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3匹の不思議な猫
第11話:透明な雨傘の向こう
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路地裏ポストの内側は、濡れた石畳とビニールの匂いでいっぱいだった。
手の温度、ハンドクリーム、改札の金属の冷たさ——。
「相合いの匂いがする」ミスケがひげを震わせる。
投函口から、細い赤い糸で結ばれたメモが落ちた。
『傘を返したいです。でも、本当に返したいのは“言えなかったごめんね”です。——あかね』
端には小さく、バス停の名前と『市立病院前』。
三匹が抜け出すと、空は一気に低く、雨脚は細かく密だった。
病院前のバス停に、透明な傘の群れ。立てかけられたうちの一本だけ、柄に赤い糸。
その下に、若い女性が立っている。黒いリュック、肩の力だけで立っているみたいな背中。
「……もう、帰ろう」
彼女——茜(あかね)は、傘の先で水たまりをつついた。
病棟で祖母の枕元に座ったのに、上手に話せなかった。
「大丈夫?」「勉強は?」「ごはん食べてる?」
祖母がいつも茜に聞いた言葉を、茜は祖母に返そうとした。でも、喉の奥で、雨粒がつかえてしまった。
ミスケは赤い糸の巻かれた柄に爪をかけ、コトンと傘を倒した。
あんこがメモを押し出し、源さんが足元でぴたりと座る。
茜は驚いて屈み、紙を拾う。
『傘を返したいです——』
自分の字が、雨で少しにじんでいる。
思い出した。祖母が貸してくれた透明傘。柄に、祖母の裁縫箱からもらった“余り糸”が結んである。「濡れそうな人に、使ってあげな」と笑っていた。
返しに行くたびに、台所の湯気みたいな匂いで迎えられた。でも今日は、病院の白い匂いの前で、言葉がほどけなかった。
バスが来る。
乗れば、家。乗らなければ、病室。
茜は傘の中で迷った。透明な天井に、信号の赤がぼんやり滲む。
ミスケが柄の先をそっと押し、傘を茜と自分のあいだに差し出した。
源さんは横に並び、雨を受ける縁を肩で支える。あんこは一歩、病院側へ歩いてから振り返り、喉をやわらかく鳴らした。
「“最後の一歩”は、濡れないように一緒に踏むんだよ」——声には出さないけれど、傘の骨のはねる音で伝えた。
自動ドアが開くと、白い匂いがすっと強くなった。
エレベーターを上がる間、茜は傘を閉じ、赤い糸を指に巻き直した。
祖母の病室の前、深呼吸をひとつ。
扉を開けると、薄い水色のカーテンの向こうで、祖母が目を閉じていた。
茜は椅子を引き、傘を足元に置いた。
「おばあちゃん」
声は小さかった。でも、今度は喉を通った。
「今日ね、雨でさ。傘、返しに来たよ。……でも、返したいの、傘じゃない。あのとき、怒ってごめんね。『もう勝手にしな』って言っちゃって。本当は、勝手にしてほしくなかった」
祖母の目がゆっくり開いて、笑い皺が少し寄った。
「濡れなかったかい」
「うん。猫さんがね、持ってくれたの」
「まあ」
祖母は驚いた顔のまま、窓の外を見た。雨脚は弱くなっている。
「茜、糸は、結び直せるんだよ。ほどけたら、また結べばいい」
茜は頷き、赤い糸を指に軽く結んだ。輪は小さい。でも、確かだった。
帰り際、看護師が廊下で声をかけた。
「さっき、お祖母さまにお手紙が届きました。受付経由で。差出人は書いてないけど……
『台所の窓から雨雲を見ています』って」
封筒は、古いレシピカードで作られていた。
祖母はそれを受け取り、指先でなぞった。
「昔の友だちだよ。あの子の家、台所の窓が空に近くてね」
茜は封筒の角に気づく。猫の足跡の小さなスタンプ。
ミスケたちの匂いだ。
病院を出ると、雨はほとんど霧になっていた。
バス停の透明傘の群れの中に、茜の傘だけが、柄に赤い糸を巻いたまま光っている。
傘立ての底に、ビニールの鞘がひとつ落ちていた。中に、短い手紙。
『配達員さんへ。
路地裏ポストは、夜のあいだだけ赤くなります。
ときどき、朝になろうとして消えそうになります。
最後の一通が届くまで、どうか支えてください。
——ポストの向こう側より』
署名はない。紙には、消印のない丸い輪が、雨粒でにじんでいた。
三匹は顔を見合わせた。
「“向こう側”?」源さんが耳を立てる。
「ポストの内側より、もっと奥の匂いがする」あんこが鞘の紙に鼻先を近づける。「古い郵便袋、革、そして、朝の空気」
ミスケは赤い糸をひと巻き、柄から外して前足に巻いた。
「あと一通。朝になる前に」
茜は傘を高く掲げ、三匹の頭上にさし出した。
「ありがとう」
透明な屋根の向こうで、茜の目はもう濡れていなかった。
「いつか、この傘ね、誰かが濡れてたらまた貸す。……そのとき、糸は結び直して渡す」
傘の骨が、軽く雨を弾いた。
茜はバスに乗り、窓越しに小さく手を振る。赤い糸が、指で光った。
病院前の道路は、雨の痕を残したまま少しずつ乾いていく。
透明なものの向こうに、灯りはそのままの色で見える——茜がいつか言いたかった“だいじょうぶ”は、きっとこんな色だった。
ミスケが足首の糸をほどき、投函口にそっと掛ける。
ポストは赤を少し濃くして、深く息をした。
「配達、成功だね」
源さんが尾をゆるく振る。
「わたしたち、何を配達したんだろう」
あんこが透明な屋根を見上げる。
「向こう側へ踏み出す勇気」
ミスケが答えた。
「濡れないように、一緒に差す屋根」
そのとき、投函口の奥で、見たことのない封筒がひとつ、光った。
宛名——『ミスケ・あんこ・源さんへ』
封緘の蝋印には、小さなポストの絵。
紙から立ちのぼるのは、朝の匂い、パンの甘さ、写真の紙、図書室のワックス、駅の風——この町のすべてが混じった匂い。
「最後の一通」
あんこが息を呑む。
「宛先は……“路地裏”。差出人は“朝”」
源さんが目を細める。
ミスケはうなずき、封筒にそっと前足を添えた。
「行こう。路地裏が朝になるまで」
手の温度、ハンドクリーム、改札の金属の冷たさ——。
「相合いの匂いがする」ミスケがひげを震わせる。
投函口から、細い赤い糸で結ばれたメモが落ちた。
『傘を返したいです。でも、本当に返したいのは“言えなかったごめんね”です。——あかね』
端には小さく、バス停の名前と『市立病院前』。
三匹が抜け出すと、空は一気に低く、雨脚は細かく密だった。
病院前のバス停に、透明な傘の群れ。立てかけられたうちの一本だけ、柄に赤い糸。
その下に、若い女性が立っている。黒いリュック、肩の力だけで立っているみたいな背中。
「……もう、帰ろう」
彼女——茜(あかね)は、傘の先で水たまりをつついた。
病棟で祖母の枕元に座ったのに、上手に話せなかった。
「大丈夫?」「勉強は?」「ごはん食べてる?」
祖母がいつも茜に聞いた言葉を、茜は祖母に返そうとした。でも、喉の奥で、雨粒がつかえてしまった。
ミスケは赤い糸の巻かれた柄に爪をかけ、コトンと傘を倒した。
あんこがメモを押し出し、源さんが足元でぴたりと座る。
茜は驚いて屈み、紙を拾う。
『傘を返したいです——』
自分の字が、雨で少しにじんでいる。
思い出した。祖母が貸してくれた透明傘。柄に、祖母の裁縫箱からもらった“余り糸”が結んである。「濡れそうな人に、使ってあげな」と笑っていた。
返しに行くたびに、台所の湯気みたいな匂いで迎えられた。でも今日は、病院の白い匂いの前で、言葉がほどけなかった。
バスが来る。
乗れば、家。乗らなければ、病室。
茜は傘の中で迷った。透明な天井に、信号の赤がぼんやり滲む。
ミスケが柄の先をそっと押し、傘を茜と自分のあいだに差し出した。
源さんは横に並び、雨を受ける縁を肩で支える。あんこは一歩、病院側へ歩いてから振り返り、喉をやわらかく鳴らした。
「“最後の一歩”は、濡れないように一緒に踏むんだよ」——声には出さないけれど、傘の骨のはねる音で伝えた。
自動ドアが開くと、白い匂いがすっと強くなった。
エレベーターを上がる間、茜は傘を閉じ、赤い糸を指に巻き直した。
祖母の病室の前、深呼吸をひとつ。
扉を開けると、薄い水色のカーテンの向こうで、祖母が目を閉じていた。
茜は椅子を引き、傘を足元に置いた。
「おばあちゃん」
声は小さかった。でも、今度は喉を通った。
「今日ね、雨でさ。傘、返しに来たよ。……でも、返したいの、傘じゃない。あのとき、怒ってごめんね。『もう勝手にしな』って言っちゃって。本当は、勝手にしてほしくなかった」
祖母の目がゆっくり開いて、笑い皺が少し寄った。
「濡れなかったかい」
「うん。猫さんがね、持ってくれたの」
「まあ」
祖母は驚いた顔のまま、窓の外を見た。雨脚は弱くなっている。
「茜、糸は、結び直せるんだよ。ほどけたら、また結べばいい」
茜は頷き、赤い糸を指に軽く結んだ。輪は小さい。でも、確かだった。
帰り際、看護師が廊下で声をかけた。
「さっき、お祖母さまにお手紙が届きました。受付経由で。差出人は書いてないけど……
『台所の窓から雨雲を見ています』って」
封筒は、古いレシピカードで作られていた。
祖母はそれを受け取り、指先でなぞった。
「昔の友だちだよ。あの子の家、台所の窓が空に近くてね」
茜は封筒の角に気づく。猫の足跡の小さなスタンプ。
ミスケたちの匂いだ。
病院を出ると、雨はほとんど霧になっていた。
バス停の透明傘の群れの中に、茜の傘だけが、柄に赤い糸を巻いたまま光っている。
傘立ての底に、ビニールの鞘がひとつ落ちていた。中に、短い手紙。
『配達員さんへ。
路地裏ポストは、夜のあいだだけ赤くなります。
ときどき、朝になろうとして消えそうになります。
最後の一通が届くまで、どうか支えてください。
——ポストの向こう側より』
署名はない。紙には、消印のない丸い輪が、雨粒でにじんでいた。
三匹は顔を見合わせた。
「“向こう側”?」源さんが耳を立てる。
「ポストの内側より、もっと奥の匂いがする」あんこが鞘の紙に鼻先を近づける。「古い郵便袋、革、そして、朝の空気」
ミスケは赤い糸をひと巻き、柄から外して前足に巻いた。
「あと一通。朝になる前に」
茜は傘を高く掲げ、三匹の頭上にさし出した。
「ありがとう」
透明な屋根の向こうで、茜の目はもう濡れていなかった。
「いつか、この傘ね、誰かが濡れてたらまた貸す。……そのとき、糸は結び直して渡す」
傘の骨が、軽く雨を弾いた。
茜はバスに乗り、窓越しに小さく手を振る。赤い糸が、指で光った。
病院前の道路は、雨の痕を残したまま少しずつ乾いていく。
透明なものの向こうに、灯りはそのままの色で見える——茜がいつか言いたかった“だいじょうぶ”は、きっとこんな色だった。
ミスケが足首の糸をほどき、投函口にそっと掛ける。
ポストは赤を少し濃くして、深く息をした。
「配達、成功だね」
源さんが尾をゆるく振る。
「わたしたち、何を配達したんだろう」
あんこが透明な屋根を見上げる。
「向こう側へ踏み出す勇気」
ミスケが答えた。
「濡れないように、一緒に差す屋根」
そのとき、投函口の奥で、見たことのない封筒がひとつ、光った。
宛名——『ミスケ・あんこ・源さんへ』
封緘の蝋印には、小さなポストの絵。
紙から立ちのぼるのは、朝の匂い、パンの甘さ、写真の紙、図書室のワックス、駅の風——この町のすべてが混じった匂い。
「最後の一通」
あんこが息を呑む。
「宛先は……“路地裏”。差出人は“朝”」
源さんが目を細める。
ミスケはうなずき、封筒にそっと前足を添えた。
「行こう。路地裏が朝になるまで」
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