたしです。

「トマス様、もしよかったら、来月に別荘で盛大な夜会をするの。ぜひ、いらしてちょうだいよ」

 トマス様の首に腕を回しデレデレのエザベル嬢に、わたしはぐっと胸をはって近づいていきました。

「はなれてくださいませんか、わたしのトマス様に。今はわたしの婚約者なんです」

「……」

 エザベル嬢はポカンと口を開けていましたが、「ふーん」とつぶやいて、わたしを馬鹿にしたような目つきで眺め回した後で、

「それはごめんなさい。たしかに、エメリー様はまだトマス様の婚約者でしたわ」

とトマス様から腕をときました。

「でしたらお二人を夜会にお招きします。そうだわ、婚約者のために晴れの舞台を用意しますわよ」

 そう言うと、意味深な笑顔を浮かべて、エザベル嬢は馬車に乗って去って行きました。
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