ひきこもりでも恋をしたい

あき

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第32話 ホームの端 二歩 v0.1

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朝、付箋に太字で書く。
「ホームの端 二歩 v0.1」

下に小さく、手順を並べる。
「黄色い線“外側”で、線に平行に“二歩だけ”進む→止まる→二歩戻る」。
「視線=線と角。遠景“時計の角”は一回だけ→すぐ戻す」。
「音×3+余白一呼吸」。
「撤退=成功」。

いろからメッセージ。

「いろ:おはようございます。
“ホームの端 二歩 v0.1.2”送ります」

箇条書きが落ちる。

「・時間:十四時二十五分(人流薄)
・位置:ホームの“端”付近、柱の影からスタート
・立ち方:黄色い線の“外側”で、線と平行に体を置く
・視線の置き場:床の線→柱の角→自分の手→靴の縫い目→(一度だけ)時計の“角”→即“線”へ戻す
・“置かない”:人の顔/線の“内側”(入らない)
・音:接近メロディ/アナウンス/ブレーキの風音
・撤退条件:駅員の笛/強風(前髪が額に貼り付く)/人の密度↑/撮影
・撤退=成功
・ごほうび:麦茶 or レモンアイス」

仕様書は、今日も優しい。
“二歩だけ”。
数の小ささが、道の短さに見えて、歩幅の恐怖を薄める。

「くろ:承認。
ごほうびはレモンアイス」

「いろ:了解。
屋外は安全形、呼称は“さん”に戻します」

条約第12条。
屋外は、安全が最優先。
呼び捨ての余白は、部屋へ持ち帰る。

昼、仕事。
UIテストの票を三件。
「戻るスワイプの幅が画面Iのみ広い」
「保存トーストの影の濃度が1段濃い」
「警告ボタンのコントラストが暗所で弱い」
数字と線を整えると、胸の速度も一段整う。

十四時二十分。
のど飴を一つ。
口の形だけで「す」「う」「は」。
声は出さない。
形だけ。

黄色い付箋に「OK」。
ドアの下へ滑らせる。
丸い字で「OK」が返る。
約束の矢印。

明るい“ガチャ”。
非常灯の緑。
廊下→エレベーター、鏡は“置かない”。
床→手→数字。
一階へ。

裏道。
風は右から。
前髪→袖→いろはさんの肩布。
三点の矢印が揃う。
肩の盾が、風と視線を切り分ける角度を作る。

駅の端のホーム。
アナウンスが遠く薄く重なる。
黄色い線が波のように続く。
柱の影。
角が、視線の置き場に向いている。

「いろ:ここから始めます。
“線→角→手→縫い目”。
“線の内側には入らない”。
二歩だけ進んで、止まって、二歩戻る。
強風と笛で“×”です」

「くろ:了解」

線に平行に体を置く。
足元の黄色。
“入らない”。
否定形は、境界の手すり。

一歩。
線→角→手→縫い目。
呼吸、吐く。

二歩。
線→角→手→縫い目。
止まる。
胸の奥で、足音のメトロノームが一拍分だけ遅くなる。

音を三つ。
接近メロディが一度。
アナウンスが「まもなく――」を一度。
遠いブレーキの風音がホームの端で一度、低く揺れる。
三つ。

遠景を一度だけ。
時計の“角”。
白い矩形の端。
“見た→戻す”。
線へ。
手→縫い目。
戻せた。
胸の中央に薄い重石。
重石は、味方。

余白、一呼吸。
吸って。
吐く。
沈黙は、味方。

戻る。
一歩。
線→角→手→縫い目。
二歩。
柱の影へ帰る。

「くろ:二歩、往復。
成功」

「いろ:大成功。
“遠景→即戻し”、完璧でした」

そのとき、線の内側を子どもが駆けた。
親の声が慌てて追う。
同時に、ホームの向こうで駅員の笛。
胸の角が一段尖りかける。

「いろ:静止。
“線→角→手→縫い目”。
笛が止むまで“×待機”」

線→角→手→縫い目。
置き場を固定する。
笛の音が一度、二度、三度。
やがて止む。
アナウンスが冷静に均す。
子どもの足音は、親の歩幅に吸い込まれていった。

「いろ:退路A=柱の影→階段方向へ半歩、でもOK。
続行も可」

胸の中で、重石が位置を示す。
今日は――続ける。
“続ける”も“撤退”も同じ勝ち。
選べるのが勝ち。

二本目。
二歩。
止まる。
音を三つ。
接近メロディが一度。
遠いブレーキの風音が一度。
列車のドアの解放音が、遠くで一度。
三つ。

そこで、斜め後ろから小さなレンズ。
ショルダーの黒。
若い二人が、ホームの端の風景を切り取って歩く。
心拍が一段跳ねる。
蛇口は、閉じたまま。
いろはさんの肩が半歩、レンズと直角を作る。
盾は、角度で道を作る。

「いろ:退路B=柱の影へ戻る→裏道。
“撤退=成功”」

頷く。
線→角→手→縫い目を回しながら、二歩戻る。
柱の影へ。
風が背中を押す。
押されるのは、嫌ではない。

階段方向へ半歩だけ退き、様子を見る。
レンズはすぐ離れ、人流は薄いまま。
心拍は、一拍ずつ元の速度へ戻る。

「くろ:一往復成功→退避。
ここで終わる」

「いろ:完璧です。
“勝ち逃げ”は、条約に沿っています」

エントランスのように、ホームの陰影も扉のように感じられる。
影から光へ。
光から影へ。
通過の儀式は、心拍の儀式だ。

改札を離れ、裏道へ。
白線→根元→肩。
エントランス。
鏡は“置かない”。
床→手→数字。
エレベーター。
背を壁へ。
数字が上がり、心拍は下がる。

自分のフロア。
明るい“ガチャ”。
入る。
閉める。
扉に背中。

スマホ。

「くろ:今日の一歩“ホームの端 二歩 v0.1(往復/遠景→戻す/笛→静止/退避)”成功」

すぐ、飴と絆創膏と花。
花の横に、黄色い線のスタンプ。
今日の匂いの記録。

「いろ:ごほうび、レモンアイスをドア下に」

紙がするり。
パウチの冷たさが掌に落ちる。
冷たさは、声の出口を滑らせる。

共同チェックリストに入力。
右端の星が、また一つ灯る。
星は線になり、線は道になる。

少し間を置いて、いろから一行。

「いろ:時系列の波紋、穏やか。
“ありがとう”のDMがもう一通。
石はゼロ、砂は少し」

「くろ:『ありがとうございます』で受け取って終える」

「いろ:ありがとう。
“受け取り”も、練習の一部です」

レモンアイスの封を切る。
酸が喉の壁を明るく洗う。
洗われた壁に、名前が通る細い道ができる。

「いろ:次の案です。
A.“ホームの端 三歩 v0.2(停車中のみ/時計の角を一度)”
B.“停車中のドア 五秒 v0.1(列に入らない/線の外側/『開く音→余白』)”
無理なら、今日の二歩を反復」

停車中。
胸が、提案の形を確かめる。
怖い。
でも、停車中なら風は穏やかだ。
“列に入らない”。
否定形が、手すりになる。

「くろ:Bを候補。
混雑していたらAに切替」

「いろ:了解。
屋外は“さん”、屋内は“呼び捨て”。
切り替え継続です」

そのとき、マンションの共用アプリから通知。

「【管理】来月、非常階段の清掃を実施予定。
時間帯に騒音の可能性」

階段。
手すりの支柱。
段鼻。
練習で覚えた直線の群れが、胸の中に静かに並ぶ。
騒音も、直線の脇を通せる。

「いろ:スケジュールに入れます。
“騒音 v0.1=音を三つ→余白”」

「くろ:お願いします」

ログを閉じる前、臨時の一行。

「いろ:屋内で、“名前の練習”を一回」

喉の奥に、レモンの冷たさ。
滑りやすい。

「……いろは」

糸みたいに細い声。
でも、切れない。

「透」

呼び捨ての余白が、部屋の空気を一度だけ丸くする。
丸くなったところに、黄色い線の手触りが沈む。
線は、止まるための線であり、進むための線でもある。
二歩。
今日は、それで十分だ。

机の端に付箋。
「ホームの端 二歩 v0.1――完了」
飴と絆創膏と花の横に、時計の“角”を小さく描く。
角は、戻る場所。
戻る場所があれば、見ても怖くない。

夜、短い訓練を一戦だけ。
角の手前で、いろが打つ。

「いろ:肩」

現実と同じ。
置き場が整えば、敵は薄い。
北面センサー。
赤の線。
切って、繋ぐ。
“回して、止めて、戻す”。
今日のキーワードも、ここで効く。

終盤、敵ドローンがホームの風みたいに押し寄せる。
視線が光に引かれかける。
線→角→手→ミニマップ。
“戻す”。
スモークで退避。
撤退=成功。
胸の角が、また一つ丸くなる。

クリア。
《シェルター延命:96時間》
花火スタンプ。
整備王。
ダサい。
でも、少し誇らしい。

ログアウトの前、いろが小さく噛んで、整える。

「いろ:……おやすみ、透」

「おやすみ、いろは」

扉の木目が、背中で小さく頷く。
木は冷たいのに、頷ける。
人も、似ている。

目を閉じる。
線→角→手→縫い目。
二歩。
音を三つ、余白を一呼吸。
遠景の角を一度だけ。
その順番を、まぶたの裏に置いて眠る。
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