上 下
3 / 95
屋上で出会った青年

しおりを挟む
 光子は鍵を開け、玄関で靴を脱ぎ捨てると、母、万智の真珠のネックレスを化粧机の引き出しにしまった。

 広々としたリビングに、黒い大きなグランドピアノがある。わざわざ、イタリアの職人が作ったそうだが、光子は一度も触れたことがなかった。

 父、源治の形見として置いてあるだけだ。なぜかは知らないが、光子にはその黒光りする物体が恐ろしいモンスターに思えてしかたない。

 母の万智は、光子を産んですぐに息を引き取った。だから直接顔を見たことも、触れたこともない。もともと体が弱い上に、40才という高齢での出産だった。

 すでに39歳で、出産時には胸に悪性の腫瘍があった。とても産めるような体ではなかった。

 子どもを産むのはやめなさい。

 叔父をはじめ、そんな周囲の猛反発をよそに、本人は動じることはなかったようである。膨らんだお腹を撫でながらしきりに、母胎の中の私に何かを話しかけていたと、叔父から聞かされた。

 ピンク色の化粧机も母親譲りだ。楕円形の鏡に映る自分の顔を、光子はまじまじと見てみる。色白の肌、目鼻立ちの整った、卵形の顔立ち。

 右頬の小さなホクロ、気に入らない、厚ぼったい唇、細めの切れ長の瞳。
 少し口元を丸めてみる。まるで白い仮面を被った女みたいだ。
 
 光子は姿見を眺めながら、今晩のホテルで開催されたパーティー会場での出来事を、思い出していた。
 
「万智が生き返ったようだ」と、叔父がだるまのように丸い顔に、しわくちゃの笑顔を浮かべて光子のもとへ駆け寄って来た。

 叔父、加藤賢治。

 とっくに60才は越えているはずなのに、広いパーティー会場を、小さな、ずんぐりした体でちょこまかと駆け回る。まさにバイタリティーに溢れた人物だ。
しおりを挟む

処理中です...