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第8章:自覚
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その朝、王都に雨が降りました。
久しぶりの雨――それも、窓を曇らせるような静かな雨音です。
普段は晴天ばかりの国ですから、王宮の執務官たちも少々戸惑い気味でした。
「姫さま、今日はお部屋でお過ごしになりますか?」
「いいえ、せっかくですもの。書庫へ行って読み物を整理しておこうと思います」
「外、濡れますよ?」
「屋根のある渡り廊下を使えば平気ですわ」
わたしは笑って答えました。
傘を差すにも優雅な構造の宮廷庭園。
雨粒の音が白い小石を打つのを聞いているうちに、なぜか胸の内まで落ち着いてしまいます。
(雨の日は……感情が静かに溶けるよう)
***
ところが、書庫に近づくころには雨脚が強まり、渡り廊下から外庭の一部を通らざるを得ませんでした。
屋根の切れ間を見上げて、私は小さく息をつきました。
「急ぎましょう。少し濡れたところで」
と、そこへ。
「――傘をお探しですか?」
聞き慣れた低い声。
振り向けば、灰銀の瞳。
いつのまにかリオネル殿下が立っていました。
「殿下……」
「こちらをどうぞ」
差し出されたのは、銀の装飾が施された深青の傘。
「ご準備がいいのですね」
「雨の日は嫌いじゃありませんから」
ふわり。
傘が開かれ、わたしの頭上を覆った瞬間。
近い。
彼の肩が触れそうな距離で、濡れた空気と香水の香りが混じる。
胸が、ほんのわずかに高鳴りました。
「殿下、護衛までご自分で?」
「今日は少し、息抜きをしたくて」
「息抜き、ですか?」
「……あなたとなら、雨の中の静けさも悪くない」
「なっ……」
思わず口を開きかけて、飲み込む。
いつもの軽口だとわかっているのに、言葉のひとつひとつが甘すぎる。
***
小さな石橋を渡っていると、足元の苔で滑ってしまい、体が前に傾きました。
けれど次の瞬間、腰に柔らかな感触。
リオネルの手が、しっかりと支えていました。
「危ない」
「す、すみません!」
「大丈夫。――ほら、もう少しゆっくりで」
その手が、一瞬だけ私を離さない。
距離が近いまま、灰銀の瞳が覗き込む。
雨音がやけに静かに聞こえました。
「……心臓の音が、聞こえます」
「えっ?」
彼がほのかに笑う。
「ご安心を。私の方です」
……嘘。
その声、すごく冷静だったのに。
けれど、ほんの一瞬。
彼の指先が髪に触れ、濡れたほつれを払った。
それだけで、頭の中が真っ白になる。
(……触れないはずの人なのに)
***
書庫に着くころには、頬が熱く、冷たい雨がむしろ心地よいほどでした。
彼は入り口で傘を閉じ、私の肩を軽く払うと、
「濡れたままでは風邪を引きます。すぐお着替えを」
「はい……殿下は?」
「私は平気です。けれど――」
躊躇してから、彼は私の右手を見て眉を寄せました。
いつの間にか、小さな擦り傷ができていたのです。
「ああ……これくらい、大したことでは」
「いいえ」
彼は懐から絹のハンカチを取り出して、そっと包み込みました。
柔らかな布越しに、指先が絡まる。
たった数秒。
でも呼吸が止まりそうになった。
「優しくしすぎたら、あなたに嫌われる気がして」
「……え?」
「だから距離を取っていた。けれど……あなたは、強い方だ。もう心配いりません」
不意に見上げた瞳が、まるで雨雲の切れ間のように澄んで見えた。
***
部屋に戻ってからも、その光景が頭から離れません。
セラがタオルを持って走り寄ってきました。
「姫さま! 髪、濡れてます! あっ、手もお怪我?」
「たいしたことではありません」
「でも、包帯……なんか良い香りしません?」
「っ」
「殿下ですね!?」
「ち、違います! これは偶然!」
「偶然で人の香り移りますか!?」
「セラ!」
頬を真っ赤にして怒鳴りながら、私は顔を隠しました。
雨の匂いの中に残る、冷たくてあたたかな感触。
(これは、政略の一部。そうよ……そうに決まっている)
けれど胸の奥では、名前のない想いがふくらんでいくのを、止められませんでした。
「……殿下、どうしてそんなに優しいのです」
指先で包帯をなぞる。
そこに宿る体温はもう消えているのに、不思議とあたたかかった。
久しぶりの雨――それも、窓を曇らせるような静かな雨音です。
普段は晴天ばかりの国ですから、王宮の執務官たちも少々戸惑い気味でした。
「姫さま、今日はお部屋でお過ごしになりますか?」
「いいえ、せっかくですもの。書庫へ行って読み物を整理しておこうと思います」
「外、濡れますよ?」
「屋根のある渡り廊下を使えば平気ですわ」
わたしは笑って答えました。
傘を差すにも優雅な構造の宮廷庭園。
雨粒の音が白い小石を打つのを聞いているうちに、なぜか胸の内まで落ち着いてしまいます。
(雨の日は……感情が静かに溶けるよう)
***
ところが、書庫に近づくころには雨脚が強まり、渡り廊下から外庭の一部を通らざるを得ませんでした。
屋根の切れ間を見上げて、私は小さく息をつきました。
「急ぎましょう。少し濡れたところで」
と、そこへ。
「――傘をお探しですか?」
聞き慣れた低い声。
振り向けば、灰銀の瞳。
いつのまにかリオネル殿下が立っていました。
「殿下……」
「こちらをどうぞ」
差し出されたのは、銀の装飾が施された深青の傘。
「ご準備がいいのですね」
「雨の日は嫌いじゃありませんから」
ふわり。
傘が開かれ、わたしの頭上を覆った瞬間。
近い。
彼の肩が触れそうな距離で、濡れた空気と香水の香りが混じる。
胸が、ほんのわずかに高鳴りました。
「殿下、護衛までご自分で?」
「今日は少し、息抜きをしたくて」
「息抜き、ですか?」
「……あなたとなら、雨の中の静けさも悪くない」
「なっ……」
思わず口を開きかけて、飲み込む。
いつもの軽口だとわかっているのに、言葉のひとつひとつが甘すぎる。
***
小さな石橋を渡っていると、足元の苔で滑ってしまい、体が前に傾きました。
けれど次の瞬間、腰に柔らかな感触。
リオネルの手が、しっかりと支えていました。
「危ない」
「す、すみません!」
「大丈夫。――ほら、もう少しゆっくりで」
その手が、一瞬だけ私を離さない。
距離が近いまま、灰銀の瞳が覗き込む。
雨音がやけに静かに聞こえました。
「……心臓の音が、聞こえます」
「えっ?」
彼がほのかに笑う。
「ご安心を。私の方です」
……嘘。
その声、すごく冷静だったのに。
けれど、ほんの一瞬。
彼の指先が髪に触れ、濡れたほつれを払った。
それだけで、頭の中が真っ白になる。
(……触れないはずの人なのに)
***
書庫に着くころには、頬が熱く、冷たい雨がむしろ心地よいほどでした。
彼は入り口で傘を閉じ、私の肩を軽く払うと、
「濡れたままでは風邪を引きます。すぐお着替えを」
「はい……殿下は?」
「私は平気です。けれど――」
躊躇してから、彼は私の右手を見て眉を寄せました。
いつの間にか、小さな擦り傷ができていたのです。
「ああ……これくらい、大したことでは」
「いいえ」
彼は懐から絹のハンカチを取り出して、そっと包み込みました。
柔らかな布越しに、指先が絡まる。
たった数秒。
でも呼吸が止まりそうになった。
「優しくしすぎたら、あなたに嫌われる気がして」
「……え?」
「だから距離を取っていた。けれど……あなたは、強い方だ。もう心配いりません」
不意に見上げた瞳が、まるで雨雲の切れ間のように澄んで見えた。
***
部屋に戻ってからも、その光景が頭から離れません。
セラがタオルを持って走り寄ってきました。
「姫さま! 髪、濡れてます! あっ、手もお怪我?」
「たいしたことではありません」
「でも、包帯……なんか良い香りしません?」
「っ」
「殿下ですね!?」
「ち、違います! これは偶然!」
「偶然で人の香り移りますか!?」
「セラ!」
頬を真っ赤にして怒鳴りながら、私は顔を隠しました。
雨の匂いの中に残る、冷たくてあたたかな感触。
(これは、政略の一部。そうよ……そうに決まっている)
けれど胸の奥では、名前のない想いがふくらんでいくのを、止められませんでした。
「……殿下、どうしてそんなに優しいのです」
指先で包帯をなぞる。
そこに宿る体温はもう消えているのに、不思議とあたたかかった。
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