グレープフルーツムーン

青井さかな

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chapter 1

夜に降る雨が奏でるメロディー

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 居酒屋を出ると雨が降っていた。
 すぐ隣で雨の降る様子を見て英理奈さんが顔を顰めたその一瞬をオレは見逃さなかった。

「……どうかした?」

「大丈夫、何でもない、ちょっと雨が苦手なだけ、傘持ってる?」

「……あぁ、うん」

 雨が苦手な理由が気にはなったが何となく今は聞ける雰囲気ではない。

「用意良いね」

 彼女もバッグから折り畳み傘を出して開いた。
 しまった、傘が無いふりでもすれば彼女の傘に入れてもらえたのに。
 出掛ける前に目にしたテレビの天気予報で「夜遅くから雨が降り出すのでお帰りが遅くなる方は傘の用意をお忘れなく」と言っていたので当然のようにお帰りが遅くなるつもりでいたオレは迷わず折り畳み傘をボディバッグに入れていた。用意が良い上に馬鹿正直な自分が嫌になる。
 今さらどうにもならない。それぞれ傘を差し歩き始める。
 居酒屋から最寄りの駅までは徒歩で十分弱、歩き出してものの三分程で急に雨足が強くなった。一緒にいられる残り少ない時間をもっと噛み締めたかったがそれどころではない。傘を持っているオレ達も少し急いだ。だけど駅に着く頃には傘を差していても全く意味が無い程に結局二人ともびしょ濡れになってしまっていた。

「やば、これで電車乗ったら迷惑かな」

 まぁでもみんな似たようなもんか。同じようにびしょ濡れの人達が特に気にする素振りもなく改札を潜って行く。  

「英理奈さんどこの駅?このまま一人で帰すの心配だし送って行く」

 下心が全くないわけではなかったが、あくまで冷静を装った。けれど英理奈さんからの返答がない。様子を伺うと、彼女は物憂げな表情でオレの方を向いてはいるが、視線が合わない。

「英理奈さん?」  

「……すぐそこのマンションだけど、……来る?」

 聞き間違いかと思った。
 オレから完全に視線を外し、どこか遠くを見るかのような目で呟くように、だけど確かに英理奈さんはそう言った。
 僅かな沈黙の後、我にかえったのか明らかに“しまった”という表情を浮かべる。

「行こう」

 英理奈さんの気持ちが変わらない内にオレは彼女の手を取り再び雨の中を歩き出した……。




 
 雨はさらに強くなっていた。
 英理奈さんの部屋の玄関のドアが閉まると小さくなった雨音の向こうで雷が鈍く鳴り響く。
 ずぶ濡れのまま部屋の中に入る事を躊躇って玄関で待っているとすぐにタオルを持ってきてくれた。

「先にお風呂使って」

 オレと目を合わさず彼女が言う。

「いや、そんな、オレは後で大丈夫だから」 

 そこはさすがに後回しでいいがここまで来てもう遠慮はしていられない、靴を脱いで部屋に上がらせてもらう。

「でもボーカリストが体冷やして風邪でもひいたら大変」

「大丈夫だってこれくらい、ほら早く温まってきて」

「でも、……あ、じゃあちょっと待ってて」

 英理奈さんはワンルームの部屋に備え付けのクローゼットからグレーのパーカーとスウェットの上下を出してきた。

「男の人が着れそうなのあんまりなくて、こんなんで良かったら、使って」

 恥ずかしそうに手渡してくれる。
 ヤバイ、今すぐ押し倒したい……。




 煩悩を押し殺し、英理奈さんを風呂場に向かわせ、濡れた服を脱いで借りたスウェットに着替える事にした。彼氏の服を借りる事に多少の抵抗はあったが、全身ずぶ濡れのまま部屋に居られる方が迷惑だろうと開き直って袖を通すと、あきらかに丈が短かった。という事はこの服は彼氏のものではなくて、英理奈さんのものか。それだけの事で何だか頬が緩んでしまう。まぁ、彼氏が英理奈さんと同じくらいの身長だという可能性も無くはないが……。

 外からは降り止まない雨の音、部屋の中からは彼女が使っているシャワーの音だけが聞こえる。

 オレは少しだけ後悔していた。

 半ば勢いでここまで来たからには部屋に入ると同時に壁ドンでもして、キスをして、そのまま押し倒して、ちゃんと拭かないと風邪ひいちゃうよ、いいよどうせ濡れるんだし……、とかマンガや洋画にありがちな展開に行くべきだったんじゃないのか……?いやさすがにリアルにそれをやると引かれるか。どっちにしてもそういうムードを作り出す自信があまりない。過去にこういう経験が無かったわけでは無いのに、オレは異様に緊張していた。
 シャワーの音を聴いていると要らぬ妄想に取り憑かれ、雨に濡れて冷えたはずの体が熱くなってくるので、部屋に入ってからずっと気になっていたレコードを慎重に漁って必死に気を紛らわせた。ビートルズをはじめ、THE WHO、THE BAND、ジャニス・ジョプリン、ニール・ヤング、キャロル・キング、ダニー・ハサウェイにビル・ウィザース、邦楽は、はっぴいえんど、シュガー・ベイブ、RCサクセションといった名盤がずらり並んでいる。最近のだと、くるりやサニーデイ・サービスもある。
 レコードを真剣に見ていると英理奈さんが風呂場から出てきた。部屋中に広がる石鹸の香りと濡れたままの髪、すっぴんの火照った顔……。

「……あんまり見ないで」

 恥ずかしそうに顔を背ける。……刺激が、強すぎる。


 勢いも大事だが冷静さを欠いてはオレの事だからきっと大失態を犯す、そんな予感がする。オレはひとまず交代でシャワーを使わせてもらった。しかし、ついさっきまで彼女がここでシャワーを浴びていたわけで……、あぁもう、この状況で浮き足立たないわけがない。

 余計なことばかり頭に巡らせてしまうので早々にシャワーを切り上げ風呂場を出ると、英理奈さんはドライヤーでオレの濡れた服を乾かそうとしてくれていた。

「ごめんね、うち乾燥機とかないから、時間かかりそう」

 乾いたら、帰れってことか?
 そんな早く追い出そうとしないでほしい。

「いいよちょっとくらい濡れてても、それより、せっかくだし飲み直す?なんか買って来たら良かったね」

「ビールがワインかウイスキーならあるよ。あと缶チューハイ」

 結構、しっかり揃っている、さすがだな。
 居酒屋でまぁまぁ飲んだので軽めの缶チューハイにした。これ以上酔って今以上に冷静さを失いたくない。

「おつまみになりそうなもの無くて、何か作ろうか?」

「ありがとう、けどいいよ、気使わないで。それよりレコード聴きたい。こんな時間だし近所迷惑かな?」

「音大きくしなければ大丈夫だと思う。何がいい?」

 彼女の表情がやっと柔らかくなった。 

「おすすめある?」

「えー、難しいな。ロック系?」

「んー、そうだね、なんかアルコールに合いそうなやつとか」

「じゃあ、私の好みでもいい?」

「もちろん」

「……これかな、トム・ウェイツの“クロージング・タイム”、チューハイって感じではないけど」

 トム・ウェイツ、名前は聞いた事があるしアルバムのジャケットにも見覚えがあったが聴いたことはなかった。美しいピアノの旋律に独特のしゃがれ声が驚く程合う。曲を聴きつつ、スマホでトム・ウェイツについて調べてみる。アメリカ出身のシンガーソングライターで、1973年リリースのこのアルバムでデビュー、酔いどれ詩人と呼ばれた奇才。

 しばし聴き入っているとA面が終わり、英理奈さんが手際良くレコードをひっくり返しB面に針を落とす。

「……ごめん」

 オレを振り返る事なく放たれた言葉にドキッとする。この期に及んでやっぱり帰ってとか、言われるのか?

「……なに?」

「……ウィスキー、飲んでいいかな?トム・ウェイツでチューハイは、やっぱり無い」

 少し気恥ずかしそうに、けど真剣に言う英理奈さんが本当に可愛くてつい笑ってしまった。

「オレも付き合うよ」

 慣れた手付きでウィスキーのロックを二人分用意して、英理奈さんはオレの隣に少し間を開けて座る。

「さっきも居酒屋でちょっと話したけど、英理奈さんて聴いてる音楽の幅広いよね」

「そうかな、けど浅いよ?トム・ウェイツも全部は持ってないし。レコードは所謂名盤見つけたらつい買っちゃう。値段にもよるけどね」

「良い趣味だよ」

「そう?まぁ他に趣味と言えるものないしね。ほんとに音楽とお酒だけ、……なんていうかもう、オッサンだよね」

 ウィスキーの入ったグラスを傾けながら自嘲気味に笑う。

「……ごめん、それは否定出来ない」

 オレがそう返すと二人で声を上げて笑った。
 
 スピーカーから次の曲が流れ始めると、彼女がふいに目を閉じて曲に合わせて口ずさむ。 
 レコードのジャケットの裏面で確認すると、どうやらそれは『Grapefruits Moon』というタイトルの曲のようだった。

「いいね、今までのもいいけど、この曲特にいいな」

「……うん、私も好き」

 そう言ってオレのすぐ隣で柔らかく微笑む彼女の横顔は、知り合ってから見てきた数々の表情の中で、最も美しく思えた。

 触れたい……。

 胸が締め付けられ、鼓動が速まる。
 もうこれ以上自分の欲望に抗うことは、出来ない。

 隣に座っている彼女の肩に腕をまわし、優しく抱き寄せると、驚いて反射的に顔を上げた彼女の頬に手を添える。唇が重なるまであと数センチのところで、彼女はうつむいて軽くオレを押し返した。

「待って、私、まだ言ってない事がある」

「………何?」

 距離は詰めたまま冷静に聞く。 

「私、……結婚、するの」

 その言葉に胸の奥がチリっと焼けるような感覚がした。それでも、恋人がいるのははじめからわかっていた事で、それが婚約者に格上げされたところで今更もう引き下がることは出来なかった。

 そんなことは今はもう、どうでもいい。

「……それと、」

「うん、そうなんだ」

 まだ何か言おうとしていた英理奈さんの言葉を遮り少し強引に彼女の顔を上げ再び視線を合わせる。

「……ごめん、やっぱりダメ」

 押し返そうとする彼女の腕にさらに力がこもる。

「……嫌?」

 オレの一言に彼女が目を見開く。
 抵抗の力が弱まった、その一瞬を逃さずキスをして、そのまま強く抱き締めた。
 さらに深く、何度も何度も貪るようなキスをして、優しく押し倒す。 
 オレを見つめ返す瞳の奥にはまだ戸惑いの色が見え隠れしていたが、もうそれ以上何の抵抗もされる事はなく、彼女はオレを受け入れてくれた……。












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