酔いどれジジイと少年

NAGOMIST

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俺の曲を聞いてくれ。

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人生に嫌気が差していた。18歳の健吾は、アコースティックギターを掻き鳴らし、駅のホームの隅で暗い歌を唄う。

「いいことなんて、一つもねぇ」

自作の曲、タイトルは「死にたい」。Dm(ディーマイナー)からAm(エーマイナー)へ、そしてE(イー)セブンス。

マイナーコードをふんだんに使い、これでもかとばかりに陰鬱なメロディを乗せる。その歌声は、家路を急ぐサラリーマンの革靴を重くし、女子高生のスマホをいじる指を無気力にさせた。

終電間際の10時を過ぎた頃だろうか。

額にネクタイでハチマキをし、ワイシャツのボタンを三つほど掛け違え、ベルトもせず、一升瓶を抱えたジジイが、フラフラと寄ってきた。どう見ても50は過ぎている。

「おぉ~い、なんか音楽聞こえると思ったらぁ~……おめぇ、ヒック。めちゃめちゃ暗いじゃねぇかよ!」

だるい絡み酒だ。風に乗って、芋焼酎の強烈な臭いが健吾の鼻腔を突き刺す。

(くせぇ……)

健吾はガン無視を決め込み、歌い続ける。

「死にたい~明日もない~ただ歌うだけのデスエブリデイ~♪」

Dmが夜のホームに虚しく響く。

「かぁ~!おめぇの歌は暗ぇ~!聴いてるこっちが死にたくなるわ!」

うるせぇクソジジイが、ギターケースの真ん前に仁王立ち(というより千鳥足立ち)している。迷惑千万だ。

健吾は目を合わせず、演奏を続ける。クライマックスだ。

「だから僕は~し~に~た~い~……」

ジジイは、パチパチと気のない拍手をするでもなく、抱えた一升瓶の蓋を開け、ラッパ飲みを始めた。ゴクゴクと喉を鳴らす音が、なんとも下品だ。

ふと下を見ると、ジジイのズボンのチャックが全開だった。パンツの柄まで丸見えだ。よくこんな無様な姿で、人通りの多いターミナル駅を歩けるものだ。

羞恥心というOSがインストールされていないらしい。

健吾は歌うのをやめ、チューニングを始めた。キリキリとペグを回す音だけが響く。

すると、ジジイが言った。

「お前さん、そんなに死にてぇのか」

健吾は、チューニングメーターから目を上げ、初めてジジイの顔をまともに見た。

焦点が全く合っていない。呂律も回っていないのに、目だけが妙にギラついている。ニヤニヤと歪んだ口元。なんだこいつは。

「……死にたいっすね」

面倒くさそうに健吾が吐き捨てると、ジジイは「ああそうか」と気のない返事をした。そして突然、おもむろに指を口に突っ込み、歯に詰まった何かを懸命に取ろうとし始めた。

「んぐ……んっ……」

なんだこいつは。本当に、正真正銘のクソジジイだな……。

「あっ、取れた」

ジジイはそう言うと、取れたソレをまじまじと眺め、次の瞬間、パクリと食べた。

健吾は絶句した。

ジジイはさらに、その指の臭いをクンクンと嗅ぎ、

「くっせぇ!」

と叫ぶと、そのままバランスを崩してホームにひっくり返った。
健吾は恥ずかしかった。

自分にとっては、今の等身大の悩みや苦しみを精一杯詰め込んだ、渾身の曲だった。それなのに、こんなクソジジイの奇行のBGMにされたかと思うと、猛烈に腹が立ってきた。

起き上がったジジイが、ゲラゲラ笑いながら言う。

「今の曲、名前はなんてんだ?」

健吾は黙った。こいつにだけは教えたくなかった。

だが、ジジイがしつこく「おーい、名前は?」と聞いてくる。

「……『死にたい』だよ」

「まんまじゃねぇか!ガハハハ!」

腹の底から笑うジジイ。よく見ると、頭頂部がかなりキテいる。月光を浴びて、侘しく光っていた。

「さっきからうるさいよ、爺さん。もう帰るから」

「おっ、言うじゃねぇか!ガハハ!」

次の曲も用意していたのに、こいつのせいで台無しだ。時間的にも、もうお終いだ。健吾はギターをケースにしまい始めた。

「なぁ、おじさ――」

健吾が何か言いかけたのを遮るように、クソジジイが叫んだ。

「作れ!」

「何をだよ!」

「新曲だよ!新曲!お前の新曲が聞きてぇよ!」

さっきまでの酔っ払いの目が、急に座った。

「……今の『死にたい』が最新だよ」

「そうか。お前はスジがいい。俺が保証する。だがな、もっと明るい曲書けよ」

勝手な事を言う。

「お前は、俺を見てどう思う?」

いきなり何だ。

「飲んだくれたジジイか?古くせぇジジイに見えるか?頭もハゲて、靴も片方無くなってる、哀れなジジイに見えるか?」

言われて足元を見ると、本当に片方、靴が無かった。裸足だ。

終わってる。こいつは完全に終わってる。

「……全部だよ」

健吾が冷たく言うと、ジジイは満足そうに頷いた。

「俺はな、ここいらの誰よりも金を持ってる。そこのデカいビルも、あそこの土地も、全部俺のだ。会社も何個も持ってる」

「適当な事を言うなよジジイ。あんたがそんなわけねぇだろ」

「そうだろ。見えねえよな」

ジジイはそう言って、持っていた一升瓶を掲げた。ラベルには『森伊蔵 楽酔喜酒』と達筆な文字が書かれている。

ちらりと見えた腕時計も、健吾には分からないが、やたらと複雑な光を放っていた。

「お前さんの歌は、前から知ってる。半年前は、もっと明るい曲歌ってたじゃねぇか。それが段々暗くなって……おい、新曲が『死にたい』?馬鹿じゃねぇのか?」

「うぜぇ……説教かよ」

健吾はギターケースのチャックを閉めた。

「お前さん、もっと明るい曲作れよ。そうだな……『生きたい!』とかどうだ!真逆のタイトル!ウハハハハ!」

完全に馬鹿にされている。腹が立つ。

そんな気分じゃないんだ。別に学校でイジメられているわけでも、家庭が複雑なわけでもない。

ただ、漠然と楽しくなかった。生きている実感がない。だから「死にたい」んだ。

健吾は黙って立ち上がった。

クソジジイが、座り込んだまま健吾を見上げる。

「いいか、小僧」

ジジイの目が、またギラリと光った。

「『死にたい』なんて歌はな、結局『誰か俺を構ってくれ』って甘えなんだよ。本当にどん底の人間はな、歌なんて歌えねぇ。声も出ねぇ。音も出ねぇんだ」

健吾は動きを止めた。

「お前には音が出てる。それも、なかなかいい音だ。だったらな、甘える歌じゃなくて、誰かをぶっ飛ばすような歌を作れよ。聴いたやつの、そのしょーもねぇ日常ごと、ぶっ飛ばすようなやつだ」

ジジイはニヤリと笑った。

「まずは、お前自身をぶっ飛ばせ」

「……」

「楽しみに待ってるぞ!いつもな!ガハハハ!」

ジジイは高らかに笑うと、一升瓶を抱えたまま、その場でホームに大の字になり、数秒後には豪快なイビキをかき始めた。

「……うるせぇ」

健吾はそう呟いたが、口元は少し、ニヤけていた。

すぐに駅員と警察官がやって来て、ジジイは粗大ゴミのように運ばれていった。

「生きたい、か」

アパートへの帰り道。

結局は、自分次第だよな。
部屋に戻るなり、健吾はギターケースを開けた。

Dmを押さえていた左手を、D(ディーメジャー)に切り替える。

ジャラーン。

さっきまでの陰鬱な響きが嘘のように、明るく、力強い音が部屋に満ちた。不思議と、心も少し晴れてくる。

たった一歩、指一本動かすだけ。少し変化を加えるだけ。

「まずは、お前自身をぶっ飛ばせ」

自分の心は、変えられる。そう思った。

そして、五線譜に殴り書いた。

タイトル、『生きたい』

一週間後。健吾はギターケースを背負い、いつもの駅のホームに向かっていた。今日は、どんな曲を聴かせてやろうか。あのジジイは、もういないだろうけど。
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