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第一章:辺境令嬢と埃を被った計算式
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「……はあ。またですか」
思わず漏れたため息は、埃っぽい資料室の空気に白く溶けて消えました。
わたしの目の前には、うずたかく積まれた書類の山。それもただの書類ではありません。このヴァレンティナ領を救うための「起死回生の灌漑計画書」と「減税案」です。
それを、たった今、王都から赴任してきたばかりのバルドレイン伯爵に、鼻で笑い飛ばされてきたところなのです。
「女の浅知恵、か。……ふふ、あんなに分厚い贅肉に、わたしの計算式の何がわかるというのかしら」
わたしはこめかみを指先で押さえました。
二十二歳、エリシア・ヴァレンティナ。亡き父の跡を継ぎ、この辺境の地を守るべく奮闘中の身です。趣味は帳簿の整合性を確認すること。特技は農地の土質改善。華やかな夜会よりも、堆肥の配合を考えている方がずっと落ち着く……なんて、令嬢としては終わっている自覚はあります。
でも、領民たちの飢えた顔を見るよりは、泥にまみれている方がよっぽどマシなのです。
「お嬢様、またそんな顔をして。眉間にシワが寄っていますよ」
背後からかけられた低く心地よい声に、わたしは肩をびくりと震わせました。
振り返ると、そこには窓から差し込む夕日に照らされた、一人の青年が立っていました。
「アルトゥール……。いつからそこに?」
「『あんなに分厚い贅肉に』あたりからでしょうか」
彼は困ったような、でもどこか楽しげな微笑を浮かべて歩み寄ってきます。
アルトゥール。伯爵の随行官として王都からやってきた男。
無愛想で、何を考えているのか読めない瞳をしていますが、その立ち居振る舞いには隠しきれない気品が漂っています。正直、このボロい屋敷には不釣り合いなほど、彼は「整いすぎて」いました。
「……聞いていたのね。お恥ずかしいところを」
「いえ。事実でしょう。伯爵は数字に疎い。……ですが、この資料は違います」
彼は机の上に散らばったわたしの書き付けに、そっと指を触れました。
節くれだった、でも綺麗な、男の人の手。
彼が指し示したのは、わたしが一番苦労した「水路の勾配計算」の箇所でした。
「ここの計算、実に見事だ。周辺の地質まで考慮に入れている。これなら、最小限の予算で村の端まで水が行き渡る。……あなたは、本当にこの領地を愛しているんですね」
心臓が、どきりと跳ねました。
伯爵には「女が数字をいじるな」と罵られ、領主代行としてのわたしの努力は、誰にも見向きもされないものだと思っていました。
それなのに、出会ったばかりのこの随行官は、わたしの夜なべの成果を、その価値を、正確に見抜いてみせたのです。
「……わかるの? あなたに、これが」
「わかりますよ。嘘をつけない性格(たち)なもので」
アルトゥールは、わたしの顔をじっと見つめました。
その真っ直ぐな視線に耐えきれず、わたしは慌てて視線を帳簿に戻します。
すると、彼は何を思ったのか、わたしの隣に座り込み、ふわりとわたしの髪に触れました。
「えっ……?」
「埃がついていましたよ。……あまり、根を詰めすぎないでください。あなたの瞳が曇るのは、この領地にとって最大の損失ですよ」
耳元で囁かれた低く甘い声。
頬に触れそうなほど近い彼の距離感に、頭の中が真っ白になります。
さっきまでの怒りも、疲れも、どこか遠くへ飛んでいってしまいそう。
「な、何を……っ。わたしは、ただ、父様の遺志を……!」
「わかっています。だからこそ、俺が──いえ、僕が力になりましょう」
彼は悪戯っぽく微笑むと、わたしの手からペンをひょいと取り上げました。
そして、白紙の紙にスラスラと何かを書き込み始めます。それは、伯爵が好む「虚飾に満ちた、でも中身はわたしの案」という、見事な偽装工作の草案でした。
「あいつの鼻を明かすには、少しばかりの『毒』と『花』が必要です。エリシア様、共同作業といきませんか?」
その言葉に、わたしは毒気を抜かれたように笑ってしまいました。
この男、ただの随行官じゃない。
得体の知れない怪しさと、抗い難い魅力。
でも、冷え切っていたわたしの指先に、彼の手が重なった瞬間、確信しました。
この戦い、わたしは一人じゃないのだと。
「さあ、エリシアさん。作戦会議の続きをしましょうか。……今夜は、長くなりますよ?」
アルトゥールがわたしの指先を優しく握り、引き寄せます。
思わず漏れたため息は、埃っぽい資料室の空気に白く溶けて消えました。
わたしの目の前には、うずたかく積まれた書類の山。それもただの書類ではありません。このヴァレンティナ領を救うための「起死回生の灌漑計画書」と「減税案」です。
それを、たった今、王都から赴任してきたばかりのバルドレイン伯爵に、鼻で笑い飛ばされてきたところなのです。
「女の浅知恵、か。……ふふ、あんなに分厚い贅肉に、わたしの計算式の何がわかるというのかしら」
わたしはこめかみを指先で押さえました。
二十二歳、エリシア・ヴァレンティナ。亡き父の跡を継ぎ、この辺境の地を守るべく奮闘中の身です。趣味は帳簿の整合性を確認すること。特技は農地の土質改善。華やかな夜会よりも、堆肥の配合を考えている方がずっと落ち着く……なんて、令嬢としては終わっている自覚はあります。
でも、領民たちの飢えた顔を見るよりは、泥にまみれている方がよっぽどマシなのです。
「お嬢様、またそんな顔をして。眉間にシワが寄っていますよ」
背後からかけられた低く心地よい声に、わたしは肩をびくりと震わせました。
振り返ると、そこには窓から差し込む夕日に照らされた、一人の青年が立っていました。
「アルトゥール……。いつからそこに?」
「『あんなに分厚い贅肉に』あたりからでしょうか」
彼は困ったような、でもどこか楽しげな微笑を浮かべて歩み寄ってきます。
アルトゥール。伯爵の随行官として王都からやってきた男。
無愛想で、何を考えているのか読めない瞳をしていますが、その立ち居振る舞いには隠しきれない気品が漂っています。正直、このボロい屋敷には不釣り合いなほど、彼は「整いすぎて」いました。
「……聞いていたのね。お恥ずかしいところを」
「いえ。事実でしょう。伯爵は数字に疎い。……ですが、この資料は違います」
彼は机の上に散らばったわたしの書き付けに、そっと指を触れました。
節くれだった、でも綺麗な、男の人の手。
彼が指し示したのは、わたしが一番苦労した「水路の勾配計算」の箇所でした。
「ここの計算、実に見事だ。周辺の地質まで考慮に入れている。これなら、最小限の予算で村の端まで水が行き渡る。……あなたは、本当にこの領地を愛しているんですね」
心臓が、どきりと跳ねました。
伯爵には「女が数字をいじるな」と罵られ、領主代行としてのわたしの努力は、誰にも見向きもされないものだと思っていました。
それなのに、出会ったばかりのこの随行官は、わたしの夜なべの成果を、その価値を、正確に見抜いてみせたのです。
「……わかるの? あなたに、これが」
「わかりますよ。嘘をつけない性格(たち)なもので」
アルトゥールは、わたしの顔をじっと見つめました。
その真っ直ぐな視線に耐えきれず、わたしは慌てて視線を帳簿に戻します。
すると、彼は何を思ったのか、わたしの隣に座り込み、ふわりとわたしの髪に触れました。
「えっ……?」
「埃がついていましたよ。……あまり、根を詰めすぎないでください。あなたの瞳が曇るのは、この領地にとって最大の損失ですよ」
耳元で囁かれた低く甘い声。
頬に触れそうなほど近い彼の距離感に、頭の中が真っ白になります。
さっきまでの怒りも、疲れも、どこか遠くへ飛んでいってしまいそう。
「な、何を……っ。わたしは、ただ、父様の遺志を……!」
「わかっています。だからこそ、俺が──いえ、僕が力になりましょう」
彼は悪戯っぽく微笑むと、わたしの手からペンをひょいと取り上げました。
そして、白紙の紙にスラスラと何かを書き込み始めます。それは、伯爵が好む「虚飾に満ちた、でも中身はわたしの案」という、見事な偽装工作の草案でした。
「あいつの鼻を明かすには、少しばかりの『毒』と『花』が必要です。エリシア様、共同作業といきませんか?」
その言葉に、わたしは毒気を抜かれたように笑ってしまいました。
この男、ただの随行官じゃない。
得体の知れない怪しさと、抗い難い魅力。
でも、冷え切っていたわたしの指先に、彼の手が重なった瞬間、確信しました。
この戦い、わたしは一人じゃないのだと。
「さあ、エリシアさん。作戦会議の続きをしましょうか。……今夜は、長くなりますよ?」
アルトゥールがわたしの指先を優しく握り、引き寄せます。
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