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第2章 艶のある影を踏んで
1-2 梓乃視点
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窓外の淡い青空が、教室の影に溶け込んでいる。
私立雀ヶ原高校に入学してから、もうじき二週間が経とうとしていた。
四月も下旬。一足早い夏の到来を思わせるかのように、気温は例年に比べて高まりつつある。ブレザーを椅子の背にかけてシャツの腕を捲っている男子の姿が、教室にちらほらと目立ち始めていた。
来週にはゴールデンウィークが控えているのもあり、クラスの中ですっかり形成されつつあるいくつかのグループからは、休日の予定に花を咲かせる声がお構いなしに響いている。春の陽気に混じり始めた初夏の日差しにも負けず劣らない。
朝のホームルーム前の喧騒はそう嫌いではない。でもすこし憂鬱な気分のときに耳を傾けてしまうと、弥月のようにとはいかないまでも、つい机に頬を押し付けたくなる。それくらい気怠かった。
「おはよう、桒崎さん」
すると横合いから挨拶され、私は声の主を振り向く。
学級委員長の鵜里くるみが立っていた。小柄な背丈にブレザーの制服は、真新しさも手伝って、まだ服に着られている感が色濃い。けれど、廊下なんかで時々見かける、まるで小学生にしか見えない一年上の先輩に比べれば、まったく一般的な範疇と言える。
「ええ、鵜里さんもおはよう」
私は努めて鏡の前で練習した通りの笑みを浮かべる。いい加減高校生にもなって周囲と下手な摩擦は起こしたくないための処置。お手本はずっと昔からかなり身近にいたのだけれど、全然参考にならないと悟ったのはまだ記憶に新しかった。
そういう意味では、目の前の鵜里さんの笑顔は魅力的だった。
相手への気遣い方が自然体なのだろう。わざとらしく誰かを小馬鹿にしたような笑みを貼り付けるあいつとは根本からして違う。
「そういえば、桒崎さんって休みの日とかどうしてるの?」
「───休日?」
「そ。まだ聞いたことないなと思って」
ほら、周りもゴールデンウィークが近いから浮かれてることだし、と鵜里さんが同級生たちを横目にしながら、そんなことを言う。
「もしかして勉強とか?」と、その声色は冗談混じり。
「そこまで生真面目に見える?」
「見える。でも、他に想像もつかないんだもの」
それは、こうして教室で話すようになってから大して月日も経っていないのだから、当たり前のことだと思うのだけど。
「逆に鵜里さんはどうなの?」
「私? 私はペットの散歩とか読書とか、まああとはときどきスマホでレシピ調べてお菓子作ってみることもあるくらいかな。あと作業BGM流しながら勉強とか……? あーはは、そう考えてみると家にいること多いや」
「………」
鵜里さんの話を聞いて短い人生を振り返ってみると、私にはそういった趣味嗜好らしいものが特にないことに気づく。我ながら、かなりのショックだった。怜耶がいた頃は、彼女のやっていたことをなんとなくお揃いにしてみるばかりで、それもできなくなった後はどうしていたかと言えば。
「……ほとんどあの部屋にいるだけかもしれない」
そこで予鈴が鳴り出した。私の呟きがちゃんと鵜里さんの耳に届いたのかはともかく、耳馴染みの仰々しい単調なリズムが、クラス中が一斉に椅子を引いたときのバラバラなノイズに掻き消されていく。
鵜里さんは「また後でね」とそっと言葉を残して、自分の席に戻っていき、私はその背中にぼんやりと手を振り返した。
昼休みに入ると、教室中がにわかに騒がしくなる。
クラスメイトたちの雑談を後ろに流しながら、さっさと弁当箱を広げていると、
「あれ、今日は会いに行かないんだね?」
意外そうな目で私を見る鵜里さんの言葉を受けて、そこそこ退屈な授業で紛らわせていた今朝の憂鬱が途端にぶり返した。
そして私の目つきなり表情なりにそれが露骨に出てしまっていたのか、鵜里さんが気まずそうに言葉を詰まらせる。
「あ、えっと、ごめんね。もしかして、地雷踏んじゃいました?」
「……地雷というより、藪を突かれた蛇の気分に近いわ」
「うん、寝床を邪魔されたようなね? ほんとうにごめんなさい」
こういう妙にノリがいいとこ、嫌いになれない。
しかし、それよりも。
「───ねえ、私ってそんなにあからさまだった?」
「自覚なかったんだ……」鵜里さんが微妙な笑みを浮かべる。「まあ、つい目で追っちゃうよね。お昼休みになると、気がつけばいなくなるんだもの。で、いつも終わり頃には、ちょっと不機嫌そうな顔で席に着いてる。噂にもなってるよ? 毎日のように、隣のクラスの男子に会いに行ってるらしいこと」
鵜里さんの言葉に息を詰める。そこまで注目を浴びてしまっていたとは知らず、一度周囲に目を配ってみたけれど、みんな演技がうまいのかなんなのか、私はあまり釈然としなかった。でも、思わず変な汗を掻きそうになったことだけは確かだった。
そのままお昼を一緒にすることになり、鵜里さんは前の人の席を借りて、お世辞にも広いとは言えない一つの机に二つの弁当箱が並んだ。彩りはコンパクトに纏まっているぶん、向こうのほうが鮮やか。
私のほうもおそらく栄養に気を遣ってもらっているのだろうけれど、それを収める器がどうも時代錯誤だ。というより、ちょっと大袈裟だ。外側に黒を、内側には赤を基調とした上品で渋味のある色合い。お節じゃあるまいし。
ミニトマトを一粒、口に放り込む。
「また会いに行っても、どうせ逃げられてしまってるのがオチよ」
鵜里さんは興味津々げにして、手元の箸が止まっていた。
「その男の子とは、いつからの仲なの?」
「……小学校に入る前から?」
「おお、じゃあ幼馴染なんだ」
「幼馴染かというと……」
「え、違うんだ?」
「だって、現実で顔を合わせるの、まだちゃんとできてないから」
そのくせ、向こうの態度はいつも通りと来る。まったくいい加減にしてほしい。先生に見透かされた不安なんて、とっくに何処かへ消え去っているほど。夜のことを思い出しただけで腹が立ってきて、また一粒、ミニトマトを口に放り込み、ぷつりと噛み潰す。
そこまで質問に応えると、鵜里さんが納得した風に頷いていた。
その表情からは色々と話が見えてきたと言わんばかり。
きっと誤解は残ったままだろうけれど、訂正はあえてしない。
「桒崎さんとしては、向こうの煮え切らない態度をどうにかしたい感じと」
「……まあ」
それ自体は、誰だって私と似たような境遇に陥れば思うことに違いない。
「ならさ──」と、そこで鵜里さんが口を開きかけたとき、男子の呼び声が掛かった。鵜里さんのことを呼んでいる。教室の出入り口に目を向けると、目つきが狐のようにキツい担任の女性教諭が廊下の縁に立っていて、そのそばには声を上げた男子の集まりがあった。
「タイミング悪いなぁ……」
鵜里さんはそうぼやきつつ、私に一言だけ謝ると、慌ただしげに席を立った。学級委員長というのも大変だ。いきなり呼び出しがかかるのだから。
「気にしないで」
と、私は私でなんとか一言くらい返せたけれど、これもまた、鵜里さんの耳に届いていたかは疑わしかった。
「………」
一つ。また一つと弁当のおかずを箸で摘む。たわいない喧騒に耳を洗い流されるまま、もそもそと時間ばかりが引き延ばされていくみたいだった。
いつもより鈍い亀のようにお昼ご飯を食べ終えたつもりだったのだけど、思いの外時間には余裕があり、手持ち無沙汰になった私はとりあえず趣味でも探しに図書室にでも行ってみようと、教室を出た。
「……こういう日に限って、よね」
ふと話し声が聞こえたのは、階段に差し掛かったときのこと。
あの部屋で聞くものよりも頭を揺さぶるものがあったけれど、間違いなくあいつの声だった。背の高い場所にある、横に細長い窓の日向の奥で、途切れ途切れにこだましている。
隣にいる誰かと話しているみたい。
「…………はぁ」
足元が躊躇いがちに揺れる。
思えば、私以外の誰かと話している弥月の姿を想像したことがなかった。そんな戸惑いにも似た居心地の悪さが、ほんの僅かに足を重くさせた。
でも、今後こそ、逃げられないように──。
そう決心をつけるまでにおよそ一分くらい。私は息を殺しながら、屋上に続く階段に慎重に足を掛ける。一段ごとに太ももの筋肉がひとりでに強張る。リノリウムと靴裏の樹脂が擦り合わさり、今にも小鳥のように鳴き声をあげそうになっている。
アイツの声が段々と大きくなる。でも、具体的な内容についてまでは踏み込めない。どこか楽しげなのが、なんとなく耳に触れる程度。
階段の折り返しに着くあたりで頭を屈めようとした途端、急にピタリと話し声が止んだ。すぐに失敗を悟った。注がれるような視線を感じるのも束の間、分厚い布がばっと揺れ動く、物々しい気配が聞こえた。
「……っ!」
このままだと逃げられちゃう──!
息を飲んで慌てて駆けあがろうとすると、あいつの隣にいたと思われる男子の声が動揺を含んで、階段に響き渡った。
「は⁉︎ お、おま! ちょ、マジ何やって……っ!」
ガキン、と金属が思い切りひしゃげたような音が間もなく耳に入る。
扉が開く。風切り音が耳朶を掠める。
私が階段の踊り場で振り返った時には、生温い風が遠慮なしに頬を撫でていった。
背中なんて見る間もない。力いっぱいに開け放たれ、そして閉じる途中経過にある屋上の扉の先には、淡い青空が覗いているだけだった。
それもゆっくり風に押されて、ばたんと閉まっていった。
風が止む。
その場に残されたのは私と、前髪で左目を覆い隠した男子生徒の二人。
相手は唖然とした様子で、曇り硝子を嵌めた扉の向こう側に視線を注いでいるようだった。
「陸ノ内くん…でいいんだよね?」
私がそう呼びかけてみると、弥月と一緒にいた男子生徒──陸ノ内裕くんが挙動不審にこちらを振り向いた。口許をまごつかせている。
「あ、えっと、なんで俺の名前……」
「君と私、同じクラスでしょ」
「え、あー……そうだった、かな?」
どうも覚えられていなかったみたい。
「別にいいですけど。それより、み…浦野くんとはここで何を話してたの?」
「何をって。そんなやましいことなんて何も……。って、まず。さっさとこっから去らないと先生に見つかっちまう」
唇をきゅっと窄めると、陸ノ内くんがひどく慌てた様子で階段を駆け降り出した。そして、踊り場に立つ私の横を通り過ぎ、さらに数段ほど降りたところでぎこちなさそうに私を振り返った。
左目を覆う前髪を指で弄りながら、
「早く逃げたほうがいいんじゃ」
階下を窺い気味にそわそわと落ち着きがない。私はちらりと物の見事にドアノブを破壊された屋上の扉を一瞥する。逃げたいのは山々だけど、あの惨状を放置しておくのは流石にまずいと思うんです。
「……私は先生に報告しなくちゃいけないので。ああ、安心して。もちろん、君のことは言わないでおいてあげるから」
「うぁ、まじか。そっか。───…じ、じゃな!」
そこでやっと後顧の憂いは断てたとでも言うように、陸ノ内くんは一目散に逃げ出していった。その後ろ姿は見るからに運動が苦手らしく、もたついた動きが勢いよく足音を響かせてしまっていた。
「……あれだと余計怪しまれちゃうでしょうに」
耳をそば立ててみると、それとは別にちょっとした騒ぎが聞こえてくる。おおかた弥月がそのまま屋上の柵を飛び越え、降りる途中にその一部始終を誰かしらに目撃されてしまったのだろう。何故だか想像に難くない。
「───馬鹿じゃないの、ほんと」
でも、責任の一部が私にもあると言われたら、強く否定し切れないのが嫌なところ。
それから全ての報告は最終的に教育指導の菅間先生のもとに運ばれていったらしく、放課後になると程なくして、呼び出しの放送が入った。主役は弥月で、そのついでに私。教室中よりちらっと私に向けられる、いくつかの目。そのときの私の表情は、きっと相当苦いものだったと思う。
なんでも好奇心は猫をも殺すという。
先生の言葉ではないけれど、背中を押されたにしたって、満足のいく答えが用意されているとはとても思えなかった。
「失礼します」
職員室に着いてみると、待ち人は菅間先生の一人だけだった。
徐々に日が傾きつつある窓の外では、部活動に励む声や気配が遠耳に揺蕩っている。そして目線を引き戻せば、雑然と書類にファイル、タブレットやらの小物類が机の上に並ぶなか、私のことなんて見向きもせず、数人の教師たちが各々の作業に没頭している。
菅間先生は持ち場の席にしっかり腰を据え、表情を巌のように引き締めたまま、時計の針を睨み上げていた。
「あの、浦野くんは?」
「ん、ああ、待ってるんだがな。見ての通り、なかなか来ない」
「………」
「そう不安がらずとも、君を叱りつけるつもりはない。浦野の飛び降り…というより、降下だったかの件とは別に、学校の備品の破壊についての言い分を、君を介して本人の口から引き出したいだけなんでな」
「じゃあ、浦野くんがこのまま来なかった場合は……」
「……逃げてしまわないか、心配なのかね?」
「浦野くん、私のことをかなり避けてるみたいですから」
私がそう話すと、菅間先生は怪訝に片眉を吊り上げた。
「それは君の杞憂に思うが。昼に一度話してみた限り、そんな感じはしなかった」
「でも、事の発端は──」
そのとき、背後でガラガラと職員室の扉が開く。そんな無遠慮な物音に、私の声はあえなく遮られた。
足音が近づいてくる。
風を切るような軽快さ。
そして足音の主が私の隣で立ち止まると、息吹きほどの小さな風がさわりと首元に掛かる髪を揺らした。
「やっと来たか」
と、ため息混じりに呟く菅間先生の声を聞いても、私はどうしても隣を確認することもできず、体が固まってしまった。
ずっと待ち望んでいた機会のはずなのに。
それよりも、戸惑いのほうが遥かに大きかった。
隣ではさっそく二人の会話がロープウェイのように交わされていながらも、私の耳にはちっとも流れてこないまま、このときは最低限の相槌を打つに留まったのだから。
そうして、気がついた時には事が済んでいて、菅間先生の声に顔を上げると、とっくに弥月の姿は職員室から消えていた。
私立雀ヶ原高校に入学してから、もうじき二週間が経とうとしていた。
四月も下旬。一足早い夏の到来を思わせるかのように、気温は例年に比べて高まりつつある。ブレザーを椅子の背にかけてシャツの腕を捲っている男子の姿が、教室にちらほらと目立ち始めていた。
来週にはゴールデンウィークが控えているのもあり、クラスの中ですっかり形成されつつあるいくつかのグループからは、休日の予定に花を咲かせる声がお構いなしに響いている。春の陽気に混じり始めた初夏の日差しにも負けず劣らない。
朝のホームルーム前の喧騒はそう嫌いではない。でもすこし憂鬱な気分のときに耳を傾けてしまうと、弥月のようにとはいかないまでも、つい机に頬を押し付けたくなる。それくらい気怠かった。
「おはよう、桒崎さん」
すると横合いから挨拶され、私は声の主を振り向く。
学級委員長の鵜里くるみが立っていた。小柄な背丈にブレザーの制服は、真新しさも手伝って、まだ服に着られている感が色濃い。けれど、廊下なんかで時々見かける、まるで小学生にしか見えない一年上の先輩に比べれば、まったく一般的な範疇と言える。
「ええ、鵜里さんもおはよう」
私は努めて鏡の前で練習した通りの笑みを浮かべる。いい加減高校生にもなって周囲と下手な摩擦は起こしたくないための処置。お手本はずっと昔からかなり身近にいたのだけれど、全然参考にならないと悟ったのはまだ記憶に新しかった。
そういう意味では、目の前の鵜里さんの笑顔は魅力的だった。
相手への気遣い方が自然体なのだろう。わざとらしく誰かを小馬鹿にしたような笑みを貼り付けるあいつとは根本からして違う。
「そういえば、桒崎さんって休みの日とかどうしてるの?」
「───休日?」
「そ。まだ聞いたことないなと思って」
ほら、周りもゴールデンウィークが近いから浮かれてることだし、と鵜里さんが同級生たちを横目にしながら、そんなことを言う。
「もしかして勉強とか?」と、その声色は冗談混じり。
「そこまで生真面目に見える?」
「見える。でも、他に想像もつかないんだもの」
それは、こうして教室で話すようになってから大して月日も経っていないのだから、当たり前のことだと思うのだけど。
「逆に鵜里さんはどうなの?」
「私? 私はペットの散歩とか読書とか、まああとはときどきスマホでレシピ調べてお菓子作ってみることもあるくらいかな。あと作業BGM流しながら勉強とか……? あーはは、そう考えてみると家にいること多いや」
「………」
鵜里さんの話を聞いて短い人生を振り返ってみると、私にはそういった趣味嗜好らしいものが特にないことに気づく。我ながら、かなりのショックだった。怜耶がいた頃は、彼女のやっていたことをなんとなくお揃いにしてみるばかりで、それもできなくなった後はどうしていたかと言えば。
「……ほとんどあの部屋にいるだけかもしれない」
そこで予鈴が鳴り出した。私の呟きがちゃんと鵜里さんの耳に届いたのかはともかく、耳馴染みの仰々しい単調なリズムが、クラス中が一斉に椅子を引いたときのバラバラなノイズに掻き消されていく。
鵜里さんは「また後でね」とそっと言葉を残して、自分の席に戻っていき、私はその背中にぼんやりと手を振り返した。
昼休みに入ると、教室中がにわかに騒がしくなる。
クラスメイトたちの雑談を後ろに流しながら、さっさと弁当箱を広げていると、
「あれ、今日は会いに行かないんだね?」
意外そうな目で私を見る鵜里さんの言葉を受けて、そこそこ退屈な授業で紛らわせていた今朝の憂鬱が途端にぶり返した。
そして私の目つきなり表情なりにそれが露骨に出てしまっていたのか、鵜里さんが気まずそうに言葉を詰まらせる。
「あ、えっと、ごめんね。もしかして、地雷踏んじゃいました?」
「……地雷というより、藪を突かれた蛇の気分に近いわ」
「うん、寝床を邪魔されたようなね? ほんとうにごめんなさい」
こういう妙にノリがいいとこ、嫌いになれない。
しかし、それよりも。
「───ねえ、私ってそんなにあからさまだった?」
「自覚なかったんだ……」鵜里さんが微妙な笑みを浮かべる。「まあ、つい目で追っちゃうよね。お昼休みになると、気がつけばいなくなるんだもの。で、いつも終わり頃には、ちょっと不機嫌そうな顔で席に着いてる。噂にもなってるよ? 毎日のように、隣のクラスの男子に会いに行ってるらしいこと」
鵜里さんの言葉に息を詰める。そこまで注目を浴びてしまっていたとは知らず、一度周囲に目を配ってみたけれど、みんな演技がうまいのかなんなのか、私はあまり釈然としなかった。でも、思わず変な汗を掻きそうになったことだけは確かだった。
そのままお昼を一緒にすることになり、鵜里さんは前の人の席を借りて、お世辞にも広いとは言えない一つの机に二つの弁当箱が並んだ。彩りはコンパクトに纏まっているぶん、向こうのほうが鮮やか。
私のほうもおそらく栄養に気を遣ってもらっているのだろうけれど、それを収める器がどうも時代錯誤だ。というより、ちょっと大袈裟だ。外側に黒を、内側には赤を基調とした上品で渋味のある色合い。お節じゃあるまいし。
ミニトマトを一粒、口に放り込む。
「また会いに行っても、どうせ逃げられてしまってるのがオチよ」
鵜里さんは興味津々げにして、手元の箸が止まっていた。
「その男の子とは、いつからの仲なの?」
「……小学校に入る前から?」
「おお、じゃあ幼馴染なんだ」
「幼馴染かというと……」
「え、違うんだ?」
「だって、現実で顔を合わせるの、まだちゃんとできてないから」
そのくせ、向こうの態度はいつも通りと来る。まったくいい加減にしてほしい。先生に見透かされた不安なんて、とっくに何処かへ消え去っているほど。夜のことを思い出しただけで腹が立ってきて、また一粒、ミニトマトを口に放り込み、ぷつりと噛み潰す。
そこまで質問に応えると、鵜里さんが納得した風に頷いていた。
その表情からは色々と話が見えてきたと言わんばかり。
きっと誤解は残ったままだろうけれど、訂正はあえてしない。
「桒崎さんとしては、向こうの煮え切らない態度をどうにかしたい感じと」
「……まあ」
それ自体は、誰だって私と似たような境遇に陥れば思うことに違いない。
「ならさ──」と、そこで鵜里さんが口を開きかけたとき、男子の呼び声が掛かった。鵜里さんのことを呼んでいる。教室の出入り口に目を向けると、目つきが狐のようにキツい担任の女性教諭が廊下の縁に立っていて、そのそばには声を上げた男子の集まりがあった。
「タイミング悪いなぁ……」
鵜里さんはそうぼやきつつ、私に一言だけ謝ると、慌ただしげに席を立った。学級委員長というのも大変だ。いきなり呼び出しがかかるのだから。
「気にしないで」
と、私は私でなんとか一言くらい返せたけれど、これもまた、鵜里さんの耳に届いていたかは疑わしかった。
「………」
一つ。また一つと弁当のおかずを箸で摘む。たわいない喧騒に耳を洗い流されるまま、もそもそと時間ばかりが引き延ばされていくみたいだった。
いつもより鈍い亀のようにお昼ご飯を食べ終えたつもりだったのだけど、思いの外時間には余裕があり、手持ち無沙汰になった私はとりあえず趣味でも探しに図書室にでも行ってみようと、教室を出た。
「……こういう日に限って、よね」
ふと話し声が聞こえたのは、階段に差し掛かったときのこと。
あの部屋で聞くものよりも頭を揺さぶるものがあったけれど、間違いなくあいつの声だった。背の高い場所にある、横に細長い窓の日向の奥で、途切れ途切れにこだましている。
隣にいる誰かと話しているみたい。
「…………はぁ」
足元が躊躇いがちに揺れる。
思えば、私以外の誰かと話している弥月の姿を想像したことがなかった。そんな戸惑いにも似た居心地の悪さが、ほんの僅かに足を重くさせた。
でも、今後こそ、逃げられないように──。
そう決心をつけるまでにおよそ一分くらい。私は息を殺しながら、屋上に続く階段に慎重に足を掛ける。一段ごとに太ももの筋肉がひとりでに強張る。リノリウムと靴裏の樹脂が擦り合わさり、今にも小鳥のように鳴き声をあげそうになっている。
アイツの声が段々と大きくなる。でも、具体的な内容についてまでは踏み込めない。どこか楽しげなのが、なんとなく耳に触れる程度。
階段の折り返しに着くあたりで頭を屈めようとした途端、急にピタリと話し声が止んだ。すぐに失敗を悟った。注がれるような視線を感じるのも束の間、分厚い布がばっと揺れ動く、物々しい気配が聞こえた。
「……っ!」
このままだと逃げられちゃう──!
息を飲んで慌てて駆けあがろうとすると、あいつの隣にいたと思われる男子の声が動揺を含んで、階段に響き渡った。
「は⁉︎ お、おま! ちょ、マジ何やって……っ!」
ガキン、と金属が思い切りひしゃげたような音が間もなく耳に入る。
扉が開く。風切り音が耳朶を掠める。
私が階段の踊り場で振り返った時には、生温い風が遠慮なしに頬を撫でていった。
背中なんて見る間もない。力いっぱいに開け放たれ、そして閉じる途中経過にある屋上の扉の先には、淡い青空が覗いているだけだった。
それもゆっくり風に押されて、ばたんと閉まっていった。
風が止む。
その場に残されたのは私と、前髪で左目を覆い隠した男子生徒の二人。
相手は唖然とした様子で、曇り硝子を嵌めた扉の向こう側に視線を注いでいるようだった。
「陸ノ内くん…でいいんだよね?」
私がそう呼びかけてみると、弥月と一緒にいた男子生徒──陸ノ内裕くんが挙動不審にこちらを振り向いた。口許をまごつかせている。
「あ、えっと、なんで俺の名前……」
「君と私、同じクラスでしょ」
「え、あー……そうだった、かな?」
どうも覚えられていなかったみたい。
「別にいいですけど。それより、み…浦野くんとはここで何を話してたの?」
「何をって。そんなやましいことなんて何も……。って、まず。さっさとこっから去らないと先生に見つかっちまう」
唇をきゅっと窄めると、陸ノ内くんがひどく慌てた様子で階段を駆け降り出した。そして、踊り場に立つ私の横を通り過ぎ、さらに数段ほど降りたところでぎこちなさそうに私を振り返った。
左目を覆う前髪を指で弄りながら、
「早く逃げたほうがいいんじゃ」
階下を窺い気味にそわそわと落ち着きがない。私はちらりと物の見事にドアノブを破壊された屋上の扉を一瞥する。逃げたいのは山々だけど、あの惨状を放置しておくのは流石にまずいと思うんです。
「……私は先生に報告しなくちゃいけないので。ああ、安心して。もちろん、君のことは言わないでおいてあげるから」
「うぁ、まじか。そっか。───…じ、じゃな!」
そこでやっと後顧の憂いは断てたとでも言うように、陸ノ内くんは一目散に逃げ出していった。その後ろ姿は見るからに運動が苦手らしく、もたついた動きが勢いよく足音を響かせてしまっていた。
「……あれだと余計怪しまれちゃうでしょうに」
耳をそば立ててみると、それとは別にちょっとした騒ぎが聞こえてくる。おおかた弥月がそのまま屋上の柵を飛び越え、降りる途中にその一部始終を誰かしらに目撃されてしまったのだろう。何故だか想像に難くない。
「───馬鹿じゃないの、ほんと」
でも、責任の一部が私にもあると言われたら、強く否定し切れないのが嫌なところ。
それから全ての報告は最終的に教育指導の菅間先生のもとに運ばれていったらしく、放課後になると程なくして、呼び出しの放送が入った。主役は弥月で、そのついでに私。教室中よりちらっと私に向けられる、いくつかの目。そのときの私の表情は、きっと相当苦いものだったと思う。
なんでも好奇心は猫をも殺すという。
先生の言葉ではないけれど、背中を押されたにしたって、満足のいく答えが用意されているとはとても思えなかった。
「失礼します」
職員室に着いてみると、待ち人は菅間先生の一人だけだった。
徐々に日が傾きつつある窓の外では、部活動に励む声や気配が遠耳に揺蕩っている。そして目線を引き戻せば、雑然と書類にファイル、タブレットやらの小物類が机の上に並ぶなか、私のことなんて見向きもせず、数人の教師たちが各々の作業に没頭している。
菅間先生は持ち場の席にしっかり腰を据え、表情を巌のように引き締めたまま、時計の針を睨み上げていた。
「あの、浦野くんは?」
「ん、ああ、待ってるんだがな。見ての通り、なかなか来ない」
「………」
「そう不安がらずとも、君を叱りつけるつもりはない。浦野の飛び降り…というより、降下だったかの件とは別に、学校の備品の破壊についての言い分を、君を介して本人の口から引き出したいだけなんでな」
「じゃあ、浦野くんがこのまま来なかった場合は……」
「……逃げてしまわないか、心配なのかね?」
「浦野くん、私のことをかなり避けてるみたいですから」
私がそう話すと、菅間先生は怪訝に片眉を吊り上げた。
「それは君の杞憂に思うが。昼に一度話してみた限り、そんな感じはしなかった」
「でも、事の発端は──」
そのとき、背後でガラガラと職員室の扉が開く。そんな無遠慮な物音に、私の声はあえなく遮られた。
足音が近づいてくる。
風を切るような軽快さ。
そして足音の主が私の隣で立ち止まると、息吹きほどの小さな風がさわりと首元に掛かる髪を揺らした。
「やっと来たか」
と、ため息混じりに呟く菅間先生の声を聞いても、私はどうしても隣を確認することもできず、体が固まってしまった。
ずっと待ち望んでいた機会のはずなのに。
それよりも、戸惑いのほうが遥かに大きかった。
隣ではさっそく二人の会話がロープウェイのように交わされていながらも、私の耳にはちっとも流れてこないまま、このときは最低限の相槌を打つに留まったのだから。
そうして、気がついた時には事が済んでいて、菅間先生の声に顔を上げると、とっくに弥月の姿は職員室から消えていた。
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