偽りの名で舞踏会に出た令嬢は、冷酷公爵に捕まりましたが、なぜか寵愛が止まらなくなりました。

朝日みらい

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第2章 嫌われ公爵

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 仮面の下で息を整えても、胸の鼓動だけはどうにもならない。  
 あの灰色の瞳がこちらを見た瞬間から、どこか空気が変わってしまったように感じていました。

「……顔色が悪い。緊張しているのか?」

 アレクシス・ヴァルデリオ公爵の声は低く、硬質な響きを含んでいて、まっすぐに心の奥へ届くようでした。  
 その問いに何と答えればいいのかわからず、わたしは曖昧に笑います。

「いえ……ただ、少し人ごみに慣れていないだけです」

「そうか」

 公爵はひとつ短く息を吐き、グラスを傾けました。  
 琥珀色の液体がゆらめいて灯を映します。  
 その仕草さえどこか絵画のように整っていて、わたしは無意識のうちに視線を奪われていました。

(この方が……クラリッサお嬢さまが“嫌い”だと言った公爵様?)

 想像していた冷酷な成り上がりの貴族像とは違い、目の前の人はどこか静かで孤独な人に見えました。  
 けれど、その沈黙が怖い。  
 わたしは慌てて話題を探しました。

「……とても、素敵なお屋敷ですね。お噂通り、すべてが美しくて……まるで別世界のようで」

 すると、公爵が少しだけ口角を上げました。  
 それが微笑なのかは、よくわかりませんでした。けれど、確かに目元がやわらいだ気がして、胸が少し軽くなります。

「君はお世辞が上手だな。“クラリッサ嬢”」

「そ、そんな……!」

 心臓が跳ねて、仮面の内側まで熱くなりました。  
 ああ、駄目だわ。名前を呼ばれるたび、罪悪感で胸が詰まる。  
 本当のクラリッサさまなら、こんな風にほめ言葉を返すことも、動揺することもないのに。  
 わたしは偽物なのに。

「……ありがとうございます、公爵さま。けれど、ほんとうにそう思っただけですから」

「そうか」

 短く返された声には、どこか探るような響きが混じっていました。  
 その目に見つめられると、仮面ごしでも全てを見透かされてしまいそうで、思わず俯きます。  
 と、次の瞬間。

「失礼、少し外の風に当たらないか?」

「え……?」

 公爵はわたしの反応を待たず、グラスを置くと静かに歩き出しました。  
 あまりにも自然な仕草で、断る間もなくその背中についていきます。

***

 テラスに出ると、夜風が肌を撫でて、ほてった頬が少し冷えました。  
 星がいくつも瞬き、遠くでオーケストラの音が揺れています。  
 人の喧騒が遠のくと、心臓の音ばかりが妙にはっきりして聞こえました。

「……静かですね」

「ああ。やっと息ができる」

 そう言って公爵は欄干にもたれ、月明かりを見上げました。  
 仮面の下の表情はよくわかりません。けれどその姿には奇妙な寂しさがあって、思わず尋ねたくなります。

「……公爵さまは、このような場が苦手なのですか?」

「嫌いだ。虚飾と噂ばかりの場所だ」

 そこで、彼はわたしの方を見ました。  
 灰色の瞳が、冷たくもやわらかく光ります。

「君は、そうは見えないな。……仮面をかぶっているのに、なにも隠せていない」

「……え?」

「目だ。怯えながら笑う者の目を、俺は見慣れている」

 その瞬間、息が止まりました。  
 胸の奥を見抜かれたようで、思わず言葉を失います。  
 けれど彼の声には、責めるような響きはありませんでした。  
 むしろ、淡い痛みのようなものが混じって聞こえます。

「……怖い思いをしているのなら、無理をしなくていい。そんな笑顔を、誰かが強いたのなら——許せないことだ」

 言葉が耳に届いた瞬間、視界が滲みました。  
 どうして、そんな風に言ってくださるの。  
 だって──あなたは、わたしが“偽りの女”だなんて何も知らないのに。  

「……慣れているんです。わたし……いえ、わたくしは」

 慣れているから。  
 笑うことも、嘘をつくことも。  
 それを言った瞬間、公爵の瞳が痛いほどに鋭く光りました。

「慣れるようなことじゃない」

 彼の声が低く震えます。  
 そして、まるで何かを押さえつけるように拳を握った手が、微かに震えていました。  

 しばらくの沈黙。  
 風がカーテンのようにドレスを揺らし、夜の音がまた遠ざかります。  

 そのあと、彼はそっと息をつき、少しだけ表情を和らげました。

「……失礼した。怖がらせたな」

「いえ……」

 反射的に首を振ると、彼の指がゆっくりと伸びてきます。  
 頬にかかった一筋の髪を、やさしく払われました。  
 その仕草は、まるで壊れものに触れるようで。  
 胸の奥が熱くなって、何も言えません。  

「……風が強い。中へ戻ろう」

「……はい」

 けれど、身体が思うように動かない。  
 指先が、震えていました。  

 彼の瞳を見上げたとき、言いようのない感情に胸が締め付けられて。  
 わたしはただ、小さく息を呑むことしかできませんでした。

***

(この方は……どうして、わたしの“仮面”ごしの心を見てしまえるの)

 舞踏会の灯の中に戻りながら、そんな考えが頭から離れませんでした。  
 仮面はまだ外していないのに、あの方の前では、何もかも裸にされてしまいそうで──。  

 だから、怖いのに。  
 なぜか少しだけ、もう一度あの声を聞きたいと思ってしまいました。
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