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第1章 白醒めた息止まり
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七月二十日の土曜日。全国的に最高気温を叩き出し、街の人々は喘ぐようにして襟元を扇いでいる。
上根駅北口周辺の人通りは盛んだ。
アーケード街の本道には夏休みに入った学生の姿が多く、アルバイトに励む若者も平時に比べ幾許か増えているようだ。
照りつける太陽。信号待ちによる人の壁。駅前の渋滞。喉の渇き。節操なしに入れ替わる一昼限りの顔触れ。蜃気楼と目眩。待ち合わせの人違いは下手な熱気よりも赤い焼き目が浮き出る。
その光景はまるで連日の不穏な空気に麻酔を散布するように。
昨日までのどんよりとした曇天を拭い去りたくて、溜まりに溜まった梅雨の湿気を絞りたいと、賑わいがさらなる賑わいを起こし、誰かの笑い声に釣られては活気も昼の頂上に向けて次第に高まっていた。
一方で改修もされず放って置かれた廃墟が立ち並ぶ裏路地は依然として寂れたままだった。熱波により枯れ荒んだ風を吹き通し、本来かきいれどきの帳簿はまったくもって色褪せるような有り様だ。
代わりに物々しい気配が旧市場一帯を行き交っていた。
灼熱の光を浴びて、傷跡めいた凹凸のある意匠の刻まれたルーフはシャンデリアの如く煌びやかな光彩を放ち、地面には浅瀬の底を思わせる影とのコントラストを描き出していた。
そこへ乱雑に叩きつけるような足音が反響する。
だっ、だっ、だん、と。
男は裏路地を駆ける。
いったい、どこで踏み外したのか───。
男の頭の中でひたすら反芻し浮かび上がるその言葉は、息が荒れる毎にあたかも砂漠の砂が濡れていくように黒く燻んでいく。
決まっている。
そんな事はとうにわかり切っている。
男は追われる身だった。
自業自得の末ではあるが、何も全てが自分の失態によって招いた状況ではないはずだと、男は嘆かずにいられなかった。
それほど辛くはない肉体労働と引き換えに割りのいい見返りが得られる簡単なアルバイト。そのような文言で男が大学のサークルの先輩に誘われたのが、つい二ヶ月ほど前。最初こそ訝しんだものの、詳しく聞いてみると、内容はそう、怪しげなものではなかった。
近頃、ネットでたまに見掛ける買い物代行サービス。知り合いが新しく起業し、バイトの配達スタッフを募集しているとの事で、サークルの先輩は手当たり次第に声を掛けていたらしい。男もその一人で、その頃は大学に入学してから一年が経ち、新しい生活にもすっかり順応したところ、娯楽に浪費できるだけの小金をどこともなしに欲していた事情もあったので、軽い気持ちで誘いに乗った。
職場は上根駅南口付近の雑居ビル三階にあり、内装の雰囲気はオフィスというより、倉庫に近かった。同僚のスタッフも知り合い経由で応募した人ばかりのようで、おおよそ危惧される人間関係のいざこざも特になく、軽い研修を終え、実際の業務に入る頃には隙間に挟まった塵のような不安も消えていた。
初めの三週間はサイトの会員から依頼された通りの買い物をひたすら代行するだけの作業だった。配達スタッフに支給されるのは、携帯端末と必要に応じた金額の入った財布の二つ。依頼が入ったらその二つを持ち、内容に従い買い物を済ませ、無事配達を終えたらアプリ内の画面に報酬額が反映される。そう辛くはない肉体労働なのはその通りだったが、割りのいいバイトかと思えば平均時給より少し多いくらいで、その点に関してだけ男は不満を持った。
───しかし、そんなものか、と。
騙されたというよりは甘い言葉に乗せられてしまったという拍子抜け加減。それは誘ってきた相手に向ける怒りではなく、自分の浅薄さになんとなく呆れるような心理。抱いた不満自体は本当に小さく、今更辞めようと思うほど膨らみもしなかった。
それから何事もなく数日が経過し、六月初旬。
あるとき、いつもと一風変わった注文が入った。買い物の内容自体は他の利用者と比べ少なめ。しかし、二点ほど要望があった。ある場所のロッカーに忘れ物をしてしまい、その中身を取ってきてほしい。またチェックボックスの項目欄にある、郵便受けの確認の要望もあった。ロッカーは暗証番号方式のようで、四桁の数字も記載されていた。念のため上司に確認を取ってみると、別途料金が掛かる形でこのような要望も承っているとの話だった。
男は漠然と違和感を抱きつつも、通常通りに業務を遂行した。
ロッカーの中には文房具店で買えるような淡い茶色の小さな紙袋がぽつんと収まっていた。プライバシーに関わるので中身を改めようとはせず、そのまま買い物袋に入れた。
今回は個人的な物の受け渡しを含むため、いつものように置き配ではなく、直接対面して、確認のサインを貰う必要があった。
そして依頼人の姿に男は愕然とし、息を呑んだ。
相手は車椅子の少女だった。目を惹かれるほど均整の取れた顔立ち。頬は微かに窶れた様子ながらも雪の結晶を彷彿とさせる儚さがある。
「ありがとうございます」と、少女は礼儀正しくそう述べた。
男は初めこそ車椅子の姿に面食らったものの、すぐさま対応した。
受け渡し物に問題がないか確認してもらうと、彼女は袋の中身を覗き、そっと微笑んだ。
「はい、問題ありません」
その“忘れ物”が余程大事で、切実な物だったのだろう。その時のほっとしたような、それでいてどこか恍惚と吐息をするような薄い笑みが男の心を掴んで離さなかった。あまりにも魔的だった。
そして通常時の十倍もの報酬額が反映され、また男の心を沸き立たせた。
この一件以降、似たような依頼が増え出した。
何処かしらのロッカーの中身の回収と郵便受けの確認。
男は率先してその手の要望が入った依頼を引き受けていった。
最初の内は単純に趣味に費やせる資金が増えていくことを喜んだ。もしかしたら、またあの少女とも会えるかもしれない。そんな浮ついた期待も男の足を後押しする要因であった。
実際、二度三度と短期間のうちに会う機会に恵まれた。会うたびに少女の姿は痩せ衰え、同時にその美しさに磨きがかかっていくようだった。“忘れ物”が多いようだが、それで少女が喜び、自分の乾いた心にも潤いが出るのだから、いちいち気に留めようとはしなかった。
しかし、七月に入ると街の空気がどことなく澱み、ああいったニュースが途端に目につくようになった。
『違法薬物売買による逮捕者』
『薬物中毒患者の急増』
一晩中、ざわつきは収まらなかった。大学の講義を受けている間でさえも、誰かに見られているような不安に襲われた。
男にはそれらの事柄がどうしても他人事とは思えなかったのだ。
これまで運ばされたあの紙袋の中身。
───俺は一体、何をやらされていた?
少女から四度目の依頼が入り、男はそろそろ痺れを切らして訊ねた。
「当たり障りなければ……その、聞いていいかな?」
「なんでしょう?」
「それの中身についてなんだけど」
男が躊躇い気味にそう切り出すと、少女は途端に何かを察したように「───ああ」と息をついた。
「きっと、聞いたところでつまらないものです」
と、妙な言い回しではぐらかされてしまった。
それでも、確信に至るには十分な気遣いだった。
陥った窪みは未だ底知れず、気がついた時には、男はもう抜け出せない地点にいた。まず、企業とのアルバイト契約それ自体に罠があった。企業側が依頼を請け負い、配達スタッフへと回され、企業を介して報酬が支払われる従来の仕組みではなかった。企業側はあくまで依頼を仲介する“プラットフォーム”の役割しか果たさず、実態は依頼者と配達スタッフとの間で交わされた個人契約であり、責任の大部分は配達スタッフのみに帰属する。違法薬物の送達は、すべて男の責任となる。そんな仕組みだったらしい。
上司だと思われていた人物に詰め寄り、結局そう突き放された時、男は断崖の淵へと足を踏み外した気分だった。
世界が、灰色に染まる。
世間ではすでに梅雨の時期。さわさわと雨が降っていた。
───まるで、息が詰まりそうだ。
男は雨に打たれながら思う。
これは、一体誰のせいになる。
誘ってきたサークルの先輩。自分を雇い入れたように見せかけた企業。互いに気が付きもしなかった鈍い同僚たち。そして、あまりにも弱々しい車椅子の少女。
滔滔と人の顔が過ぎり、不意に一段と大きく胸が鼓動を打った。
男の手にはもう、何も残されてなどいない。
理性を現実に引き留める糸はとうに溶け、千切れてしまっている。
喘いだ先に待つのは、どのみち寒々しい豚箱。嘲笑と冷笑。針の筵のような世間の眼差し。愚者がひとり、人知れず転落するだけだ。
男は、弱虫だった。自らを醜い弱者と甘んじた。
それはいっそのこと、目を覆いたくなるほどに。
何度も通った道程だ。住所は覚えている。会ってくれるかは本来不明瞭なところ、男には不思議と、直接会ってくれるだろうという謎の確信に満ちていた。木曜の平日。決まってその日、マンションの部屋にはあの少女ひとりきりだ。
荒げそうになる息を必死に抑え……。
分厚い合金製の扉を開け、出迎えに来た車椅子の少女の首に、男は───。
男は追われる身となった。
あの日からすべてが一変してしまった。
まるで永く、悪夢を彷徨い続けているようだ。蜘蛛の糸に包まれるような気味の悪い不安感が寝ても覚めても拭えない。
茹だるような熱気が男の額に汗を滲ませる。
男は路地裏の影に身を潜め、乱れた呼吸を落ち着かせていた。
ここ一週間以上、男は家にも戻らず、人目を避けるようにこうして惨めな逃亡生活を送っている。警察にはとっくに目をつけられているものの、人員を他の件に回しているのか、それほどしつこくは追ってこない。アルバイト先があれからどうなったのかさえ、他者との連絡を可能な限り断ち続けている男には与り知らない事だった。
そんな窮屈ながらも身動きが全く取れないわけでもない状況下にありながら、男はまた別の何者かに追われていた。巡り合わせの悪い人生だとつくづく毒づかずにはいられない。
しかし、生憎と思い当たる節はあった。
追手は一人か二人。仲間の恨みを買ったのだろう、と。
それは遡ること一週間ほど前。男は人殺しの罪を犯していた。
なんてことない、強盗を目的とした殺人行為。相手はサークルの先輩と見知った顔だった。当初はもっと身を焦がすような罪の意識に苛まれるのだとばかり想像していたが、知り合いの泣き顔を拝もうとも、罪悪感は毛程も湧いてこなかった。
「───そう。そうだよな。普通、怖がるよな」
と、殺す手前、場違いな感想を思わず口にしてしまうくらい、手に伝わる感触はあっさりとしていた。
悲鳴は上がらなかった。知り合いを殺し終えたあと、男はしばらく放心した。……反して、背骨が弾みで崩れそうなほどの悪寒は止みそうになく。死体となった先輩の上で馬乗りになった自分の姿を斜め背後から俯瞰しているような、天に昇る解放感に浸っていた。
目的のブツを頂くついでに薬物の流通を担う悪人を一人、この世から掃除できたと思えば、どこか贖罪のようだと感じる節さえあった。
贖罪など、所詮ありもしない綺麗事だというのに。
薄暗い闇が脳裏に揺蕩う。
今にも息絶えそうな囁き声が芯を痺れさせる。
“────、──────────”
脊髄に氷柱が貫通するような衝撃を思い起こす。
後戻りはできない。
男はもはや、付き従うだけの亡者に身を堕としているのだから。
呼吸はすでに整いつつある。息苦しさすら覚える蒸し暑さでは、日陰で一休みしようがこれ以上の体力回復は望めない。
男は立ち上がり、路地裏の狭間から、僅かな夏空を覗いた。
眩しいまでの澄み渡る蒼。
昨日までの曇り空がまるで嘘みたいだ。
中身の伴わない瓦礫ばかりが残されるここからでは、陳腐な張りぼてのようでさえあると男には感じられた。そこに重なるのは自分という存在。周囲に流され、振り回されるだけの軽薄な実体だ。
「──────」
そのとき、頭上より落下してくる一つの影を捉える。
……ピエロの、面?
それが、男の視界を瞬く間に覆い───ぐしゃり。
と、何者かの質量をもろに浴びた男の身体は見事に潰された。
しかし、血飛沫は舞わなかった。代わりに白い繊維が宙に散り、男の姿は水に溶けた綿飴のように跡形もなく消え去った。
そして男を潰しにかかった張本人は仮面の奥で何食わぬ顔でぼやく。
「ちぇ、これもハズレだ」
浦野弥月の大胆かつ容赦のない登場であった。
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