ひきこもりでも恋をしたい

あき

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第9話 影の噂

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朝、非常灯の緑がまだ淡く残っている。
チェックリストの今日の欄に書く。

「ポストの鍵――“触る・回す・戻す(屋内訓練)」

実際のポストは一階。
今日はまだ行かない。
鍵の手触りに、まず身体を慣らす。

すぐにメッセージ。

「いろ:おはようございます。
“ポスト鍵 作戦 v0.1”です」

箇条書きが落ちてくる。

「・場所:部屋の中(机の上/ドアの前)
・目標:①鍵を“見る” ②“持つ” ③“回す動作”を空中で練習
・音:カチャ音テスト(落下禁止)
・呼吸:深×3→手首を回す瞬間に吐く
・撤退条件:手汗で滑る/心拍が速い
・撤退=成功
・ごほうび:スタンプ一個」

仕様書は、優しいほど良い。
鍵束を引き出しから出す。
銀色の歯。
一本だけ、先端が丸くなっているポスト用の鍵。
まず“見る”。
見るだけで、手の平に細い重さが生まれる。

“持つ”。
親指、人差し指、中指。
人差し指の腹が、刻みの山をなでる。
金属の冷たさが、心拍を一段落とす。

“回す”。
空中で、ゆっくり手首を返す。
“差す→止める→45度→戻す”。
声にならない声で、手順をなぞる。

「くろ:①②③完了」

「いろ:大成功。
ではラスト、“ドアの前で鍵を握ったまま、取っ手に触る”まで」

扉の前に立つ。
鍵を握る手と、取っ手に触れる手。
二本の腕が、別の動物みたいに緊張する。
深呼吸、一つ。
二つ。
三つ。
取っ手に、触れる。
回さない。
触れるだけ。

「くろ:触った。
回してはいない」

「いろ:目的どおり。
ごほうびどうぞ」

飴のスタンプを一つ転がす。
画面の端で、光らない絵が光って見える。

机に戻り、作業を始める。
UIテストのバグ票を三件。
「モーダル内のフォーカス遷移が逆回り」
「“次へ”ボタンの文言が画面Bだけ“送信”」
「トグルのON/OFFの色が仕様書と逆」
“逆”。
その二文字に視線が引っかかる。
逆にされたものは、まっすぐに戻したくなる。

昼。
休憩に、とタイムラインを開いた。
ゲーム板。
“スターシェルター”の小さなコミュニティ。
掲示スレの下の方で、見覚えのあるハンドルがぼやけて目に刺さる。

“kuro_t”

俺の、昔のサブ。
今は使っていない。
スレは、数分前に浮上していた。
手が勝手にスクロールする。

そこに、コピペ。
見覚えのある、嫌な言い回し。

「黒川ってやつ、前の現場で“仕様漏らしてバックレ”した人でしょw」
「不具合ねつ造して案件止めたって聞いた」
「ソースは?」「友達の友達」

笑いの絵文字。
スタンプの淡い色が、砂を噛むみたいに目に残る。
喉が乾き、手の平が急に軽くなる。
鍵の冷たさはもうない。
代わりに、画面の光が鋭くなる。

深呼吸。
……浅い。
吸う前に、ため息だけが出る。

スマホを置く。
置いたが、視線が離れない。
スクロールすれば、何か“反証”が見つかる気がする。
でも、それは沼だ。
条約第1条“無理しない”。
第2条“撤退は成功”。

いろに打つ。

「くろ:ゲーム板で、昔のコピペが浮上。
サブのハンドル、晒されてる」

既読がつくまで、心拍が早足で往復する。
すぐに返ってきた。

「いろ:まず、画面を閉じましょう。
“撤退=成功”です」

「くろ:閉じた」

指は言うことを聞いた。
ただ、頭の中の画面は閉じない。
コピペの行間だけが、瞼の裏で明滅する。

「いろ:情報の整理をします。
“いつ・どこに・何が”の三点だけ、私にDMしてください。
透さんは“呼吸”と“飴”を」

飴の包みを一つ破る。
甘さは、即効性がある。
喉の壁に薄くテープを貼るみたいに、ささくれを覆う。

「くろ:数分前。
“スターシェルター”の板。
コピペは“仕様漏らし”“ねつ造”。
ソース不明」

「いろ:受け取りました。
“逆流”を止めるために、今は“流入口”から離れます」

逆流。
逆。
さっきのトグルの色。
逆になったものを、戻す。
戻すのは、今じゃない。
まず、蛇口をひねる。
閉じる。

「いろ:もしよければ、匿名掲示板監視は私が引き受けます。
透さんは、鍵の練習の続きを」

「くろ:お願いする」

「いろ:了解。
“代理実行”発動(条約第8条)。
スクショとログ取りは私がやります」

呼吸が、少しだけ戻る。
代わりに、手が震える。
震えたままで、できること。
机の上で、鍵の“差す→止める→45度→戻す”をもう一度。
金属が、さっきより冷たい。
でも、冷たさは役に立つ。
熱くなった頭の温度を少し落としてくれる。

午後。
いろから、短い報告が断続的に届く。

「いろ:コピペの初出は二年前。
今日のスレは“昔のまとめ”の貼り直しです」

「いろ:ハンドル“kuro_t”については、過去のプレイ動画のサムネから流入」

「いろ:対策は“沈黙”か“時系列の提示”。
今日は前者。
夜に“観察眼の証拠”の草案を作ります」

“観察眼”。
UIテストの武器。
俺の唯一の強み。
それが、誰かの“ねつ造”という言葉で上書きされるのは、耐え難い。
でも、今日は戻さない。
蛇口を閉めたままにする。

夕方。
チェックリストに新しい行。

「“画面を閉じた”(成功)」

右端の星が、黄色くなる。
行動ではなく“閉じる”に星を付けるのは、最初は抵抗があった。
けれど、条約が背中を押す。
撤退は成功。
成功には、星。

夜。
二十二時。
ゲームは今日は休む。
代わりに、共同チェックリストのコメント欄に並んで座る。
ラウンジの椅子のときと同じ距離感で。

「いろ:今日の一歩、二つありました。
“鍵を持つ・回す”と“画面を閉じる”」

「くろ:後者の方が難しかった」

「いろ:えらい」

“えらい”の二文字が、もう一度、心臓を撫でる。
撫でられた場所に、細い光。

「いろ:スクショを一枚、置きます。
見なくて大丈夫。
“証拠がある”ことだけ、知ってください」

通知のサムネが一瞬だけ視界をかすめる。
小さな白地に黒い文字列。
見ない。
見ないで、“ある”とだけ知る。
それで十分だ。

「いろ:明日は“エレベーター前で一度止まる”(見るだけ)でもいいですし、続けて“鍵”でも」

「くろ:鍵の続き。
“取っ手を回して、開けずに戻す”」

「いろ:よし。
成功条件は“回した→止めた→戻した”。
扉の“ガチャ音”は、明るい音です。
音が怖くなったら、非常灯」

非常灯の緑が、まぶたの裏で呼吸する。
緑の輪郭は、噂の輪郭より強い。
そう思い込む。
思い込みは、時々味方になる。

ログを閉じる前、彼女から一行。

「いろ:透さん。
“ねつ造”は、観察眼の逆です。
あなたの指摘は、再現手順があり、同じ結果になります。
大丈夫です」

「くろ:ありがとう」

“ありがとう”は、今夜いちばん具体的な言葉だった。
胸の中の角が、少しだけ丸くなる。

画面を閉じる。
部屋の暗さが戻る。
暗さは、停電の夜の暗さとは違う。
でも、非常灯の緑が、頭の中に残っているだけで、だいぶ違う。

ベッドに横たわる直前、スマホがまた震えた。
いろから、もう一つ。

「いろ:最後に、“練習”。
“名前で一言”――月一には早いけど、今夜は臨時です」

名前。
喉の奥に、小さな重さ。
飴の最後の甘さが、背中を押す。

「……いろはさん」

声に出した。
細い糸みたいな声。
でも、切れていない。

返ってくる。

「はい、透さん」

噂の声より、名前の声の方が強い。
その順番を、今は信じる。

目を閉じる。
眠りかけた耳に、薄い通知音。
勝手に開かないようにしていたタイムラインの、外側から届く。
寝ぼけた目に、小さな文字が滲む。

「前スレのコピペ、保存した。証拠」

証拠。
その単語だけが、石みたいに胸に落ちる。
スクリーンは見ない。
でも、石の冷たさは、確かにそこにある。

深呼吸。
一つ。
二つ。
三つ。

鍵を握った手の記憶で、眠りに落ちる。
明日は“回して、止めて、戻す”。
その三つの手順だけは、誰にもコピペされない。
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