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愛情と実験

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 8月に入って、日差しがますます厳しい。
 相変わらず、『黒テント』の面々は、『営業活動』と稽古に勤しんでいる。

 光子はほとんど幻覚が現れなくなっていたから、薬を飲むことをやめていた。

 登といつも一緒だったせいかも知らない。
 一緒にいるだけで不思議と安心できた。

 炎々と照りつける中でのゴミ拾いは、身体に堪えた。

 ふらふらと倒れそうになると、必ず登が心配そうに声を掛け、水筒の水を飲ませてくれた。

 老人ホームに行って、ちょっとした寸劇を披露したこともあった。

 ある日、元気がないという老人の噂を耳にして、光子は登に連れられて訪問することにした。

「最近、身内にご不幸があったんですよ」

 緑ヶ丘市の田園地区を歩きながら、登は言った。

 田園地区は市内でも高級住宅地として知られている。

「詐欺事件に遭われましてね。ご主人はショックで亡くなりました。自殺だったそうです」

 光子は、探偵事務所から出てきた老婦人を思い出した。

 玄関に『神童』という表札がある。

 敷地は高い塀に覆われていて、中をうかがうことはできない。

 インターホンを押すと、戸口に小柄な青年が現れた。

「郡山さん…」

 光子の呼びかけに、彼は眉1つ動かさなかった。

 お馴染みの野球帽に長く伸びた髪。表情を読み取ることは出来ない。

 登には郡山のことを、同じ病院の患者とだけ言った。

 玄関に入って、光子は唖然とした。

 廊下はゴミ袋で一杯だった。

 それをかき分けながら進んでいくと、庭の縁側にいる老婦人を見つけた。

 風鈴の音がカランカランと鳴っている。和服姿で、白髪は羊の毛のように丸まっている。

 老婦人は気づいて、品がよさそうな笑顔を向けた。

 確かに事務所で見た夫人だ。
丸い眼鏡を掛けていて、とても整った顔立ちをしている。
「お元気そうで安心しました」

 登は彼女の横に腰かけた。
 光子も登の隣に座った。

 郡山が、お盆から冷たいお茶と菓子をお盆に載せて来た。
 それを置くと、一礼して去る。

「不幸とは急にわが身に来るものですわね。一番遠いと思っていましたのに」と、神童は溜息まじりに言った。
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