シャロン・ホームズの助手

十二田 明日

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第5章 ロンドン地獄絵図 Ⅳ

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「来たか」

 飛行船の前方。艦首ブリッジで優雅にくつろぎながら、切り裂きジャックは飛行船にワトソンとホームズが乗り込んだことを悟った。船内には至る所に監視カメラとセンサーが設置しており、侵入者がいれば切り裂きジャックはすぐさま察知できる。

 監視カメラの映像で侵入者の姿を確認する。
 侵入者は二人、ホームズとワトソンだ。
 切り裂きジャックは不愉快だった。ここに来たのがホームズだけではなく、ワトソンという凡人までここまで来たからだ。

 切り裂きジャックを理解し追い詰めるのは、同等に優れた能力と知性の持ち主でなければならない。この場に探偵助手、ジャン・H・ワトソンなどという人物は不要なのだ。
 切り裂きジャックの脳裏に、

「何の躊躇もなく人を殺すお前は、ただのケダモノだ!」

 というワトソンのセリフが木霊する。
 屋敷で受けたあの言葉。切り裂きジャックの崇高な理念を獣の所業と侮辱した報いを、奴には受けさせねばならない。

「貴様が獣に成り果てる時だ、ジャン・H・ワトソン」

 地獄から吹く風のような酷薄な笑い声を切り裂きジャックはあげた。



 飛行船の内部をワトソンは慎重に進む。
 常に戦えるよう細心の注意を払い、周囲の気配を探りながら進んだ。飛行船の内部は思った以上に広く、大型の客船のような造りになっていた。
 ワトソンは一部屋一部屋確かめながら船首へ歩いていく。
 通路を進む途中、

「ん……?」

 不意にワトソンは何かの気配を感じ取った。
 まるで樹海の中で草むらに潜む野獣から狙われているかのような──何処からか分からない、しかし確実に身近に迫っている刺すような重圧。
 ワトソンの足元に影が伸びた。

「上か⁉」

 背後斜め上方から迫るそれに、ワトソンは一瞬早く気が付いた。ワトソンは思い切って前方に飛び込んで転がる。
 大きく前方へ転がる刹那、半瞬遅れてさっきまで立っていた場所に着地する影のシルエットをワトソンは見た。
 鋭く伸びた爪が空を切り、床に深々と突き刺さる。

 獅子か狼か──どちらともつかないシルエットの動物が、背後から襲ってきたのだとワトソンは悟った。

「人造人間に続いて、今度は改造生物か……!」 

 切り裂きジャックが機械工学だけではなく、生体工学にも秀でていることは、二つの技術の結晶である人造人間を見れば分かる。
 切り裂きジャックにしてみれば、自分に都合のよい改造生物を用意するなど朝飯前だろう。

 猛獣に喰い殺させたいのだろうが──背後から襲ってきた獣のサイズは、精々2~2.5メートル程度。決して相手に出来ない相手ではない。

「こんな奴、僕が蹴り殺してや──」

 前方に転がったワトソンは手で床を押しやりながら宙返りし、素早く距離を取りながら体勢を立て直す。半身に構えて膝を緩め、拳を軽く握って顔を守るように前に挙げる格闘術の構えを取り、隙あらば蹴りを放とうとしたその時──ワトソンは雷に打たれたかのような衝撃を覚えた。

 目の前の光景の悍ましさに、理解がついていかない。
 さっきまで闘争心に溢れていた精神はすっかり萎えてしまい、顔からは血の気が引いている。
 それはワトソンがしっかりと全容を捉えた改造生物が、思った以上に手強そうだったとか、恐ろしい見た目をしていたとか、そういう事ではない。
 この醜悪さは、そんな物では表しきれない。

「エ……ミリー……?」
「ワト……ソン……くん」

 ワトソンを背後から襲ってきた獣。歪なシルエットをした獅子とも狼ともつかないその改造生物は、エミリーだったのだ。
 肉食の四足獣の四肢と胴体に、エミリーの上半身が埋め込まれている。あるいはエミリーの胸元から上を残して、両肩から下が全て獣の肉体に置き換わっている──とでも形容すべき異形である。

 否、一点だけ胸元より上にも変わっている部分がある。牙だ。エミリーの唇からはみ出た歯は、人間のそれではない。ギザギザと鋭角に突き出した歯が並んでいる。
 あれは人の歯ではなく、肉食獣の牙だ。
 牙のせいで上手く喋れないのだろう。

「ワト……ソン……くん」
「…………‼」

 すすり泣くような声で、エミリーはもう一度ワトソンの名前を呼んだ。
 その変わり果てた見るも無惨な姿、あまりにも悲痛な声にワトソンは息を吞むことしかできない。
 まるで床がそのまま崩れ、宙へ投げ出されたかのような感覚を覚える。

「なんで……どうして──」
『──気に入って貰えたかな? 探偵助手、いやジャン・H・ワトソン』

 不意に船内放送の音声が響く。その人の悪意を煮詰めたような声色を、聞き間違えるわけがない。

「切り裂きジャック‼」
『私のいる船首からは、この飛行船の至る所まで監視カメラで見えていてね。感動のご対面、いかがだったかな』
「彼女をこんな姿にしたのはお前か!」
『当たり前だろう』

 くだらない事を聞くんじゃないとでも言いたげな口調だった。それがなおさらワトソンの神経を逆撫でする。

「……何故こんな事をした」
『そうだな。強いて言うなれば興味があった」
「何?」
『貴様は言っただろう。人を何の躊躇もなく殺す私はただの獣だと──なら貴様はどうだ? そこの女を見ろ。獣と繋ぎ合わされ、血を求めて無作為に人間を襲うよう調整してある。もはや人とは呼べない化け物だ。あれを獣と断じて殺せるか? それとも人だからと、無抵抗に殺されるか? さてはて、貴様はどちらを選ぶ?」

 そう言う切り裂きジャックの声には、心底楽しいショーを見ている子供のような純粋な響きがあった。純粋が故に歪んでいた。

「貴様がその女を殺すなら、貴様もただの獣だ。貴様が女に殺されるのなら、その女は正真正銘の獣だ。私としてはどちらに転んでも楽しめる見世物だ、好きに選ぶといい」
「切り裂きジャックゥゥゥゥゥゥッ‼」

 気が狂いそうな程の憎しみ──本気の殺意というものをワトソンは生まれて初めて覚えた。
 しかし放送は途絶え、ワトソンの怨嗟の声に答えるのは切り裂きジャックの酷薄なセリフではなく、エミリーの発する唸り声だけだった。

「■■■■■■■■■■■■■■■■────ッ‼」

 人のものとは思えぬ咆哮と共に、エミリーはワトソンに襲いかかった。

「止めろエミリー!」

 ワトソンは叫ぶがエミリーは止まらない。その目は爛々と輝き、まさに猛獣のそれだ。優しいエミリーの眼差しはなく、もはや人の意識が残っているかどうかも怪しい。
 振るわれる爪は鋭利な肉切包丁が連なっているかのようだ。あの爪を喰らったら、一撃で致命傷だ。

 成す術もなくワトソンは下がり続けるが狭い通路だ、すぐに壁に詰まって逃げ場がなくなる。迫るエミリー。
 ワトソンは反射的に蹴りを放とうとする。
 しかし──

(うっ……)

 口から牙を生やし、咆哮を上げて血走った目で襲ってくるとしても。
 たとえ化け物のように変えられたとしても──やはりエミリーはエミリーなのだ。
 ワトソンの動きは鈍り、蹴りの動作が途中で止まる。それでも振るわれるエミリーの裂爪を、何とか脛で受け止めたのは、ひとえにワトソンの優れた格闘技術の高さによるものだ。

 身を裂かれるギリギリのところで義足を使って防御したものの、エミリーの膂力は相当なもので、その攻撃の重さたるや筆舌に尽くしがたい。
 ワトソンは通路の壁をぶち破って吹き飛ばされた。
 ノーバウンドで三メートルは吹き飛び、備品を壊しながらゴロゴロと転がる。

「かは……!」

 ワトソンの口から呼気が漏れる。打ち付けた背中が痛い。強制的に肺から空気が抜け出るようだ。
 痛みに気が遠くなる。しかし立たなければならない。でなければ死ぬと分かっている。
 しかしワトソンが身体を起こそうとするより早く、鋭利な爪を備えた前脚がワトソンの腕を押さえた。

 エミリーは一瞬のうちに間合いを詰め、止めを刺しにきたのだ。
 両前脚でワトソンの腕と肩を押さえ、逃げる事はおろか身体を起こすことも出来ない──絶体絶命の状況。ワトソンの眼前に、野獣の顔をしたエミリーが牙を剥く。
 喉笛を嚙み切られて死ぬ──そんな一瞬先の未来がありありとイメージできた。

「ワトソン君!」
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