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chapter 1
サウンド・オブ・サイレンス
しおりを挟むベッドの上でオレに背を向けて横たわったまま、まだ荒い呼吸をしている彼女の髪を撫でる。
「……ごめん」
細くて白い両手首が少し赤くなっていた。
「……大丈夫、お水取ってくるね」
「いいよ、オレが行く」
起き上がろうとした英理奈さんを制し、乱雑に脱ぎ捨てられていた下着だけを身につけ、慣れた手付きで冷蔵庫からペットボトルのミネラルウォーターを取り出して手渡す。
「……ありがと」
ついでにクローゼットから勝手に彼女の部屋着を出して渡し、オレもいつも借りているスウェットとパーカーを着た。
「何から話そうかな」
英理奈さんはそのままベッドの上に座っている。オレは床に降りて英理奈さんに背を向けベッドにもたれるようにして座った。顔を見て改まって話を聞く気にはなれなかった。
「長池くんから、……浅野さんの事は聞いたの?」
「……うん」
「そっか。じゃあ、そうだね、ちょっと長くなるけど」
そう前置きして英理奈さんは語り始めた。
「浅野さんと出会ったのは私が大学に入学してすぐ。二歳年上で、私に、音楽を教えてくれた人。前にも言ったけど、父親が聴いてた洋楽を何となく覚えてたくらいで、あとはテレビやラジオでよく流れてるような邦楽しか聴いたこと無かった私に本当の意味で音楽っていうものを教えてくれたのは浅野さんだった。生のバンドのライブを見たのも、浅野さんのバンドが初めてで、サークルに入ってからもそれまで名前も聞いたこともなかったバンドやアーティストをたくさん教えてもらって、浅野さんの演ってた曲はどれも良くて、……好きだった」
「付き合ってたの?」
「付き合ってはないよ、浅野さんずっと彼女いたし」
「でも、好きだった?」
「……どうかな、あの頃は、違うと思ってた。確かにステージにいる時はカッコ良かったし、音楽の趣味も合ってたけど、それ以外は最低な人だったからね。性格も口も、酒癖も女癖も悪い、……どこが良いんだろうって、思ってた」
どこが良いんだろう、それは、その当時付き合っていた浅野さんの彼女に対して?それとも自分が浅野さんに対してそう思っていた?
「そんなんだから、大学卒業してからも続けてたバンドも、うまくいかなくて、私が大学卒業する頃解散して浅野さんはそのまま地元に帰って、その辺りから連絡も取らなくなった。私も就職して余裕なかったし、別にそんなに気にしてなかったんだけど、三年前、友達から連絡きて、浅野さんが、亡くなったって……」
「事故?病気?」
それとも、
「原因は不明らしい。自分の部屋でレスポール抱えたまま亡くなってるの、ご家族の方が発見したって……。地元帰って就職して、毎日車で一時間以上かけて通勤したり、朝早くから夜も遅くまで、土日も休み無かったりで、かなり無理してたみたい」
水を一口飲んで話を続ける。
「私ね、その頃の事、あんまり覚えてないの。ちゃんと仕事は行ってたし、普通に生活はしてたんだけど、何を考えてたとか、何をしてたとか、よく思い出せなくて、半年くらいそんな状態だったのかな、……で、その頃、今の彼に仕事で出会ったの。仕事で顔合わせるたびに声かけてくれて、誘ってくれて、うっかり携帯の番号教えてから毎日のように連絡来て、ちょっとしつこいなって思ってたけど、彼と話してると気が紛れてだんだん気持ちが楽になってきた。それで、付き合うようになって、……けど、一年半前、彼が転勤になって、遠距離になって、最初の頃は毎週のようにどっちかの家に行って会ってたけど、だんだん会う回数も減ってきて、私が行くことはあっても、彼がこっちに来ることは無くなった。仕事忙しい人だからしょうがない、このまま自然消滅かなぁって、思ってた。そんな頃に、プロポーズされたの。嬉しかった。もう、ダメだと思ってたから。その場でOKして、その何日か後かな、松本さんからライブするから来てってメールが来たのは。……行くつもりなかったんだけど、松本さんしつこくて、断り切れなくて」
松本さんと電話で話した時に受けた印象もそんな感じだった。
「仕事終わりにライブハウス行って、ちょうど、杉浦くんが歌ってるところだった。一目見て、私がどうして呼ばれたのかわかった。ヘルター・スケルターで、心臓止まるかと思った。杉浦くんのバンドが終わって、もう帰ろうと思ったけど、松本さんに一言言わないと気が済まないと思って、結局最後までいて、松本さんと話してる時に、杉浦くんが現れたんだよね。それからの事は、知ってる通り、かな……」
「なんで、次のライブに来てくれたの?」
「ステージ上で見た姿とその後に話した時の印象があまりにも違ったから、もう一度だけ、杉浦くんがギター弾いて歌ってるところが見たかった。だから、内緒で行って、何も言わずに帰るつもりだったの。けど、つい癖で次のバンドも見てたら、見つかっちゃった。私の事覚えてくれてて、声かけてくれたの、嬉しかったから。……だから、欲が出ちゃった、もっと話してみたいって」
「オレをこの部屋に誘ったのは?」
「………夜に降る雨がダメで、いろんな嫌な事思い出させて、一人でいたくなかった、から、つい。あの日は私が誘ったようなものだから、けど次はダメだって、思ってたんだけど、杉浦くんが帰った後……、」
不意に言葉が途切れる。
「……何?」
「ううん、その次にここに来たとき、ジミヘンのファイアの話になって、もしかしてライブで演るつもりなのかなって、見たいなって思ってしまったから、ダメとは言えなかった……」
あの時の英理奈さんの切な気な表情は何となく覚えている。
「杉浦くんと浅野さんは違うってわかってたし、実際、普段話してる時なんかは全然違うから。……けど、好きな音楽だったり、何気なく発する言葉だったり、行動だったりが、驚く程同じ時があって、どうしても切り離して見る事は、出来なかった。……今日、エリナー・リグビー歌ったでしょ?私の名前の由来があの曲だって気付いてくれたのは、杉浦くんと、浅野さんだけ」
あの場で歌うつもりは、本当は無かった。英理奈さんと出会ってから無意識に口ずさむようになったビートルズの『エリナー・リグビー』、つい数時間前の事なのに、もうずっと前の事のように感じる。
あの時の自分を思い出すと、どうしようもなく虚しくなる。
「オレに抱かれながら、いつも浅野さんの事、考えてた?」
「………ごめんなさい。いつも、では無いけど、まったく考えなかったって言ったら、嘘になる。あと、今更隠してもしょうがないし、全部正直に話すけど、浅野さんとは付き合ってはなかったけど、……一度だけ、関係は持った。あの日のこと、今でも後悔してる」
何となく、そんな気がしていた。
ただの憧れにしては執着しすぎているように思えたから。
「あんな事しなければ、もっと普通でいられたのにとか、逆に、あの人のためにもっと何かしてあげられたんじゃないか、とか今更意味の無いことばっかり考えてしまって、私に出来たことなんてあるはずもないのに……。もう、会えないんだって思ったら、苦しくて、……涙止まらなくなって、いなくなってはじめて、……とても、大切な人だった事に気が付いた……」
振り返らなくても泣いているのがわかる。
「そばにいてくれなくていいから、せめて生きていてほしかった……。どこかで、誰かと幸せにしてくれていたら、それだけで、良かったのに……」
子供のように泣きじゃくる英理奈さんをこれ以上放っておく事は出来なかった。
優しく抱きとめて背中を摩る。
オレがこうするのは逆効果なんじゃないかとも思うが、オレに出来る事はこれくらいしか無かった。
とてもじゃないけど、オレでは代わりにはなれない。
彼女の心をこれ程までに揺さぶり、掻き乱せる存在に、オレはなれない。
ひとしきり泣いて、泣き疲れたのか英理奈さんはそのままオレの腕の中で眠っていた。
それからしばらくして、オレの腕に抱かれたまま眠っていた英理奈さんが目を覚ます。
「大丈夫?」
「私、寝てた……?」
「うん」
「……ごめん」
「いや、もともと無理させたのオレだし」
オレの腕の中から抜け出し、ベッドの上で膝を抱えて座る。
「ずっと、起きてたの?」
「……うん」
寝顔を見つめながら、ただひたすら英理奈さんの告白を思い返していた。
「ほとんど話したと思うけど、他に何か、聞きたいことある?」
「……、いや、大丈夫」
聞きたいことが、無いわけではなかったが、もうこれ以上無駄に知りたくも無かった。
「そう。……なら、最後に、一つだけ。本当はこの話をしたかったの。長池くんに会わなければ、浅野さんの話はするつもり無かった」
英理奈さんの声は微かに震えている。
「……私、仕事辞めた。今月中には、この部屋も解約して、この街を出て行く、だから……」
ベッドに横になったまま、見慣れた天井を見つめる。
ここではじめて英理奈さんを抱いたあの日から、このまま何もしないでいたら、いつかこの日が来る事は、いくらバカなオレでもちゃんとわかっていた。
「そう、わかった。……ごめん、ちょっと眠らせて」
そう言って目を閉じる。
脳裏に浮かぶのは、今まで凝視していた天井の模様と、彼女の少し寂し気な横顔。
英理奈さんは何か言いたげだった。けど結局何も言わず、しばらくオレのすぐ隣でじっと座っていた。
今、英理奈さんが何を思っているのか、本当は知りたい、けど、もう何も知らない方がいい。
どうせこれでもう何もかも終わりなんだ。
程なくして英理奈さんは眠ったふりをしているオレに寄り添うように横になり、オレの肩に額をくっつけてきた。抱き締めたくなる衝動を必死で抑えて、やがて聞こえてきた規則正しい寝息につられ、オレもやっと眠ることが出来た……。
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