幸せとは、何も知らないということ。

杉本けんいちろう

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ー第十三章ー

星野流果 Ⅱ

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私が、その知らせを聞いたのは、歩実ちゃん本人の口からだった。

『流果さん、お騒がせして本当に、すみません!』

ある日、突然、お隣りの歩実ちゃんのお宅に沢山の警察の方が押し寄せて来た。それは、直ぐにマンション中の噂となって広まり、まだ騒めきが収まらないその夜に、歩実ちゃんがウチに訪ねて来た。

『一体、どうしたの?何かあったの?』

『すみません…。実は、夫が逮捕されました。』

『ええ!?零児さんが!?どうして!?』

『実は、零児さん、六年前の連続強姦事件の犯人だったんです。』

『え…?』

私は、正直、もう忘れかけていました。この数年、毎日に充実して、歩実ちゃん一家の楽しげな雰囲気を見る度に、あの忌まわしい事件の事なんて、まるで何も無かったかと思わせるくらい記憶が褪せていました。もう、このまま、今の幸せな時間のまま、時は流れて行くのだと思っていました。それが、思いもしなかった、まさかの展開…。

歩実ちゃんからの、まさかの知らせから時待たずして、メディアは、このニュースを取り上げた。六年前の世田谷連続強姦魔の逮捕は、再び、世間と私に、あの日の記憶に火をつけ、呼び起こした。

そして、何より恐れていた事態…。そう時間もかからずに、二人目の被害者である私のもとに警察の方が訪ねて来た。それと、同時に新聞記者や週刊誌の記者の方までが、憐れな被害者を取り上げようとばかりに何度も取材しに訪ねて来た。それは、つまり、何も知らなかったはずの歩実ちゃんに、実は、私が被害者の一人だという事を知らしめる事を意味していた。

『流果さん、あの…、私、何て言ったらいいか…。あの、本当に、すみませんでした!すみませんでした!』

『やだ、やめて!歩実ちゃん!やめてちょうだい!ね!もう、頭を上げて!お願いだから!謝らないで!歩実ちゃんが悪い訳じゃないんだから!ね!』

『で、でも、私…。まさか、流果さんが被害者の一人だったなんて…。私、もう、どうしたらいいか…。本当に、すみませんでした!』

『歩実ちゃん!だから!もう、やめて!歩実ちゃんが、謝る事じゃないわ!』

『流果さん…。』

『歩実ちゃんは、何も知らなかったんだもん。仕方ないじゃない。だから、歩実ちゃんは、何も悪くない。分かった?』

『あの…、流果さん、一つ聞いてもいいですか?』

『いいわよ?』

『流果さんは、零児さんが犯人だって、分かってたんですか?』

『え?』

『そうなんですか!?知っていたんですか!?』

『それは…。』

『流果さん!!』

こんな時に、嘘を付けない馬鹿正直な性格が災いしてしまうなんて…。これだけは、黙ってなきゃいけない事だったのに…。私が、零児さんが犯人であると知っていた事をあっさり見透かされてしまった。

『流果さん、じゃあ、私達一家が隣りに越して来てから、ずっと、苦しい思いをしてたって事ですよね。零児さんと顔を合わせるたびに、忌まわしい記憶を呼び起こされて苦しんでいたんですよね。』

『歩実ちゃん…。』

『すみませんでした!本当に、すみませんでした!忘れたい記憶を何度も、何度も呼び覚ましてしまって…!私、もう、何度でも謝ります!すみません!すみませんでした!』

『歩実ちゃん!だから、やめてって!それは、何も言わなかった私も悪いんだから!』

『そんな!言える訳ないじゃないですか!そんな事!私だって、黙ってますよ!流果さんは、何も悪くありません!本当に、すみませんでした!』

『歩実ちゃん…。』

私は、完全に終わったと思った。これまでの平穏な幸せな日々の終わりを告げられたと…。歩実ちゃんの、本当に私を頼って訪ねて来てくれたあの時間、毎日の様に会えた凛ちゃんの屈託のない笑顔。楽しかった日々が、まるで夢でも見ていたかの様に、大きな音を立てて崩れていった。

それから一カ月後、歩実ちゃん一家は、逃げる様に引っ越して行った。

『流果さん、本当に今まで、お世話になりました。』

『歩実ちゃん…。』

『私は、零児さんが出て来るまで、ずっと待ってようと思っています。理解されないと思いますが私は、零児さんとこれからも一緒に頑張ってやって行こうと思っています。なので、流果さんに零児さんの影を感じさせてしまう訳にはいかないので私達は、出て行こうと思います。流果さんには、本当に沢山お世話になって、感謝してもしきれません。本当にありがとうございました。』

『流果おばちゃん、バイバイ!』

『凛ちゃん…。』

凛ちゃんは、またね!とは、言わなかった。いつもなら、またね!って言ってくれたのに、凛ちゃんも、これが最後の別れなんだと理解していたんだと思うと涙が溢れて止まらなくなっていた…。

あの日の忌まわしい事件。あの事は、私だけの永遠の秘密。そうすれば決して揺らぐ事のない幸せな時間のはずだった。でも、そんなの、永遠なんて無理だったのよね。あの事が知れ渡ってしまって、瞬く間に環境が変わってしまった。もう忘れてしまいたいのにマンションの住人には、憐れんだ目で見られ、それこそ辛かった。私は、別に同情なんてされたくないの。そんな安物いらないの。私が、失くしたくなかった物は、あの楽しかった、何も知らなかった幸せな時間だけ。

『流果、大丈夫か?』

『あなた…。私、もう…。』

『流果、暫くの辛抱だよ。また、きっと来るさ、幸せは…。一緒に待とう。』

『あなた…。ありがとうございます…。』

歩実ちゃんが、このマンションを引っ越して行った日の言葉。その言葉の実現だけを願って私は、また次の幸せを待とうと思います。
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