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第1章 白醒めた息止まり
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食堂の窓辺から正午の鋭い陽光が射し込み、その中を粉雪のような埃がひらひらと舞う。がらんとした食堂。振り子の戸に灰を被ったままの古時計。土曜日の聖堂めいた静謐さと相まって、夏の喧騒とは隔絶された涼やかな空間だった。
広い食卓に並ぶささやかな軽食。ハーブの芳しさを燻らすふたり分のティーカップと、急遽用意されたような不恰好な焼き菓子。光の指先に掛かるカップの縁からは、ふわりと透かしめく湯気が立ち昇っていた。
その光がわずかに届かない、奥まった陰の中。梓乃と怜耶のふたりは、並んで席に腰を下ろしていた。
「……よかった。やっと、目が合った気がする」
梓乃がほっとしたように呟いたとき、怜耶がふっと微笑み返した。表情には仄かな翳り。戸惑い気味ではあるものの、その声色はやわらかだ。
「なに言ってるの。今までだって、ちゃんと目が合ってたでしょう?」
梓乃は小首を傾げた。考え込むようにゆっくりと目線が逸れていく。そのまま暗い色合いの食卓の表面を滑っていくと、紅茶から揺蕩う湯気にじっと視線を注いだ。
「なんとなく、ではあるんだけどね。怜耶は私を見ているようで、違う何処かを見ている気がしたの。……あるいは、その逆かな。私が怜耶をちゃんと見ているようで、別の誰かと顔を合わせているような気がしてならなかった」
その呟きは、梓乃の目の前で繰り広げられる小さな光景のように、劇しい光の中に溶け込んでいった。
湯気の忙しない幽かな影がふたりの影法師の間を流れている。
「怜耶は──」
梓乃の意を決したような響きに思わず、怜耶は手を胸元に寄せ、きゅっと握った。
「怜耶はどうして、こっちに戻ってきたの?」
「……それって気にするほどのことかしら」
「気にする。だって同じ気がするから。急にいなくなって、急に帰ってきて。どっちとも、私に言いたくないことがあるみたい」
「………」
怜耶は、途端に言葉を失った。
胸の疼きはより膨らみ、肺と心臓の間で摩擦を起こした。
ティーカップの持ち手をそっと摘み、唇を湿らせる。喉奥に流し込まれた熱が胃袋の内で拡散する。まるで宥めるように。以前ほどの多幸感はなく、くらりと脳味噌が浮くように微熱を帯びるだけ。
少し体を傾ければ肩が触れ合うほどの距離感。本来ならそのはずだ。
脇腹の高さまで迫り上がった肘掛け。すっかり体温に馴染んだ背もたれと石像のように重くなった足を収めるフットサポート。
かちゃ、とガラスの擦れる音が空虚然とこだまする。
友人の目には見えていない惨めな自分。
決して見せてはならない雁字搦めの姿。
車椅子に縛られた体を、怜耶は冷めた眼差しで見下ろした。
「ごめんなさい。せっかく、久しぶりに会えたのにね」
ずっと暗い話ばかりしちゃってる──。
梓乃は曖昧に笑みを繕い、申し訳なさそうにしながら顔を伏せて、カップの縁を所在なげに指でなぞっている。そういえば、梓乃は熱い飲み物を口に含むのが苦手だった、と怜耶は昔を懐かしむように目を細めた。
おそらく、時間の問題だった。梓乃はとっくに勘付きつつある。目の前にいる彼女が、もうあの頃の巌貫怜耶ではない事に。外見は二年前と殆ど変わらず、それでも少しは大人びたかもしれないが、しかしそこには何か、致命的な断絶が横たわっていると。
手を引かれても二度とは動かせない足。例え梓乃に笑いかけられても、その瞳に映るのは虚ろな姿見。薄白い影の下に閉じ籠ったまま、ただ息を吸い、過去に取り残された置き物のような存在がそこにいる。
醜いままだから。
綺麗な過去は、薄汚れた現実の前に頽れていく。
……今までの関係では、どうしてもいられないのだろう。
そう思うと、次第に視界が滲み、呼吸は引き攣るように高鳴り出した。
「いいえ、梓乃はなにも悪くないわ。……むしろ、悪いのは私のほう」
真実は無粋な棘だ。喪失を刺激する無用な痛覚に他ならない。それは、眠れない夜を彷彿とさせた。なら、麻酔を打てばいい。実在を手の届かない彼岸へ置き去りにすればいい。いつもやってきたように。飽き足らず飲み下してきた手口だ。
周囲を取り巻く世界が完璧に鈍麻した虚構であれば、こんな怯える必要もなくなるのだから。
「私の嘘が中途半端だったから。あなたに気を遣わせてしまった」
そして、その方法は容易に思い浮かんだ。怜耶は疑いもしなかった。目を逸らし続けている過失。桒崎梓乃にはついぞ打ち明けられなかった罪の所在。そのすべてを湯気に溶かし込んだ。
「───やっぱり。こうするしか、なかったんでしょうね」
祈るように、そっと……。
息が白い。日向に溶ける様はまるでヴェールのよう。
白い霧は瞬く間に桒崎梓乃の意識を覆い、自由を奪い取っていった。
広い食卓に並ぶささやかな軽食。ハーブの芳しさを燻らすふたり分のティーカップと、急遽用意されたような不恰好な焼き菓子。光の指先に掛かるカップの縁からは、ふわりと透かしめく湯気が立ち昇っていた。
その光がわずかに届かない、奥まった陰の中。梓乃と怜耶のふたりは、並んで席に腰を下ろしていた。
「……よかった。やっと、目が合った気がする」
梓乃がほっとしたように呟いたとき、怜耶がふっと微笑み返した。表情には仄かな翳り。戸惑い気味ではあるものの、その声色はやわらかだ。
「なに言ってるの。今までだって、ちゃんと目が合ってたでしょう?」
梓乃は小首を傾げた。考え込むようにゆっくりと目線が逸れていく。そのまま暗い色合いの食卓の表面を滑っていくと、紅茶から揺蕩う湯気にじっと視線を注いだ。
「なんとなく、ではあるんだけどね。怜耶は私を見ているようで、違う何処かを見ている気がしたの。……あるいは、その逆かな。私が怜耶をちゃんと見ているようで、別の誰かと顔を合わせているような気がしてならなかった」
その呟きは、梓乃の目の前で繰り広げられる小さな光景のように、劇しい光の中に溶け込んでいった。
湯気の忙しない幽かな影がふたりの影法師の間を流れている。
「怜耶は──」
梓乃の意を決したような響きに思わず、怜耶は手を胸元に寄せ、きゅっと握った。
「怜耶はどうして、こっちに戻ってきたの?」
「……それって気にするほどのことかしら」
「気にする。だって同じ気がするから。急にいなくなって、急に帰ってきて。どっちとも、私に言いたくないことがあるみたい」
「………」
怜耶は、途端に言葉を失った。
胸の疼きはより膨らみ、肺と心臓の間で摩擦を起こした。
ティーカップの持ち手をそっと摘み、唇を湿らせる。喉奥に流し込まれた熱が胃袋の内で拡散する。まるで宥めるように。以前ほどの多幸感はなく、くらりと脳味噌が浮くように微熱を帯びるだけ。
少し体を傾ければ肩が触れ合うほどの距離感。本来ならそのはずだ。
脇腹の高さまで迫り上がった肘掛け。すっかり体温に馴染んだ背もたれと石像のように重くなった足を収めるフットサポート。
かちゃ、とガラスの擦れる音が空虚然とこだまする。
友人の目には見えていない惨めな自分。
決して見せてはならない雁字搦めの姿。
車椅子に縛られた体を、怜耶は冷めた眼差しで見下ろした。
「ごめんなさい。せっかく、久しぶりに会えたのにね」
ずっと暗い話ばかりしちゃってる──。
梓乃は曖昧に笑みを繕い、申し訳なさそうにしながら顔を伏せて、カップの縁を所在なげに指でなぞっている。そういえば、梓乃は熱い飲み物を口に含むのが苦手だった、と怜耶は昔を懐かしむように目を細めた。
おそらく、時間の問題だった。梓乃はとっくに勘付きつつある。目の前にいる彼女が、もうあの頃の巌貫怜耶ではない事に。外見は二年前と殆ど変わらず、それでも少しは大人びたかもしれないが、しかしそこには何か、致命的な断絶が横たわっていると。
手を引かれても二度とは動かせない足。例え梓乃に笑いかけられても、その瞳に映るのは虚ろな姿見。薄白い影の下に閉じ籠ったまま、ただ息を吸い、過去に取り残された置き物のような存在がそこにいる。
醜いままだから。
綺麗な過去は、薄汚れた現実の前に頽れていく。
……今までの関係では、どうしてもいられないのだろう。
そう思うと、次第に視界が滲み、呼吸は引き攣るように高鳴り出した。
「いいえ、梓乃はなにも悪くないわ。……むしろ、悪いのは私のほう」
真実は無粋な棘だ。喪失を刺激する無用な痛覚に他ならない。それは、眠れない夜を彷彿とさせた。なら、麻酔を打てばいい。実在を手の届かない彼岸へ置き去りにすればいい。いつもやってきたように。飽き足らず飲み下してきた手口だ。
周囲を取り巻く世界が完璧に鈍麻した虚構であれば、こんな怯える必要もなくなるのだから。
「私の嘘が中途半端だったから。あなたに気を遣わせてしまった」
そして、その方法は容易に思い浮かんだ。怜耶は疑いもしなかった。目を逸らし続けている過失。桒崎梓乃にはついぞ打ち明けられなかった罪の所在。そのすべてを湯気に溶かし込んだ。
「───やっぱり。こうするしか、なかったんでしょうね」
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