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第1話 誤配ラブレター
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目覚ましは鳴らさない。
スマホの通知だけが、今日という日を連れてくる。
「案件、締切本日」
胸の奥がひやりとする。
けれど布団の外は、もっと冷たい気がして動けない。
ドアの向こうに、世界がある。
その手前――玄関の敷居に、見えない壁が立っている。
ピンポンが鳴った。
知らない番号の来訪ほど、怖いものはない。
息を止めて、足音が過ぎるのを待つ。
やがて通知。
共用アプリからのお知らせだ。
「【管理】宅配ボックスに誤配がありました。お心当たりの方は掲示板まで」
半分寝た頭が、一気に覚める。
俺の部屋番号が書かれていた。
布団の中で、画面をスクロールする。
添付された写真が、一枚。
白い封筒。
丸い、ていねいな字で、宛名が書いてある。
“春原いろは様”
ボックス番号は、俺がいつも使う段。
昨日、食料品を受け取った時と同じ位置だ。
どうして。
俺は、指先だけ動かして、掲示板に書き込む。
「部屋×××の黒川です。
さっきの写真のボックス、昨日僕が使いました。
封筒には触ってませんが、誤配なら管理へ連絡します」
投稿を押して、呼吸を吐く。
部屋の空気が、少しだけ動いた気がした。
すぐに返信がついた。
通知のバッジが小さく震える。
「ありがとうございます。
春原いろは(隣)です。
取りに行きます。ご厚意感謝します」
“隣”。
となり。
心臓が跳ねて、椅子の背もたれが軋んだ。
同じフロアの、あの薄い壁の向こう。
俺は、返事をどうすればいいのかわからない。
玄関の敷居が、いきなり牙をむく。
出れば、会うかもしれない。
会えば、見られるかもしれない。
指が勝手に動いていた。
「すみません、今は外に出られません。
封筒は管理に伝えて、元の段に戻しておきます」
数秒、既読のまま止まる。
画面の光が、部屋の埃を照らす。
音のない埃が、雪みたいに漂う。
返信。
「了解です。
無理しないでくださいね」
その一行だけで、肩の力が少し抜ける。
“無理しないで”。
誰かにそう言われるのは、いつ以来だろう。
布団を抜け出し、机に座る。
締切のタスクを開く。
UIテストのチェックリスト。
スクリーンショットを並べ、矛盾を探す。
作業をしていると、気持ちが均される。
画面の中には、玄関の敷居がない。
ルールがあり、やるべき手順がある。
俺は手順に強い。
一段落ついたころ、また通知が鳴った。
共用掲示板ではなく、個別メッセージだ。
「春原いろは(隣)」
開くのに、少しだけ勇気がいる。
親指の腹が、画面の角を滑る。
「先ほどはありがとうございました。
封筒、無事に受け取りました。
……それと、変なことを聞きます。
“スターシェルター”って、やってますか?」
予想外の単語で、姿勢が正しくなる。
夜に潜っている協力ゲームの名前だ。
味方と資源を集め、シェルターを延命させる。
孤立すると、すぐ詰む。
どうしてそれを。
「やってます。
味方に恵まれないと地獄を見るやつ」
送ってから、後悔する。
砕けすぎただろうか。
けれど、すぐに返信が来た。
「ですよね。
ゲーム板のスクショ、あなたのハンドルが映ってました。
わ、私も少しだけやってます」
“わ、私”。
噛んだ文字まで、画面越しに伝わってくる。
口下手なのかもしれない。
少し、親近感が湧いた。
「よかったら、相棒、してくれますか。
私、夜勤の前に一戦だけでも」
相棒。
その言葉が、胸の奥で灯る。
画面の青白い光が、少しだけ暖かく見えた。
でも、声は。
知らない人と、話すのは。
喉が乾いて、手の平が冷える。
「文字だけなら。
通話は……ちょっと練習が要ります」
正直に書いた。
嘘をつくと、後から怖くなる。
既読。
数秒の間。
その間に、心拍の音が耳に集まる。
「わかりました。
無理はしません。
それでも、嬉しいです」
短い文が、やさしく落ちてくる。
俺は深呼吸をして、椅子の背にもたれた。
背中から、少しだけ外の世界が遠のく。
その距離が、ちょうどいい。
机の隅に置きっぱなしの封筒を思い出す。
いや、俺のじゃない。
“春原いろは様”。
丸い字。
あの封筒は、何だったのだろう。
好奇心と、線引きの間で迷う。
知らない方が、いいこともある。
けれど、あの字は、誰かの決心みたいだった。
アプリのメッセージが震える。
新着。
同じ相手。
「それと、もう一つだけ。
もし可能なら——」
一拍置いて、次の吹き出しが現れる。
「その……ボイチャ、できますか?」
心臓が、すぐに答えを出させようとしてくる。
けれど、指は止まる。
玄関の敷居が、ここにも顔を出す。
声は、顔ほどじゃないけれど、怖い。
けれど、ゼロじゃない。
俺は、画面を閉じなかった。
閉じないで、深呼吸を三回。
そのあいだ、換気扇の音が、遠くの波みたいに聞こえた。
窓の外で、夕方が始まる。
マンションの廊下に、帰宅の足音が増える。
壁一枚向こうにも、きっと人がいる。
さっきの丸い字の持ち主。
“隣”。
俺は、キーボードにそっと指を置いた。
文字でできた世界で、できることを探す。
できることから始める。
それが、俺のやり方だ。
通知の赤い点が、小さく灯り続ける。
消すか、灯したままにするか。
たぶん、その選択の積み重ねで、世界はできている。
息を整え、指を一つだけ動かす。
「」の中に、最初の音を入れる準備をする。
言葉はまだ出ない。
でも、逃げていない。
俺は、画面を見つめた。
そして、思った。
いつか、この壁の薄さを、ありがたく思える日が来るかもしれない。
通知が震える。
時間切れじゃない。
ただ、俺の心臓が、選ばせているだけだ。
深呼吸。
一つ。
二つ。
指が、最初のキーに触れた。
スマホの通知だけが、今日という日を連れてくる。
「案件、締切本日」
胸の奥がひやりとする。
けれど布団の外は、もっと冷たい気がして動けない。
ドアの向こうに、世界がある。
その手前――玄関の敷居に、見えない壁が立っている。
ピンポンが鳴った。
知らない番号の来訪ほど、怖いものはない。
息を止めて、足音が過ぎるのを待つ。
やがて通知。
共用アプリからのお知らせだ。
「【管理】宅配ボックスに誤配がありました。お心当たりの方は掲示板まで」
半分寝た頭が、一気に覚める。
俺の部屋番号が書かれていた。
布団の中で、画面をスクロールする。
添付された写真が、一枚。
白い封筒。
丸い、ていねいな字で、宛名が書いてある。
“春原いろは様”
ボックス番号は、俺がいつも使う段。
昨日、食料品を受け取った時と同じ位置だ。
どうして。
俺は、指先だけ動かして、掲示板に書き込む。
「部屋×××の黒川です。
さっきの写真のボックス、昨日僕が使いました。
封筒には触ってませんが、誤配なら管理へ連絡します」
投稿を押して、呼吸を吐く。
部屋の空気が、少しだけ動いた気がした。
すぐに返信がついた。
通知のバッジが小さく震える。
「ありがとうございます。
春原いろは(隣)です。
取りに行きます。ご厚意感謝します」
“隣”。
となり。
心臓が跳ねて、椅子の背もたれが軋んだ。
同じフロアの、あの薄い壁の向こう。
俺は、返事をどうすればいいのかわからない。
玄関の敷居が、いきなり牙をむく。
出れば、会うかもしれない。
会えば、見られるかもしれない。
指が勝手に動いていた。
「すみません、今は外に出られません。
封筒は管理に伝えて、元の段に戻しておきます」
数秒、既読のまま止まる。
画面の光が、部屋の埃を照らす。
音のない埃が、雪みたいに漂う。
返信。
「了解です。
無理しないでくださいね」
その一行だけで、肩の力が少し抜ける。
“無理しないで”。
誰かにそう言われるのは、いつ以来だろう。
布団を抜け出し、机に座る。
締切のタスクを開く。
UIテストのチェックリスト。
スクリーンショットを並べ、矛盾を探す。
作業をしていると、気持ちが均される。
画面の中には、玄関の敷居がない。
ルールがあり、やるべき手順がある。
俺は手順に強い。
一段落ついたころ、また通知が鳴った。
共用掲示板ではなく、個別メッセージだ。
「春原いろは(隣)」
開くのに、少しだけ勇気がいる。
親指の腹が、画面の角を滑る。
「先ほどはありがとうございました。
封筒、無事に受け取りました。
……それと、変なことを聞きます。
“スターシェルター”って、やってますか?」
予想外の単語で、姿勢が正しくなる。
夜に潜っている協力ゲームの名前だ。
味方と資源を集め、シェルターを延命させる。
孤立すると、すぐ詰む。
どうしてそれを。
「やってます。
味方に恵まれないと地獄を見るやつ」
送ってから、後悔する。
砕けすぎただろうか。
けれど、すぐに返信が来た。
「ですよね。
ゲーム板のスクショ、あなたのハンドルが映ってました。
わ、私も少しだけやってます」
“わ、私”。
噛んだ文字まで、画面越しに伝わってくる。
口下手なのかもしれない。
少し、親近感が湧いた。
「よかったら、相棒、してくれますか。
私、夜勤の前に一戦だけでも」
相棒。
その言葉が、胸の奥で灯る。
画面の青白い光が、少しだけ暖かく見えた。
でも、声は。
知らない人と、話すのは。
喉が乾いて、手の平が冷える。
「文字だけなら。
通話は……ちょっと練習が要ります」
正直に書いた。
嘘をつくと、後から怖くなる。
既読。
数秒の間。
その間に、心拍の音が耳に集まる。
「わかりました。
無理はしません。
それでも、嬉しいです」
短い文が、やさしく落ちてくる。
俺は深呼吸をして、椅子の背にもたれた。
背中から、少しだけ外の世界が遠のく。
その距離が、ちょうどいい。
机の隅に置きっぱなしの封筒を思い出す。
いや、俺のじゃない。
“春原いろは様”。
丸い字。
あの封筒は、何だったのだろう。
好奇心と、線引きの間で迷う。
知らない方が、いいこともある。
けれど、あの字は、誰かの決心みたいだった。
アプリのメッセージが震える。
新着。
同じ相手。
「それと、もう一つだけ。
もし可能なら——」
一拍置いて、次の吹き出しが現れる。
「その……ボイチャ、できますか?」
心臓が、すぐに答えを出させようとしてくる。
けれど、指は止まる。
玄関の敷居が、ここにも顔を出す。
声は、顔ほどじゃないけれど、怖い。
けれど、ゼロじゃない。
俺は、画面を閉じなかった。
閉じないで、深呼吸を三回。
そのあいだ、換気扇の音が、遠くの波みたいに聞こえた。
窓の外で、夕方が始まる。
マンションの廊下に、帰宅の足音が増える。
壁一枚向こうにも、きっと人がいる。
さっきの丸い字の持ち主。
“隣”。
俺は、キーボードにそっと指を置いた。
文字でできた世界で、できることを探す。
できることから始める。
それが、俺のやり方だ。
通知の赤い点が、小さく灯り続ける。
消すか、灯したままにするか。
たぶん、その選択の積み重ねで、世界はできている。
息を整え、指を一つだけ動かす。
「」の中に、最初の音を入れる準備をする。
言葉はまだ出ない。
でも、逃げていない。
俺は、画面を見つめた。
そして、思った。
いつか、この壁の薄さを、ありがたく思える日が来るかもしれない。
通知が震える。
時間切れじゃない。
ただ、俺の心臓が、選ばせているだけだ。
深呼吸。
一つ。
二つ。
指が、最初のキーに触れた。
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