偽りの名で舞踏会に出た令嬢は、冷酷公爵に捕まりましたが、なぜか寵愛が止まらなくなりました。

朝日みらい

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第1章 身代わりの命令

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 朝の光が差し込むたび、木の梁の影がゆらいで、小鳥の声が遠くから聞こえてきます。  
 けれど、ここは風の通り道みたいなもので──暖かさには縁がありません。  

 わたしの部屋は屋根裏のいちばん奥にあります。  
 使われなくなった物置を少しだけ片づけて、寝台に古い毛布を敷いただけ。  
 それでも、この部屋がいちばん落ち着くんです。下の階に行けば怒鳴り声が飛んでくるから。

(ここなら誰にも呼ばれない。少なくとも、ひとときは)

 そう思って、わたしは朝の冷たい風に手を伸ばしました。  
 洗濯物のシーツがばさりと鳴って、干した指先がかじかみます。  
 その感触が好きなんです。痛いのに、ちゃんと“生きてる”感じがして。

 でも、そんな時間は長く続きません。  
「エレノア! 朝食の支度はできてるのかしら!」  
「すぐに参ります、お嬢さま!」  

 声を返すと同時に、心の中では深く息を吐きました。  
 見下ろせば、廊下を走る使用人たちの姿。  
 わたしも“使用人”のうちに入るのかもしれません。けれど、彼らのように給金は出ませんし、名前で呼ばれることもほとんどないのです。  

 朝はパンを焼き、お嬢さまの靴を磨いて、紅茶を沸かし、廊下の埃を拭きます。  
 昼になれば庭掃除。夜になればドレスのほころび直し。  
 気づけば一日が終わって、屋根裏に戻る頃には指がすっかり荒れてしまいます。

 でも、誰にも見せません。  
 だって、「不満を顔に出す子」ほど、扱いにくい存在はいませんから。

(怒らせないように、傷つかないように。笑っていればきっと、今日も無事に終わる)

 わたしはいつものように鏡の前で、にこりと口角を上げました。  
 それが、わたしの“おまもり”です。  

***

 その日も、いつもと変わらないはずだったのに――。

「エレノア。あなた、今夜ひと仕事しなさい」

 義姉のクラリッサさまが、ふとそんなことをおっしゃったのです。  
 つややかな金髪をくるりと巻き上げながら、鏡の中のご自分に微笑みかけています。

「……ひと仕事、ですか?」

「ええ。仮面舞踏会。ヴァルデリオ公爵の主催よ。わたし、気が進まないの。だからあなた、代わりに出席してきて」

「えっ……」

 一瞬、耳を疑いました。  
 けれどお嬢さまは当たり前のようにティーカップを傾けています。  
 まるで“ゴミを拾ってきて”と言うみたいに。

「仮面舞踏会ですもの。顔は隠れるわ。あなた、私に似てるでしょう? 髪を巻いて仮面をつければ、どうせ誰も気づかないわよ」

 そう言いながら、満足そうに紅を差しています。  
 その鏡越しの笑顔があまりにも美しくて、何も言い返せませんでした。  

「……わたしなんかで、よろしいのですか?」

「庶子なんだから、それくらい役に立つのが当然でしょ?」

 刺すような言葉。  
 けれど痛みより先に、口元が笑っていました。  
 わたしは笑うことでしか、自分を守れない。  
 だから、いつも通りに微笑みながら頭を下げました。

「はい。わかりました、お嬢さま」

***

 その夜。  
 屋根裏の鏡の前で、義姉のお古のドレスを身につけてみました。  
 多少ほつれているけれど、わたしには十分すぎるほどきれいでした。  
 胸元の飾りを整え、何度も練習のように名乗ります。

「クラリッサ・リーヴェンです……。  
 ええ、クラリッサ・リーヴェン、です……」

 声に出すたび、胸がきゅうっと締めつけられました。  
 “わたし”が薄れていく気がして、でもそれが少しだけ怖くなかったんです。  
 本当の名前ではない方が、何も期待されないし、傷つかないから。  

(もし、だれにも気づかれないまま夜が終わったら……それはそれで、少し幸せかもしれませんね)

***

 公爵邸の夜会は、夢のようでした。  
 眩しい光に包まれ、人々の笑い声が波のように押し寄せます。  
 胸がぎゅっと縮こまり、思わず仮面を直してうつむきました。

「クラリッサ・リーヴェン様でいらっしゃいますね」

 案内役の執事がそう告げた瞬間、心臓がどくんと鳴りました。  
 偽りの名前で呼ばれることが、こんなにも重たく響くなんて。

「……はい、そうです」

 かすれた声で答え、広いホールに足を踏み入れると、空気がふっと変わりました。  
 皆がわたしを遠巻きに見ています。  
 華やかな令嬢たち。堂々と笑う貴族の紳士たち。  
 きっと、この中でいちばん場違いなのは、わたし。

(笑っていれば、きっと大丈夫)

 そう信じて、いつものように笑みを浮かべた、その瞬間――。

「おや。まさか来るとは思っていなかった」

 落ち着いた低い声が耳に届きました。  
 振り向けば、そこに立っていたのは。  

 アレクシス・ヴァルデリオ公爵。  
 その名を聞いた瞬間、胸に冷たい電流が走りました。  
 義姉が「顔も見たくない」と言っていた相手。  
 でも、実際に目にしたその人は、噂とはまったく違ってみえました。  

 鋭い灰色の瞳。凛とした横顔。  
 冷たさの奥に、まるで火花のような熱を感じてしまって。

「クラリッサ・リーヴェン嬢、でお間違いないかな?」

「は……はい。お招き、ありがとうございます、ヴァルデリオ公爵さま」

 公爵はじっとこちらを見つめ、やがて静かに眉を寄せました。  
 そして、少しだけ低く呟きます。

「……その笑顔。まるで泣いているみたいだ」

「え……?」

「失礼。こちらへどうぞ、令嬢」

 そう言って差し出された手。  
 迷った末に、その手を取りました。  
 驚くほど大きくて、温かい手。  
 指先が触れた瞬間、胸の奥で何かがはじけるように熱くなって。  

 その瞬間、彼の視線がやさしく揺れた気がしました。  
 まるで“誰か”の痛みを見抜いたように――。  

(……知られたくないのに)

 そう思ったのに。  
 なぜか、そのまま目をそらすことができませんでした。
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