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第9章 裏切り
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ここ数日、王宮ではやけに穏やかな風が吹いていました。
春先の陽光が窓辺のガラスに反射し、いちめんの白い花が開く庭。
そして、その真ん中でヴァルモン殿下――リオネルが外務官たちと談笑しておられる姿。
誰がどう見ても、完璧な外交官です。
笑えば誰もが安心し、沈黙すれば誰もが焦燥する。
まるで王宮そのものが彼の呼吸に合わせて動いているように感じられます。
「……相変わらず、無駄のない方」
「姫さま、今“じっと見つめてません”でした?」
「見てません!」
「完全に目がハートでした!」
「セラ!」
侍女のセラが声をひそめて笑っている。
――そう、笑っているのに、胸の奥では自分でもわかるぐらい痛い。
(何をしても、わたしばかりが“動かされている”気がする)
***
昼食の間際、そんなリオネル殿下が私の執務机の前へ現れました。
「お邪魔しても?」
「ええ。こちらも丁度、文を仕上げたところです」
「ふむ。あなたの筆跡、凛としていて美しい。他国の外交文でもこの整いは珍しい」
あの穏やかな微笑み。
心臓が静かに脈打つ。
「褒めても何も出ません」
「……顔に出ていますよ。嬉しそうな顔」
「で、出ていません!」
まるで、からかわれている。
けれど、以前のような疼くような警戒心ではなく――少し、くすぐったい。
そんな穏やかな空気が、いつまでも続くと思っていました。
***
午後。
報告に訪れた副外相が、一枚の報告書を差し出しました。
「姫殿下。隣国クラウス王太子の使者が、ヴァルモン殿下との直接会談を要請しています」
「クラウス王太子が? ……目的は?」
「アルヴェーン王国の交易条約に関する“再交渉”と称しております。ただ……」
「ただ?」
副外相が言いにくそうに口ごもります。
「“婚姻条件の再確認”を、とのことです」
その言葉が届いた瞬間、空気の色が変わりました。
「――婚姻条件?」
わたしの声が、少しだけ低くなったのが自分でもわかりました。
「ええ。クラウス王太子陛下の書簡には、“王女殿下との縁談を他国の駒として再検討すべし”と。……不敬ながら、明らかな内政干渉にございます」
周囲の視線が一気に張り詰めました。
(……なんてこと)
“駒として”、ですって?
私を、また。
***
報告を聞いたリオネル殿下は、いつになく寡黙でした。
一瞬、沈思してから、静かに言いました。
「放置はできません。すぐに返答を。――ですが、姫殿下、問題はここからです」
「ここから?」
「隣国がこれを公文として送った件。つまり、意図的な“侮辱”です。あなたの名誉を傷つけ、こちらの同盟姿勢を揺るがせる狙いでしょう」
「つまり、意図的な挑発……」
「はい。そして――これは、あなた個人を軽んじる挑発でもある」
その声は穏やかだったけれど、冷気を感じました。
まるで笑顔の下に、刃を隠しているような。
「殿下、怒って……いらっしゃる?」
「怒ってなどいません。……ただし、礼儀には礼儀を。王族には“相手の愚かさを思い知らせる形”の礼節を返すのが正道です」
その言葉が怖いほど美しかった。
***
夜になり、侍女セラが湯浴みの準備を整えながら小声で言いました。
「姫さま、やっぱりクラウス王太子ってクズですね」
「セラ、口が悪いですよ」
「でも事実ですもん。あんな人、前から感じ悪いと思ってましたよ? 顔がすぐに“自分だけ重要です”って主張してました!」
「顔で判断しないの」
「じゃあ心で見てください。絶対真っ黒です!」
……どんな理屈か、もはや分かりません。
でも、少し笑ってしまった。
そのほんの数秒でも息が楽になった気がしました。
***
翌朝。
王宮の回廊には、花瓶が一つ、割れていました。
そこに仕掛けられていたのは、見覚えのある紋章――クラウス王国の印章です。
贈答品として送られた花だそうで、添えられた短い文が国中で波紋を呼びました。
――アルヴェーン王女は情を知らぬ氷の姫。血の温もりも知らぬ女に、あの国の未来は託せぬ。
「……これは」
手紙を握る手が、自然に震えました。
冷たいのは雨ではなく、怒り。
頭の奥が静寂で満たされているのに、胸の奥で火が灯っている。
(わたしを侮辱してもいい。けれど、私の国を見くびるのは――許さない)
そう思った瞬間、自分自身も驚きました。
かつてなら、沈黙こそ正義だと信じていたのに。
***
リオネル殿下の執務室に踏み込むと、殿下がこちらを見て微笑います。
しかし、その笑みの奥に穏やかならぬ光が宿っていました。
「早いですね、姫殿下。まさか同じ報告を見たのでは」
「見ました。……殿下、これは外交上の軽口では済みません」
「私も同意です」
彼の声が低く沈む。
「正式に抗議書を起草しましたが、それとは別に――《舞踏会》での“償い”を要求します」
「舞踏会……?」
「向こうは公衆の面前であなたを侮辱した。ならば、我々も人々の前で“何が真の品格か”を見せる」
穏やかな微笑。
けれど、灰銀の瞳の奥で静かに燃える光があった。
「ご安心を、姫殿下。あなたに挑んだ者たちは、華やかな照明の下で自らの愚かさを晒すことになるでしょう」
「……リオネル殿下」
「“氷の姫”を、誰より熱く想われる女として証明する。それが外交です」
「……そんな、方法……」
「ご不満ですか?」
「……“外交的な”とは思えません」
「では、“個人的な復讐”とでも呼びましょうか」
その笑みは、限りなく穏やかで、それでいて冷酷。
***
部屋を出たあと、私は壁にもたれて息を吐きました。
胸の奥がまだ熱い。
クラウス王太子への怒りだけじゃない――リオネル・ヴァルモンという男が、自分のために本気で怒ってくれた。
それがどれほどの意味を持つのか、少しずつ理解してしまう。
「……これって――まさか、本当に」
セラが遠くで声を潜めて言いました。
「姫さま、“惚れた”顔してますよ?」
「してません!」
「燃える外交、始まりましたね~!」
「セラ!!!」
叫びながらも、頬が熱いのを止められませんでした。
(駄目です。あの人の優しさは外交の一部。……のはず、です)
けれど――
まるで胸の奥に、離宮の火がゆっくりと灯り始めたようでした。
春先の陽光が窓辺のガラスに反射し、いちめんの白い花が開く庭。
そして、その真ん中でヴァルモン殿下――リオネルが外務官たちと談笑しておられる姿。
誰がどう見ても、完璧な外交官です。
笑えば誰もが安心し、沈黙すれば誰もが焦燥する。
まるで王宮そのものが彼の呼吸に合わせて動いているように感じられます。
「……相変わらず、無駄のない方」
「姫さま、今“じっと見つめてません”でした?」
「見てません!」
「完全に目がハートでした!」
「セラ!」
侍女のセラが声をひそめて笑っている。
――そう、笑っているのに、胸の奥では自分でもわかるぐらい痛い。
(何をしても、わたしばかりが“動かされている”気がする)
***
昼食の間際、そんなリオネル殿下が私の執務机の前へ現れました。
「お邪魔しても?」
「ええ。こちらも丁度、文を仕上げたところです」
「ふむ。あなたの筆跡、凛としていて美しい。他国の外交文でもこの整いは珍しい」
あの穏やかな微笑み。
心臓が静かに脈打つ。
「褒めても何も出ません」
「……顔に出ていますよ。嬉しそうな顔」
「で、出ていません!」
まるで、からかわれている。
けれど、以前のような疼くような警戒心ではなく――少し、くすぐったい。
そんな穏やかな空気が、いつまでも続くと思っていました。
***
午後。
報告に訪れた副外相が、一枚の報告書を差し出しました。
「姫殿下。隣国クラウス王太子の使者が、ヴァルモン殿下との直接会談を要請しています」
「クラウス王太子が? ……目的は?」
「アルヴェーン王国の交易条約に関する“再交渉”と称しております。ただ……」
「ただ?」
副外相が言いにくそうに口ごもります。
「“婚姻条件の再確認”を、とのことです」
その言葉が届いた瞬間、空気の色が変わりました。
「――婚姻条件?」
わたしの声が、少しだけ低くなったのが自分でもわかりました。
「ええ。クラウス王太子陛下の書簡には、“王女殿下との縁談を他国の駒として再検討すべし”と。……不敬ながら、明らかな内政干渉にございます」
周囲の視線が一気に張り詰めました。
(……なんてこと)
“駒として”、ですって?
私を、また。
***
報告を聞いたリオネル殿下は、いつになく寡黙でした。
一瞬、沈思してから、静かに言いました。
「放置はできません。すぐに返答を。――ですが、姫殿下、問題はここからです」
「ここから?」
「隣国がこれを公文として送った件。つまり、意図的な“侮辱”です。あなたの名誉を傷つけ、こちらの同盟姿勢を揺るがせる狙いでしょう」
「つまり、意図的な挑発……」
「はい。そして――これは、あなた個人を軽んじる挑発でもある」
その声は穏やかだったけれど、冷気を感じました。
まるで笑顔の下に、刃を隠しているような。
「殿下、怒って……いらっしゃる?」
「怒ってなどいません。……ただし、礼儀には礼儀を。王族には“相手の愚かさを思い知らせる形”の礼節を返すのが正道です」
その言葉が怖いほど美しかった。
***
夜になり、侍女セラが湯浴みの準備を整えながら小声で言いました。
「姫さま、やっぱりクラウス王太子ってクズですね」
「セラ、口が悪いですよ」
「でも事実ですもん。あんな人、前から感じ悪いと思ってましたよ? 顔がすぐに“自分だけ重要です”って主張してました!」
「顔で判断しないの」
「じゃあ心で見てください。絶対真っ黒です!」
……どんな理屈か、もはや分かりません。
でも、少し笑ってしまった。
そのほんの数秒でも息が楽になった気がしました。
***
翌朝。
王宮の回廊には、花瓶が一つ、割れていました。
そこに仕掛けられていたのは、見覚えのある紋章――クラウス王国の印章です。
贈答品として送られた花だそうで、添えられた短い文が国中で波紋を呼びました。
――アルヴェーン王女は情を知らぬ氷の姫。血の温もりも知らぬ女に、あの国の未来は託せぬ。
「……これは」
手紙を握る手が、自然に震えました。
冷たいのは雨ではなく、怒り。
頭の奥が静寂で満たされているのに、胸の奥で火が灯っている。
(わたしを侮辱してもいい。けれど、私の国を見くびるのは――許さない)
そう思った瞬間、自分自身も驚きました。
かつてなら、沈黙こそ正義だと信じていたのに。
***
リオネル殿下の執務室に踏み込むと、殿下がこちらを見て微笑います。
しかし、その笑みの奥に穏やかならぬ光が宿っていました。
「早いですね、姫殿下。まさか同じ報告を見たのでは」
「見ました。……殿下、これは外交上の軽口では済みません」
「私も同意です」
彼の声が低く沈む。
「正式に抗議書を起草しましたが、それとは別に――《舞踏会》での“償い”を要求します」
「舞踏会……?」
「向こうは公衆の面前であなたを侮辱した。ならば、我々も人々の前で“何が真の品格か”を見せる」
穏やかな微笑。
けれど、灰銀の瞳の奥で静かに燃える光があった。
「ご安心を、姫殿下。あなたに挑んだ者たちは、華やかな照明の下で自らの愚かさを晒すことになるでしょう」
「……リオネル殿下」
「“氷の姫”を、誰より熱く想われる女として証明する。それが外交です」
「……そんな、方法……」
「ご不満ですか?」
「……“外交的な”とは思えません」
「では、“個人的な復讐”とでも呼びましょうか」
その笑みは、限りなく穏やかで、それでいて冷酷。
***
部屋を出たあと、私は壁にもたれて息を吐きました。
胸の奥がまだ熱い。
クラウス王太子への怒りだけじゃない――リオネル・ヴァルモンという男が、自分のために本気で怒ってくれた。
それがどれほどの意味を持つのか、少しずつ理解してしまう。
「……これって――まさか、本当に」
セラが遠くで声を潜めて言いました。
「姫さま、“惚れた”顔してますよ?」
「してません!」
「燃える外交、始まりましたね~!」
「セラ!!!」
叫びながらも、頬が熱いのを止められませんでした。
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