偽りの名で舞踏会に出た令嬢は、冷酷公爵に捕まりましたが、なぜか寵愛が止まらなくなりました。

朝日みらい

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第3章 慣れているという言葉

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 舞踏会の音楽が再び流れ始めたころ、わたしはまだ胸の奥のざわめきを整えられずにいました。

 あのテラスで交わした言葉も、公爵の指先の感触も、まるで夢のように遠くて近い。  
 仮面の内側に熱がこもり、息が苦しかったのはそのせいでしょうか。  
 ……それとも別の理由?

(馬鹿みたい。わたし、なにを考えているの)

 息を詰めて胸に手を当てました。  
 鼓動が早くて、まるで逃げ出したいのに、足は勝手にあの人を探してしまう。

 でも──公爵さまがそう言ってくださったのは、わたしを“クラリッサ・リーヴェン”だと思っているから。  
 “庶子のわたし”ではない。  
 それだけは、忘れないようにしなければ。

***

「……あら、クラリッサ様。少しお加減が悪くいらっしゃるの? ずいぶん、おとなしいじゃないの」

 背中に聞き慣れた声。  
 そっと振り向くと、そこにはクラリッサさまの友人だと噂の令嬢が立っていました。  
 唇にうっすらと笑みを乗せ、目元だけは獲物を見定める猫みたいです。

「あ、いえ。大丈夫です」

「あらまあ。……奇遇ですわね、先ほどヴァルデリオ公爵とご一緒にお出になったとか? やはり“あの方”はお好みが変わっていますのね。オドオドした挙動不審の令嬢なんて、普通はお相手にもしませんわよ」

 思わず呼吸が止まりました。  
 “挙動不審”という言葉に、心臓がひとつ跳ねます。  
 それはまるで、そこに居ることを責められたような錯覚を与えました。  
 
「……あの、公爵さまは……そんなおつもりでは」

 必死で言葉を探し、愛想笑いを浮かべます。  
 でも、令嬢の目は意地悪く細められました。

「まあまあ、弁解なさらなくても。あら、挙動不審の令嬢と成り上がり令息、馬が合うのかもしれませんわよ?」

 その瞬間、胸の奥でカチリと何かが外れる音がした気がしました。  
 ああ、慣れています。  
 こういう“棘のある笑顔”にも、“あてこすり”にも。

 だから、反射的に笑ってしまいました。

「はい。……慣れていますから」

 我ながら妙な言葉が口をついて出ました。  
 でも、その笑顔はもう、心とは無関係に動くただの習性です。  
 それが終わりの合図でした。令嬢はわたしの返答に小馬鹿な笑みを見せて、くるりと踵を返します。

 残されたわたしの手が、わずかに震えていました。

***

「……慣れているとは、どういう意味だ?」

 その声が背後から聞こえた瞬間、血の気が引きました。  
 振り返ると、そこに立っていたのはアレクシス公爵。  
 まっすぐな灰色の瞳が、氷のような怒りをたたえています。

「……っ。き、聞いておられたのですか……?」

「聞くつもりはなかった。だが、君が“慣れている”と言ったのが耳に残ったもので」

 彼は一歩近づき、目線を合わせるように身をかがめました。  
 低く抑えた声が、やけに近くて息を呑みます。

「誰に、どんなことを慣れさせられた?」

 答えられませんでした。  
 言えたら楽なのに、口が動かない。  
 ほら、そういう時こそ笑えばいいんですよ、エレノア。  
 いつも通りに。

「……だいじょうぶです。お気遣いには及びません。慣れておりますので」

 そう言って笑いかけた瞬間、公爵の眉が鋭く歪みました。  
 そして、彼は迷わず手を伸ばしてきたのです。

 手の甲に触れられたかと思うと、ぐっと引き寄せられていました。  
 わたしの肩をつかんだ彼の指先は、震えていました。  
 その怒りは鋭く、でもどこか痛みを伴っていて――怖いのに温かい。

「……君のような人に“慣れ”なんて言わせる世の中が間違っているんだ」

「あ、あの……っ、離して……」

「すまない」

 我に返ったように、公爵はすぐ手を離しました。  
 でもその手の温もりが、まだ肩に残っています。  
 息苦しいのに、ほんの少しだけ名残惜しいだなんて……どうかしてます。

 公爵は一瞬だけ視線を落とし、静かに言いました。

「……俺は、君を侮辱させたくないだけだ」

「は、侮辱……? そんな、大げさなことでは」

「大げさじゃない。俺は――」

 何かを言いかけて、彼は口を閉ざしました。  
 人前でした。周囲の目がある。  
 わたしたちは同じ仮面をかぶりながら、まるでまったく違う種類の秘密を抱えて向かい合っている。

「……君は、本当にクラリッサ・リーヴェン嬢なのか?」

 その問いに、息が止まりました。  
 けれど、答えることはできません。  
 代わりにわたしは微笑みました。悲しいくらい、自然に。

「もちろんです、公爵さま」

 ああ、わたしは本当に上手になりましたね。  
 こうしてまた、嘘を笑顔に塗りかえてしまうんです。  

***

(どうして、こんなことになってしまったの)

 誰もいない廊下で、壁に背をあずけながら自分に問いかけました。  
 心臓がまだ早鐘を打っています。  
 でもそれは恐怖のせいだけではありません。  

 あの人の目を思い出すたび、胸が痛くて、苦しくて。  
 それなのに、少しだけ嬉しいなんて。  
 そんな気持ち、知らなければよかったのに。
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