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chapter 1
歪むギターと紫色の記憶(2)
しおりを挟むそしてあの日から数日、たった数日会えないだけでどうにかなりそうだった。
彼女の方から連絡が来ることは無かったがオレがメッセージを送ると必ず返信はもらえた。だけど、何となく次の約束を取り付けられないでいた。
ふとわざと忘れて行った折り畳み傘を思い出す。彼女の部屋にぽつんと置かれたままの折り畳み傘を想像するだけで今すぐあの部屋に戻りたくなる。
大学で講義を受けてからのバイトで疲れきった帰り道、午後11時20分、彼女は今日もあの部屋で一人、レコードをかけて大好きなお酒を飲んでいるのだろうか。それともオレの知らない誰かと一緒なのか。
友達は少ないと言っていたが誘われたらふらっと一人でライブハウスに行けるくらいにはフットワークは軽い。
たいてい一人でいるから客や出演者の男から声をかけられることも少なくはないらしい。この前のライブでもオレが歌っている最中にナンパされているのがステージから丸見えで大いに集中力を削がれた。
そんな事を思い返しているともうどうしようもなく会いたくて、せめて声だけでも聞きたくて、夜道をひとり歩きながら気が付くと彼女に電話をかけてしまっていた。
『はい』
何度目かのコールの後、彼女は電話に出てくれた。
「あ、もしもし、あの……」
自分からかけた電話なのに正直出てくれる気がしていなくてしどろもどろになってしまう。
『なに?』
「あ、うん、えっと、……元気?」
『え?うん、まぁ元気、かな』
何言ってんだオレ、ちょっと引かれてるじゃん、そうじゃなくて、
「今、家?」
『うん』
「あのさ、オレこの前傘忘れてるよね?」
『あー、うん、忘れてる』
「……今から、取りに行っちゃダメ?」
『今から……』
今からなら12時前には彼女のマンションに着けるが、明日も仕事だろうしさすがに迷惑か。
「あー、やっぱ無理だよね、ごめん」
断られるより自分から引き下がった方が幾分ダメージが半減する。
『いいよ』
……マジで?いいの?
「なるべく急いで行くから!」
通話を一方的に切りオレは最寄りの駅まで走った。
思っていたより少しだけはやく彼女のマンションにたどり着けた。
覚えていた部屋番号のインターフォンを鳴らし着いたことを伝えオートロックを解除してもらいマンション内へと入って行く。エレベーターが降りてくる少しの時間さえもどかしい。
彼女の部屋のインターフォンを鳴らすとすぐにドアが開いた。
「いらっしゃい」
会いたかった英理奈さんが目の前にいる。
「はい、傘」
靴を脱いで部屋に上がろうとしたら折り畳み傘を手渡された。
え、このまま帰れってこと?
「うそ、どうぞ上がって」
……揶揄われた。
固まって動けないでいるオレを見て笑いながら彼女が言う。
いやオレは笑えない、本気にしたわ。
気の利いた返しも思い付かず無言で部屋に上がる。
「……ごめん、怒った?」
申し訳なさそうにオレの顔を覗き込んでくる彼女の腕を引っ張って少し雑にキスをする。
「怒ってはないけど、これで許すよ」
代わりに固まってしまった彼女をそのままにして部屋に入っていく。微かに聴こえていたレコードの音がはっきりと耳に届いてなんの曲か脳がすぐに認識した。
ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスのデビューアルバム。
「これは持ってる、CDだけど」
オレがそう言ったところでちょうどA面が終わった。すかさず彼女がB面を再生すると、来て早々に手を出されて警戒しているのか隣には座って来ずテーブルを挟んで正面に座った。自分のせいだが少々不満に思いながらも話を続ける。
「この前レスポールに決めた話したでしょ、その時の店員さんがさ、すげージミヘン好きな人で『絶対聴け!でも中学生にジミヘンはまだ早い、高校生になったら聴け』って言われて、オレそれ律儀に守って高校生になってからこのアルバム買って聴いて、ギター練習しまくった」
「そうなんだ。ワインでいい?」
ひとりでワイン一本開けるつもりでいたのか、ちらっと確認したところ中身はすでに半分以上減っている。
「うん、ありがとう」
グラスに注いでもらったワインを飲みながらそういえばジミヘンは今のバンドで演ったことないなと思い返していた。次のライブで演ってもいいかもしれない『パープル・ヘイズ』は、さすがにベタ過ぎる気がするし、じゃあ他の曲なら何がいいかな。しばらくレコードを聴きながら考えてみる。
「ちなみにジミヘン、どの曲が好き?」
ストレートに英理奈さんの意見を参考にしよう。
「えー、そうだなぁ、次の曲かな、ファイア」
彼女がそう言うとちょうど『ファイア』のイントロが始まった。
「……今テキトーに選んだ?」
タイミングはラジオのDJ並みにピッタリだったけど。
「そんなことないよ、ほんとに好き」
けどこの曲なら弾ける。歌もなんとかなるだろう。オリジナルにキーボードのパートはないからアレンジが必要だけど難しくはなさそうだ。明日にでもメンバーに連絡しよう。あぁけどイベントの主催はオールドロックオマージュのオリジナル曲やカバーに定評のあるバンドだ、曲が被るとまずいので念のためそっちにも聞かないと。
「……どうかした?」
ちょっと真剣に考え込み過ぎていた。
「ううん、何でもない。オレも好きだよファイア、ギター弾きたくなる」
音楽好きなら何でもないよくある会話、今までも散々してきた。それが英理奈さんと出来るのが心地良く心の底から嬉しく思える。何より彼女がとても楽しそうで、こんな時間がずっと続いて欲しい。
「……ねぇ」
「なに?」
オレが呼びかけると英理奈さんはいつも真っ直ぐオレの目を見てくれる。
「今日、泊まっていい?」
オレから視線を外し、少し困ったような、切なげな表情を浮かべて、
「………うん」
囁くように彼女は言った。
それからしばらくは穏やかな日々だった。
とはいえ、彼女は仕事、オレは大学にバイトにバンド。ゆっくり会える時間はほとんど無かった。少しだけ変わったのはそれまでは週末の予定の合う日を選んで会っていたが、曜日は関係なしに、たとえ平日の夜遅い時間でも、どんなにわずかな時間しか無くても、オレが会いたいと言えば部屋に入れてくれた。出来ればこのまま居座ってやろうと思っていたが、さすがにそれは叶わず、合鍵も頑なに渡してはくれないので、彼女が翌朝仕事の日は彼女より先に部屋を出るのが絶対の条件だったが、それ以外はどう考えても、何も知らない赤の他人に話して聞かせたとしても、二人でいる時のこの関係はどう考えてもどこにでもいる恋人同士の関係ではないのか。
彼女の部屋にはレコードとお酒以外、服や小物などは生活に必要な最低限の物しかない。ましてや男の痕跡など、はっきり言ってどこにも無かった。さすがにクローゼットを勝手に漁るような真似はしていないが、彼女が着替えている時なんかにちらっと見えた感じではクローゼットもすっきりと整頓されていて気になるようなものは何も無いように思えた。そもそもオレがこんな風にしょっちゅう部屋に上がり込んでいても大丈夫なのかと、さり気なく確認したところ、「彼はここには来ないから」とだけ返された。それで疑問や問題が全て解消されたわけでは無かったが、だからと言ってオレがここに来られなくなっても困るのでそれ以上は追求しなかった。鉢合わせする心配がないのなら、今はそれで良い。
深く考えなければオレは今とてつもなく幸せだった。
彼女の部屋で、誰にも邪魔されない、二人だけの世界。彼女がオレの目の前で、好きな音楽の話をして、レコードを聴きながら一緒にお酒を飲んで、時には怒ってくれて、オレの腕の中で眠って、目が覚めると優しく微笑んでくれて、それだけで良かった……。
急遽お声が掛かった例のイベントまでの間にはいつものハコでのライブもあり、バンドの状態はかなり良かった。
新曲はやっぱり間に合わなかったが、カバー曲は彼女の部屋で聴いたジミヘンの『ファイア』で決まり、メンバーで何度か合わせてイイ感じに仕上がっている。
懸念だったチケットも今回は各メンバー死ぬ気で捌いて、土曜日という好条件もあり結構前売りを買ってもらえて助かった。
もちろん英理奈さんも来てくれる約束だ。
嫌でも気合が入る。
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