シャロン・ホームズの助手

十二田 明日

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第5章 ロンドン地獄絵図 Ⅴ

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「ワトソン君!」

 そんなワトソンの脳裏によぎった死のイメージを、秋風のような凛とした声が吹き飛ばす。
 ホームズが放送を聞いて駆け付けたのだ。
 即座にホームズは発砲し、エミリーの側頭部に弾丸が当たる。エイミーの頭部が弾かれたように揺れた。
 しかしエミリーは事切れていなかった。

「クソッ! 仕留め切れなかったか‼」

 実戦においてこのような事は往々にして起こりえる。人の頭蓋骨は非常に硬く、かつ丸みを帯びているせいもあって、弾丸の当たる角度によっては表面の肉を抉るだけで致命傷にならない時があるのだ。

 特に拳銃弾など威力の低い銃弾では、このような事が起こりやすい。
 エミリーは標的をワトソンからホームズに切り替えた。ワトソンを踏みつけて、今度はホームズに向かって行く。

「⁉ 君は──!」

 駆け付けたホームズには、ワトソンが異形の怪物に襲われているようにしか見えなかったのだろう。正面から襲い掛かるエミリーの顔を見て、さすがのホームズも色を失う。
 しかし今この時において、それは致命的な隙であった。

 ホームズとエミリーの距離は六メートルは離れていただろう。しかしその距離をエミリーは一秒と掛からずに詰めた。恐ろしいまでの敏捷性である。

「くっ……!」

 ホームズは横へ身を捻って躱す──否、躱しきれてはいなかった。エミリーの爪が左腕をかすめ、ズタズタに引き裂かれている。鮮血が滴り落ち、床にポタポタと赤い水玉模様を描いている。
 エミリーは止まらない。すぐに向き直り、ホームズに牙を剥く。

「すまないエミリー君」

 ホームズは片手で構えた愛銃の引き金を立て続けに引いた。エミリーの肩や胴に当たる。しかしそれでもエミリーは止まらない。またホームズに向かって突撃し、切り裂こうと爪を振るう。

 ホームズも超人的な反射神経で身を翻し、何とか致命傷を避けるものの、全てを躱しきることは出来ず、今度は右の太ももを切り裂かれていた。
 たまらずホームズは痛みに顔を歪めて膝をつく。もうこれ以上躱すことは出来ない。次に飛び掛かられたら終わりだ。

 三度、エミリーがホームズを襲う。

 ホームズは歯を食いしばって、必死に銃を撃つ。今度は獣の身体ではなく、エミリーの身体が残っている部分。胸元、喉元、眉間の三か所を打ち抜く──それでもなおエミリーは止まらない。

「……ここまでか」
「うおおおおおおおおぉぉぉぉーーーーーーーっ!」

 ホームズが死を覚悟した時、起き上がったワトソンが横合いからエミリーに肩口から全力で当たった。
 総身を矢のようにぶつける体当たりを予期せぬ方向からくらい、エミリーの体勢が大きく崩れた。

 そのまま異形の怪物と義足の探偵助手はもつれ合ったまま床を転がる。その際にワトソンにエミリーの爪がかすめて大小の切り傷ができるが、もうその程度ではワトソンも怯まない。

(覚悟を決めろ……!)

 ワトソンは悲痛な思いで自分自身に言い聞かせた。
 ここで死ぬわけにはいかない。エミリーを倒して切り裂きジャックを止めなければ、この事件は終わらない。人造人間が暴れ続け、今よりももっと多くの人が死ぬ。

 今地上に起きている地獄を止めるため、ワトソンはエミリーを殺さなくてはならない。
 猛獣に等しいエミリーと取っ組み合いながら、ワトソンはマウントポジションを取る。

(首だ、頸骨を狙えば──)

 これまでの格闘でエミリーの四肢や胴は獣であるが、胸元から上は人間と変わらないことが推測される。ならば動きを封じた上で首を狙う。エミリーの細い首なら、ワトソンが全力を込めれば捻り折ることも可能だろう。 

「う──ああああああああああ!」

 悲鳴に近い叫びを上げて、ワトソンは両手をエミリーの顔に伸ばす。あとは頭部を全力で捻るだけでいい。
 しかし力を込めたワトソンの手が止まる。

 胸元を撃ち抜いた弾丸が心臓を貫いたのか、それとも喉を撃ち抜いた弾丸が出血多量を招いたのか、それとも眉間に当たった弾丸か。
 いずれにせよエミリーの身体に力はなく、既に彼女は死にかけていた。
 だからなのか、彼女の瞳が獣のそれではなく人のものに戻っていた。だらんと力なく四肢を伸ばし、眉間と側頭部からどくどくと血が流れ続けている──そんな痛々しい姿で、エミリーは弱々しく笑った。

「ワト……ソン……くん」
「エミリー!」

 どれほど惨たらしい姿であったとしても、その笑みはいつものエミリーのものだった。

「へへ、良かった……ワトソン、くん……食べちゃわ……なくて……」

 血だらけの顔で、牙の伸びた口で、エミリーは最後の力を振り絞って思いを口にする。

「わたし……好きだったよ……ワトソン、くんのこと……誰かのために頑張れる、そんな……あなたの、ことが……」
「エミリー……」
「こんな風に、なるな……ら……もっと早く、言っておけば良かった……」

 最後にそう言って、エミリーの瞳から光が消える。わずかに残っていた生命の息吹とでも言うべき気配が消え去り、エミリーは呼吸を止めて静かに眠った。

「…………ッ‼」

 ワトソンの視界が歪む。溢れ出る涙が止まらない。だけど声が出ない。あまりにも大きな悲しみは、嗚咽に変換して放出することさえ叶わない。
 ただひたすらに重く重く、胸の奥を締め付けて沈んでいく。

「……すまない、助けてやれなかった」

 沈んだ調子でホームズが言う。

「ワトソン君、あまり自分を責めるな。彼女に止めを刺したのは私だ、エミリーくんを殺したのは私だ。君ではない。君は獣にならなかったし、彼女もまた獣ではなく人として死んだ……少なくとも私はそう思うよ」
「……ありがとう」

 ワトソンはよろよろと立ち上がり、ホームズを振り返る。ホームズは青い顔をしていた。

「ってそうだった、君も重症じゃないか!」

 ワトソンは慌ててホームズに駆け寄る。診ると左手の出血が酷い。裂けた袖を切り取り、即席の包帯にして止血する。

「脚もだったな」

 今度は切り裂かれた右脚に止血を試みる。表面の肉だけで、重要な腱などは切れていない。この応急処置だけでも、ゆっくりなら歩くことも可能だろう。命に関わることもなさそうだ。

「これでよし」
「おいおい、乙女の生足に気安く触れるなよ」
「そんな軽口を言うくらいの元気は残ってるようだな、少し安心した」

 ホームズは口の端で笑う。失血のため顔色は悪いが、まだ意識はしっかりしているようだ。
 応急処置を終えたワトソンはおもむろに立ち上がり、目元を拭ってからエミリーの亡骸を見やり、それから船首の方に視線を移す。

「……行くのかい」
「行くよ。ホームズ、君はここで休んでいてくれ」

 ワトソンは船首に向かって歩き始めた。
 その目は既に涙に濡れてはいなかった。ただ刺すように鋭い目つきで、船首を──そこにいるであろう切り裂きジャックを睨みつけている。

「ホームズ、君はエミリーを殺したのは自分だって言うけど、僕は違うと思っている。エミリーを殺したのは切り裂きジャックだ」

 切り裂きジャックがエミリーを改造して、化け物に仕立て上げた。
 エミリーの惨たらしい死も、ホームズの痛々しい負傷も、そしてワトソンの深い悲しみも──全ては切り裂きジャックが引き起こしたものだ。
 終わらせなければならない。
 一人の男として、そして探偵助手として──何としても切り裂きジャックを倒さなくては。

「絶対にあの男を捕まえて、処刑台に送ってやる!」

 ホームズは壁にもたれかかり、力なく手を振る。

「それじゃあ私はちょっと休憩してるから、切り裂きジャックは任せたよ。あまり遅いようなら様子を見に行くけど」
「任せておいてくれ。君が回復して様子を見に来る頃には、僕に蹴られ過ぎて半死半生の切り裂きジャックを縛り上げていることだろうさ」
「……大事なところで抜けて悪いね」
「それこそ気にするな、名探偵きみのフォローは探偵助手ぼくの務めだろ」

 一歩一歩遠ざかっていくワトソンの背中を、ホームズは見送った。
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