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ー第七章ー
小田切真司
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『…ったく、哲也!お前、ホントにバカだな!俺の言ってること分かってる?』
『分かってますよ!大丈夫ですって!』
『いや、コイツ分かってないっすよ。』
『だよなぁ、悠斗。俺も、そう思う。』
『嫌だなぁ!もう!二人して!あはは!』
『何で、そんなニヤニヤしてられんだよ。バカの考えてる事は分からんわ。』
哲也は、ホントにただのバカだ。会話は、成立しないし、いつも口を開けてボケーっとしてる。ただ、それが信じられないくらいのキレイなメロディーラインを作り出し、誰もが圧倒される歌声を持つ。だから俺は、ただのバカだろうが時たま、こうやって飲みに連れて面倒を見てる。
悠斗も同じだ。ストリートで一人ギター片手に叫んでいた姿に惚れ込んで俺から声をかけた。お互いミュージシャンを志す者同士、歳は離れていようと直ぐに打ち解けた。悠斗は、哲也みたいに決してバカではないが女癖がちょっと悪い。高校の時から既に浮気を繰り返してたって言ってたかな。まぁ、顔が良いって自覚があるとこういうもんなのかなって少し憂う所もあった。
『なぁ、お前ら二人とも最近、曲作ってるか?』
『え?何言ってるんすか、真司さん。当たり前でしょう。俺なんか毎日、作ってますよ。だって俺らには、それしかないでしょう!』
『おっ!悠斗、お前たまには良いこと言うじゃんか。』
『でしょう?いやいや、音楽やってる人間なら当然すよ!なぁ哲也?』
『勿論すよ。ってか真司さんは、作ってないんすか?』
『あ?まさか、そんな訳あるかよ。俺は、お前らとは違って時間ないからな。必死さが違うんだよ。お前らには、俺みたいに大器晩成型になって欲しくないから心配してんだよ。』
『真司さん…。』
『まあまあ、真司さん。まだ三十五歳じゃないですか!まだまだ、これからですよ!一緒に頑張りましょう!』
『哲也、お前ホントに怖いもの知らずだな…。俺には絶対、言えないわ、そんな事。真司さんに向かって…。』
『まぁ、これが哲也のバカさでもあり、天才的な部分でもあるのかもな。』
『いやいや、真司さん。良いように言い過ぎですよ。コイツやっぱ、ただのバカなんすよ!』
『あはははは!』
『いや、笑ってるし!』
『うーん、やっぱ、ホントにただのバカなのか…。』
最近、思う事がある。頭の悪いバカと接した時だ。彼らとは、まるで会話にならない。俺は、彼らを見下して笑う。上には上がいる様に、下には下がいる。そう嘲笑い、自分のメンタルを保つのだ。しかし、彼らは、それに気付かずに笑っている。そんな事は知らずに笑っている。誰よりも幸せそうに…。
そう、俺は思うんだ。頭の良し悪しや社会的地位に貧富の差。そんな事は、幸せの指標とはならない。現に彼らが、それを証明している。今、世界で何が起こっているとか、どんな事がニュースになっているとか、地球の未来とか、難しい事は何も知らないし、気付いてもいない。それでも、彼らは平然と笑っていられるのだ。全力で笑っていられるのだ。それらの問題に頭を抱える人間が、まるで見えていない様に…。
言うまでもない。それが幸せなのだ。
六年くらい前だったか、こんな事があった。世田谷の人通りの無い薄暗い道。白いセダンの陰で、一組の男女が何やら揉めている場面に遭遇した。でも、何やら様子がおかしい。男が女の髪を掴み、暴言を吐いている。俺は身を隠して、改めて良く見ると、女は衣服が肌蹴ており、しかも、制服だった。女子高生か。男は、黒尽くめの上下に手袋までしている。やがて、男は周りを見渡し、車に乗り、その場を走り去った。残された女子高生は、呆然としていた。俺は、意を決して、その子に近付いた。
『だ、大丈夫?』
『え…?』
その子は、パンツも丸出しになっている事にも気付いていないほど、放心状態だった。
『も、もしかして、襲われてたの?』
『…え?ち、違います!違います!何でもないです!ホントに、何でもないです!』
『いやいや、違わないでしょう!俺も途中からしか目撃してないけど、アレは、強姦でしょ!?どうやら、最後まではヤられていない様だけど、この乱れ方は…。』
女の子は、やっと正気になったのか、慌てて乱れた制服を直し、ボサボサの髪を手でさっと梳かした。そして、おもむろに俺に頭を下げた。
『お願いです!今、見た事は誰にも言わないで下さい!お願いします!』
『え?だって…。』
『お願いです!ホントに何でもないんです!お願いします!お願いします!』
『わ、わ、分かったよ!誰にも言わないから!』
『あ、ありがとうございます!』
『と、とりあえずさ、膝も擦り剥いて血も出てるし、そんな汚れた感じじゃ帰れないべ?俺ん家、直ぐそこだから来なよ。手当てしてやるから。』
『いや、でも…。』
『大丈夫。安心しなよ。何もしないから。俺を強姦魔と一緒にすんなよ。』
女の子は、素直に応じ、その現場から少し歩いた先にあった俺のアパートの部屋へと上がり込んだ。
『どうする?シャワーでも浴びるか?さっぱりしたいべ?』
『…。』
『そんな警戒すんなよ。…ほれ、これ俺の履歴書。今、バイト探し中で調度、書いたとこだったから。それ見るのが一番、手っ取り早いべ。小田切真司。ど田舎から出て来た二十九歳の夢追いフリーター。ちなみに、売れないストリートミュージシャン。彼女も居なければ、前科も無し。どお?まだ、何か疑う?』
『だ、大丈夫です。シャワーお借りします。』
『おし。バスタオル用意しとくから。』
女の子は、シャワーを終えると、落ち着いたのか、何があったのか話し始めた。
『なるほどね…。ってか、それ完全に今、ニュースになってる強姦魔だね。顔も見てる訳だし警察に言って大丈夫じゃないの?ってか、言うべきだべ。』
『で、でも、言ったら私、殺されちゃいます!ホントに、殺されちゃうと思うんです!』
『んー、大丈夫だと思うけど…。』
『怖いんです!実際に首締めらて殺されかけたし!あの人の、あの目!思い出すだけで怖いんです!私、怖いんです!』
『そっか…。分かった。じゃあ俺も誰にも言わない。俺も犯人の顔見たけど、もう、あんまハッキリ覚えてないし。俺の記憶力なんてそんなもんだ。』
『あ、ありがとうございます!』
『でも、ホントにそれで良いの?黙ってても、いずれバレる気がするんだけど…。』
『大丈夫です。私が、何事も無かった様にしてさえいれば。』
『そうかなぁ、』
『あと、小田切さんが黙っていてくれれば…。』
『俺?俺は、大丈夫だよ。もし、俺がこんな事、警察に言ったら、逆に俺が怪しまれるだけだしね。いい歳こいたフリーターなんて、ザ・不審者の何者でもないから。まともに職にも就いてない人間に世間は冷たいからね。そんな面倒臭いことを、わざわざ自分で自分に振り撒かないよ。誰かに言った所で俺には、何の得も無いさ。あははは!』
『小田切さん…。』
『おっ!もう、こんな時間だ。親も心配してんじゃない?そろそろ帰った方がいいべ?』
『そうですね。そろそろ行きます。』
『あ!これ!一応、ホント一応、俺のケータイ教えとく。何かあったら相談してよ。何も無ければ何も無いで、それが一番。安心してよ。俺から変に連絡なんかしないからさ。』
『ありがとうございます。何かあったら、相談します。ホントに、ありがとうございます!』
『いえいえ。んじゃ、途中まで送ってくよ。俺みたいのと一緒にいる所、誰か知り合いに見られたら大変でしょ。だから、途中までな。』
『小田切さん…。ありがとうございます。ありがとうございます!』
彼女は、何度も何度も頭を下げ、帰って行った。それから、六年…。彼女からは、何の連絡も無い。つまり、それは平穏を意味していた。あの犯人が捕まったっていう報道もされていないし、彼女の身にも、あれからは、何も無かったっていう事だ。俺のケータイには、未だ彼女の名前が登録してある。もう、既に使われてさえいないかもしれないが、俺は、消す事が出来ないでいた。
もしかしたら…。もしかしたらを、待っているからだ。
彼女が、もしかしたらを望んで来た時に俺が待っていてあげなかったら。彼女に申し訳がない。俺が彼女の助けになってあげなかったら誰がなってあげるんだ。その解放を待つ自分もいる中で、今、彼女が、どうしているのか気にする自分もいるのだ。
『もう、二十三か…。社会人一年目って感じかなぁ。』
彼女は、もしかしたら、俺の事なんて、もう既に忘れているのかもしれない。実は、街のどこかで知らない間に、すれ違っていたりして。でも、それに気付きもしないほど記憶の片隅にも俺は、いなかったりして。
でも、それが、そうなった事実が彼女にとっての幸せなんだとしたら…。もう、忘れたんだ。気付かないんだ。それが、幸せなんだ…。
この六年の歳月が、その答えなんだよ。
『俺も、三十五か…。もう、いいのかな…。』
俺は、このケータイのメモリーから彼女の名前を消そうと思う。俺も、忘れるんだ。何も無かったんだ。それが、俺の幸せなんだ…。
実際、誰が六年前のあの事件を覚えていよう。メディアから当の昔に消えた、あの事件の事を誰が覚えているって言うんだ。もう当事者だって、何事も無かったって笑っているんだ。それが全てで、それが一番なんだよ。
みんな忘れた。誰も何も知らない。だから、もう、あの日の事は、永遠の秘密。こんなこと誰にも言わない。言える訳がない。
知らない事が、幸せなんだ…。
『…そう言えば、友達から聞いたんすけど、この間、俺が高校の時の元カノが子供を連れて歩いているのを見たって言うんすよ。しかも今度、小学校に上がるとか。だって俺、二十三すよ?って事は、高校の時に出来てるって事じゃないですか?』
『悠斗。それ、完全にお前の子じゃん。』
『真司さん。や、やっぱり、そう思います?』
『んー、誰が聞いてもそう言うと思うわ。だって、その元カノって悠斗の同級生なんだべ?ほれ、タイミング的に調度じゃんか。』
『で、でもでも!だって…、って事は高二の時の彼女って事ですよ?高二の時の彼女って言ったらねぇ…!いやいや!俺!中出しした覚え無いっすよ!』
『お前が、覚えてないだけじゃね?』
『えー?いやいや!無い!無い!無いっすよ!』
『悠斗、悪い事は言わねぇから覚悟を決めな。』
『えー!だって俺、今、彼女もいるし、結婚も考えてるのに!無理っすよ!』
『って言われてもなぁ、現実を受け止めないと…。』
『ちょ、ちょっと!やっぱり、やめましょう!この話!怖くなって来た!忘れましょう!忘れましょう!何も無かった事に!』
『あーあ。悠斗、お前、やっちゃったな。』
『え?何の事すか?俺、何も知らないっすよ?あはははは…!』
『分かってますよ!大丈夫ですって!』
『いや、コイツ分かってないっすよ。』
『だよなぁ、悠斗。俺も、そう思う。』
『嫌だなぁ!もう!二人して!あはは!』
『何で、そんなニヤニヤしてられんだよ。バカの考えてる事は分からんわ。』
哲也は、ホントにただのバカだ。会話は、成立しないし、いつも口を開けてボケーっとしてる。ただ、それが信じられないくらいのキレイなメロディーラインを作り出し、誰もが圧倒される歌声を持つ。だから俺は、ただのバカだろうが時たま、こうやって飲みに連れて面倒を見てる。
悠斗も同じだ。ストリートで一人ギター片手に叫んでいた姿に惚れ込んで俺から声をかけた。お互いミュージシャンを志す者同士、歳は離れていようと直ぐに打ち解けた。悠斗は、哲也みたいに決してバカではないが女癖がちょっと悪い。高校の時から既に浮気を繰り返してたって言ってたかな。まぁ、顔が良いって自覚があるとこういうもんなのかなって少し憂う所もあった。
『なぁ、お前ら二人とも最近、曲作ってるか?』
『え?何言ってるんすか、真司さん。当たり前でしょう。俺なんか毎日、作ってますよ。だって俺らには、それしかないでしょう!』
『おっ!悠斗、お前たまには良いこと言うじゃんか。』
『でしょう?いやいや、音楽やってる人間なら当然すよ!なぁ哲也?』
『勿論すよ。ってか真司さんは、作ってないんすか?』
『あ?まさか、そんな訳あるかよ。俺は、お前らとは違って時間ないからな。必死さが違うんだよ。お前らには、俺みたいに大器晩成型になって欲しくないから心配してんだよ。』
『真司さん…。』
『まあまあ、真司さん。まだ三十五歳じゃないですか!まだまだ、これからですよ!一緒に頑張りましょう!』
『哲也、お前ホントに怖いもの知らずだな…。俺には絶対、言えないわ、そんな事。真司さんに向かって…。』
『まぁ、これが哲也のバカさでもあり、天才的な部分でもあるのかもな。』
『いやいや、真司さん。良いように言い過ぎですよ。コイツやっぱ、ただのバカなんすよ!』
『あはははは!』
『いや、笑ってるし!』
『うーん、やっぱ、ホントにただのバカなのか…。』
最近、思う事がある。頭の悪いバカと接した時だ。彼らとは、まるで会話にならない。俺は、彼らを見下して笑う。上には上がいる様に、下には下がいる。そう嘲笑い、自分のメンタルを保つのだ。しかし、彼らは、それに気付かずに笑っている。そんな事は知らずに笑っている。誰よりも幸せそうに…。
そう、俺は思うんだ。頭の良し悪しや社会的地位に貧富の差。そんな事は、幸せの指標とはならない。現に彼らが、それを証明している。今、世界で何が起こっているとか、どんな事がニュースになっているとか、地球の未来とか、難しい事は何も知らないし、気付いてもいない。それでも、彼らは平然と笑っていられるのだ。全力で笑っていられるのだ。それらの問題に頭を抱える人間が、まるで見えていない様に…。
言うまでもない。それが幸せなのだ。
六年くらい前だったか、こんな事があった。世田谷の人通りの無い薄暗い道。白いセダンの陰で、一組の男女が何やら揉めている場面に遭遇した。でも、何やら様子がおかしい。男が女の髪を掴み、暴言を吐いている。俺は身を隠して、改めて良く見ると、女は衣服が肌蹴ており、しかも、制服だった。女子高生か。男は、黒尽くめの上下に手袋までしている。やがて、男は周りを見渡し、車に乗り、その場を走り去った。残された女子高生は、呆然としていた。俺は、意を決して、その子に近付いた。
『だ、大丈夫?』
『え…?』
その子は、パンツも丸出しになっている事にも気付いていないほど、放心状態だった。
『も、もしかして、襲われてたの?』
『…え?ち、違います!違います!何でもないです!ホントに、何でもないです!』
『いやいや、違わないでしょう!俺も途中からしか目撃してないけど、アレは、強姦でしょ!?どうやら、最後まではヤられていない様だけど、この乱れ方は…。』
女の子は、やっと正気になったのか、慌てて乱れた制服を直し、ボサボサの髪を手でさっと梳かした。そして、おもむろに俺に頭を下げた。
『お願いです!今、見た事は誰にも言わないで下さい!お願いします!』
『え?だって…。』
『お願いです!ホントに何でもないんです!お願いします!お願いします!』
『わ、わ、分かったよ!誰にも言わないから!』
『あ、ありがとうございます!』
『と、とりあえずさ、膝も擦り剥いて血も出てるし、そんな汚れた感じじゃ帰れないべ?俺ん家、直ぐそこだから来なよ。手当てしてやるから。』
『いや、でも…。』
『大丈夫。安心しなよ。何もしないから。俺を強姦魔と一緒にすんなよ。』
女の子は、素直に応じ、その現場から少し歩いた先にあった俺のアパートの部屋へと上がり込んだ。
『どうする?シャワーでも浴びるか?さっぱりしたいべ?』
『…。』
『そんな警戒すんなよ。…ほれ、これ俺の履歴書。今、バイト探し中で調度、書いたとこだったから。それ見るのが一番、手っ取り早いべ。小田切真司。ど田舎から出て来た二十九歳の夢追いフリーター。ちなみに、売れないストリートミュージシャン。彼女も居なければ、前科も無し。どお?まだ、何か疑う?』
『だ、大丈夫です。シャワーお借りします。』
『おし。バスタオル用意しとくから。』
女の子は、シャワーを終えると、落ち着いたのか、何があったのか話し始めた。
『なるほどね…。ってか、それ完全に今、ニュースになってる強姦魔だね。顔も見てる訳だし警察に言って大丈夫じゃないの?ってか、言うべきだべ。』
『で、でも、言ったら私、殺されちゃいます!ホントに、殺されちゃうと思うんです!』
『んー、大丈夫だと思うけど…。』
『怖いんです!実際に首締めらて殺されかけたし!あの人の、あの目!思い出すだけで怖いんです!私、怖いんです!』
『そっか…。分かった。じゃあ俺も誰にも言わない。俺も犯人の顔見たけど、もう、あんまハッキリ覚えてないし。俺の記憶力なんてそんなもんだ。』
『あ、ありがとうございます!』
『でも、ホントにそれで良いの?黙ってても、いずれバレる気がするんだけど…。』
『大丈夫です。私が、何事も無かった様にしてさえいれば。』
『そうかなぁ、』
『あと、小田切さんが黙っていてくれれば…。』
『俺?俺は、大丈夫だよ。もし、俺がこんな事、警察に言ったら、逆に俺が怪しまれるだけだしね。いい歳こいたフリーターなんて、ザ・不審者の何者でもないから。まともに職にも就いてない人間に世間は冷たいからね。そんな面倒臭いことを、わざわざ自分で自分に振り撒かないよ。誰かに言った所で俺には、何の得も無いさ。あははは!』
『小田切さん…。』
『おっ!もう、こんな時間だ。親も心配してんじゃない?そろそろ帰った方がいいべ?』
『そうですね。そろそろ行きます。』
『あ!これ!一応、ホント一応、俺のケータイ教えとく。何かあったら相談してよ。何も無ければ何も無いで、それが一番。安心してよ。俺から変に連絡なんかしないからさ。』
『ありがとうございます。何かあったら、相談します。ホントに、ありがとうございます!』
『いえいえ。んじゃ、途中まで送ってくよ。俺みたいのと一緒にいる所、誰か知り合いに見られたら大変でしょ。だから、途中までな。』
『小田切さん…。ありがとうございます。ありがとうございます!』
彼女は、何度も何度も頭を下げ、帰って行った。それから、六年…。彼女からは、何の連絡も無い。つまり、それは平穏を意味していた。あの犯人が捕まったっていう報道もされていないし、彼女の身にも、あれからは、何も無かったっていう事だ。俺のケータイには、未だ彼女の名前が登録してある。もう、既に使われてさえいないかもしれないが、俺は、消す事が出来ないでいた。
もしかしたら…。もしかしたらを、待っているからだ。
彼女が、もしかしたらを望んで来た時に俺が待っていてあげなかったら。彼女に申し訳がない。俺が彼女の助けになってあげなかったら誰がなってあげるんだ。その解放を待つ自分もいる中で、今、彼女が、どうしているのか気にする自分もいるのだ。
『もう、二十三か…。社会人一年目って感じかなぁ。』
彼女は、もしかしたら、俺の事なんて、もう既に忘れているのかもしれない。実は、街のどこかで知らない間に、すれ違っていたりして。でも、それに気付きもしないほど記憶の片隅にも俺は、いなかったりして。
でも、それが、そうなった事実が彼女にとっての幸せなんだとしたら…。もう、忘れたんだ。気付かないんだ。それが、幸せなんだ…。
この六年の歳月が、その答えなんだよ。
『俺も、三十五か…。もう、いいのかな…。』
俺は、このケータイのメモリーから彼女の名前を消そうと思う。俺も、忘れるんだ。何も無かったんだ。それが、俺の幸せなんだ…。
実際、誰が六年前のあの事件を覚えていよう。メディアから当の昔に消えた、あの事件の事を誰が覚えているって言うんだ。もう当事者だって、何事も無かったって笑っているんだ。それが全てで、それが一番なんだよ。
みんな忘れた。誰も何も知らない。だから、もう、あの日の事は、永遠の秘密。こんなこと誰にも言わない。言える訳がない。
知らない事が、幸せなんだ…。
『…そう言えば、友達から聞いたんすけど、この間、俺が高校の時の元カノが子供を連れて歩いているのを見たって言うんすよ。しかも今度、小学校に上がるとか。だって俺、二十三すよ?って事は、高校の時に出来てるって事じゃないですか?』
『悠斗。それ、完全にお前の子じゃん。』
『真司さん。や、やっぱり、そう思います?』
『んー、誰が聞いてもそう言うと思うわ。だって、その元カノって悠斗の同級生なんだべ?ほれ、タイミング的に調度じゃんか。』
『で、でもでも!だって…、って事は高二の時の彼女って事ですよ?高二の時の彼女って言ったらねぇ…!いやいや!俺!中出しした覚え無いっすよ!』
『お前が、覚えてないだけじゃね?』
『えー?いやいや!無い!無い!無いっすよ!』
『悠斗、悪い事は言わねぇから覚悟を決めな。』
『えー!だって俺、今、彼女もいるし、結婚も考えてるのに!無理っすよ!』
『って言われてもなぁ、現実を受け止めないと…。』
『ちょ、ちょっと!やっぱり、やめましょう!この話!怖くなって来た!忘れましょう!忘れましょう!何も無かった事に!』
『あーあ。悠斗、お前、やっちゃったな。』
『え?何の事すか?俺、何も知らないっすよ?あはははは…!』
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