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第1章 白醒めた息止まり
2-7
しおりを挟むピエロの面を被った弥月は、オフィスの出入り口で足を止め、じっと内装を見渡す。
……熱気が、逃げ場もなく篭っている。
磨りガラス調のパーテーションで迷路のように仕切られたオフィス。
窓辺には日差しが掛かっているが、中央まで手を届かせるほどの輝かしさはなく、パーテーション越しだとなおさら心許ない。敷き詰められたカーペットは薄汚れ、すっかり埃を被り、男のものと思しき足跡が転々とするように奥へ続いていた。
「鬼ごっこはもうおしまい?」
弥月が悠々と歩みを進める。
男の息遣いがはっきりと聴こえる方向へと。
距離が縮まるたび、肌を這うような悪寒が走る。
まるで獣の体毛が鋭く逆立つようだ。
興奮か、あるいは事此処に及んで恐怖か。
涙するピエロの面の奥で、相貌が歪みそうになる。
「その声の感じ、お前まだ高校生か中学生だろ……? ふざけた仮面なんか被りやがって」
男がオフィスの奥まった陰で声を上げた。その声音は震えている。
弥月は歩みを止め、男の言葉に耳を傾ける。
「───な、なんなんだよっ、お前。どうしてオレを狙うっ!」
「正義感と答えれば、あなたは納得してくれる?」
「……正義感?」
男が間抜けな声を漏らし、即座に吐き捨てた。
「ふざけるな。正義を気取った愉快犯の間違いだろ。お、お前もどうせ、クスリ目当てのクズ野郎に違いないんだ。オレにはわかる。なんとなくわかるんだ。お前もオレと同類だ」
同類──その言葉に、弥月は仮面の裏で苦笑を浮かべた。
そしてポケットに両手を突っ込み、息をつく。
「否定はしないけどさ。クスリでどうにかなるのなら、僕だってそうしたいことも一つや二つはある。でも──」
男とは対照的に、静かに言葉を継ぐ。
「人を殺すことに何の葛藤も抱かなかったあなたと、一緒にはしないでほしいな」
「は、はっ、偽善者ぶるなよ。オレが殺した相手は犯罪者だ、それがこの世から一人いなくなったんだ、褒められこそすれ、詰られる覚えなんてない。ましてお前みたいな気取ったガキに……。オレの何がわかるってんだ!」
「端からわかりっこない。僕はあなたの名前も、動機も知らない。興味もない」
「だったら……っ!」
「でもダメだ。見逃すことはできない」
正義感という答えも、彼にとっては根拠のないあやふやな代弁に過ぎなかった。
碧菜の独断専行の後追い。それに駆り出された、流されっぱなしの自分。
───この男を捕まえたい。手伝ってよ。
弥月が待ち合わせ場所に着いたとき、碧菜は初めにまっすぐ瞳を見据え、少年にそう告げた。依頼にあたる上での動機は、そんなたった一つのやり取りで満たされてしまった。
「僕に目的意識なんてなくても、これは僕に望まれた事だから」
同類といえば、男も弥月も確かに同類なのだろう。かたや車椅子の少女のために違法薬物の調達を背負う男と、誰かの頼みなら殺人犯を追跡し、対峙するという危険な役割さえ厭わない弥月。
両者の違いを隔てる境界は、悲しいほど不確かだった。
対話はそこで終わりを告げ、忘れ去られたモノ達の沈黙が返り咲く。
先に動きを見せたのは運び屋の男。デスクを覆い隠す木目のパーテーションから飛び出し、弥月に肉薄する。男は腕を払うような大振りで少年の仮面を浚うが、致命打にはならない。
対する弥月は急激に迫る男の懐へ身を潜り込ませ、拳を振るった。少年の一撃が男の顎を捉える──だが、手応えは乏しい。繊維状の柔らかな感触とともに空を切る。相手はダミーだった。
そして急速に白くなっていく男の綻ぶような笑みが目に入った。
頭部は脆くも破砕し、瞬間、濃霧の如く粉末が拡散した。
「───ッ!」
これまでになかった反応に弥月は咄嗟に息を止めたが、この至近距離では防ぎ切れない。脳に根を伸ばすような異物感。喉奥に焼けるような渇きと、心臓が狂ったように鼓動を打ち始める。指先も痺れ出し、集中を欠く。
風も吹かない密室。粉末が周囲を取り巻き、一瞬のうちに視界を奪われてしまう。そんな粉雪の舞うような光景に囲まれながら、弥月は灼熱の渦中に身を置くような怠さに襲われていた。
視界も弥月の意に反して揺れ動く。理性の感知する動作に数秒の遅れが出ている。まるで残像のなかに感覚だけが取り残されたようだ。
──…まずいな。このままだと、アタマが溶けてしまいそうだ。
そこへすかさず男の追撃が弥月の背後に忍び寄る。
頭をふらつかせる少年の足元を崩し、本体の脱出を確実な物にするための仕上げ。
男の意思は取り憑かれたように首尾一貫していた。目的はあくまでこの場からの逃走にあるのだから。
しかし、知恵に長けているわけでもない男の捻り出した策略は、少年のたった一つの暴力にあえなく破れ去る。
男の残る一体の分身が足元を崩しに来るよりも早く、少年は唐突にふらっと身を沈め、耳が床に直接触れるくらい姿勢を落とした。それは理性ではなく、本能が導いた予備動作。床を伝う振動と、荒れ狂う心拍が同調する。そして、すでに逃走を図っていた本体の元へと、獣さながらの機敏さで跳びかかった。
弥月の背後にあるオフィスの出入り口。そこに差し掛かっていた男は、突然の衝撃に構える余裕すらなく、だん、と視界に稲妻のような閃光が迸った。廊下の壁に激突し、めきめきと押しやられる。
その後方では分身が突撃の余波に巻き込まれ、一拍遅れて四散していた。
「はっ────ァ……!」
歯を剥き出しに唸るような息遣い。どうしようもない渇きに堪える苦痛が、熱を持った吐息の端に滲んでいる。
そして、奥歯を力一杯に噛み締めた。弥月は磔にした男の腕をばっと離し、羽虫を払うようにして床に放り出した。その際、男はぴくりとも動かない。掴み上げていた腕があらぬ方向に曲がっているが、かろうじて息は残っている。気絶しているだけのようだ。
───決着は、実に呆気なかった。
「はぁ、はっ、はぁ、はぁ…っ」
視界が収縮を繰り返すように明滅している。
神経の興奮は未だ鎮まる気配がなく、肺に至っては今にも破裂しそうなほどだった。
ここに留まり続ければ、いずれ抑えも効かなくなる。
弥月はじわじわと湧いて出る汗を拭いつつ踵を返し、足元も覚束ないまま屋上へ向かった。
屋上に出ると、依然として空は晴れ渡っていた。
中の蒸し暑さとは比べるべくもない熱気。
けれど、あの毒に侵されるような不快感よりは遥かにマシと言えた。
「碧菜ちゃんがこっちに着くまでには、調子戻しとかないとな」
弥月が屋上の手すりに寄りかかり、温風を身に浴びる。
遠くでサイレンが鳴り響いている。
熱中症か事故か窃盗か。まもなく鳴り止むだろう。なんにせよ、先ほどの小競り合いとは、ほとんど無縁の小火騒ぎには変わりない。
「一歩でも踏み間違えれば……」
そこまで呟いたところで、弥月は有耶無耶に噛み潰した。
らしくもない感傷だ。綱渡りのような日々を送る少年にとって、嘆いても始まらないし終わらない話でもあった。
「───それにしたって、今年も暑いな」
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