簒奪女王と隔絶の果て

紺乃 安

文字の大きさ
258 / 281
簒奪女王

王城の炎 2

しおりを挟む
 その夜はリードホルムの冬にしては妙に暖かく、星も月も厚い雲に隠れた暗い空からは、いつしか混じりの雪が降りはじめていた。灰色の古城ヘルストランド城は深い宵闇よいやみに包まれ、点在する篝火かがりびや廊下の燭台しょうだいの明かりが届かない場所は完全な暗黒となっている。
 そんな中、二人一組で夜間の警備に当たっていた衛兵が、暗闇にうごめく人影を見かけた。
「……そこ、誰かいるのか?」
 衛兵は松明たいまつをかざして呼びかけるが、人影は応えず暗闇に消えていった。
 むろんそれで問題がないはずがない。彼らの持ち場は、国王ノアの居室がある区画なのだ。
 二人の衛兵は顔を見合わせ、一人が槍を構えて人影を追った――が、衛兵は足を滑らせて体勢を崩し、石畳の床に手をついた。
「おい、なにやってんだ」
「痛てて……ちくしょう、何だこりゃ?」
「この匂い、亜麻あまか?」
 衛兵の手には、べっとりと亜麻仁あまに油がついていた。これが軍靴ぐんかの革の靴底を滑らせたのだ。
「相変わらず鼻が利くな、オーケルバリ精油商の息子殿は」
「ほっとけよカスパル。……しかし、苦しまぎれに油をまいて逃げたのか? ずいぶん変な盗賊だな」
「まあどうあれ、報告はせにゃならんだろ」
「そりゃそうだ」
 この、どこか間の抜けた様子が緊張感を欠き、報告に向かう衛兵カスパルの足どりは緩慢かんまんだった。
 だがこのとき実は、ヘルストランド城の中央棟二階のいたるところで、同じような事態が生じていたのだった。そのことがいち早く知られてさえいれば、ブリクストから王宮の警備を一任されていたマウリッツ・オデアン警備副主任などは、計画的な襲撃だと看破かんぱして迅速な対応をとったことだろう。
 この夜警備にあたっていた者たちは、あとになって一様いちように、みずからの悠長ゆうちょうさを後悔した。
 オデアン副主任のいる衛兵詰所つめしょに向かっていたカスパルは、まったく予想外なものにその道ゆきをさえぎられた。カスパルはそのとき、真っ暗だった廊下の先がぼんやりと、そして徐々に明るくなってきていることに違和感を覚えていた。
「ほ……炎!?」
 組積造そせきぞうの廊下の向こうからカスパルのほうへ、規則正しく曲がり角を曲がって炎が迫ってくる。炎は床から立ちのぼって壁にも広がり、ヘルストランド城の暗闇を煌々こうこうと照らす。
「さっきの油、まさかこのために……」
 燃えさかる炎は火の壁となって人の出入りを阻む。その炎の中心にいるのは、ほかならぬ国王ノアだった。

 炎に包まれゆく王宮の一角で、なめし革のローブに身を包んだ人影が五つ、身を寄せ合っている。みな上背は低く、屈強な男は含まれていないようだ。
 ローブのフードで顔を覆った女が、おそるおそるといった様子で口を開いた。
「大丈夫なのでしょうか、このようなことをして……」
「何を心配することがあろうか。この区画の構造とノアの部屋までの道すじは、わたしの頭に入っている」
「いえ、そうではなく……」
「なんだ、では後顧こうこうれえがあるとでもいうのか? ……やはりどうも女たちは怯懦きょうだに過ぎるな。いいか、この火でヘルストランド城を燃やし尽くすことはできん。だが、燃え上がる王宮を見た誰もが、ノアの落日を胸に強く焼きつけることだろう。そしてえあるアッペルトフトの血に連なるこのわたしこそ、貴族の連合体であるリードホルムの王にふさわしい、と皆に気づかせるのだ」
「は、はい。王太子おうたいし様」
 人影のひとつがすっくと立ち上がった。そのまだあどけなさの残る細面ほそおもての顔は、かつてベアトリスとも幾度か言葉をかわしたことのもある、後宮からの使者ラーシュだった。
しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

皇太子夫妻の歪んだ結婚 

夕鈴
恋愛
皇太子妃リーンは夫の秘密に気付いてしまった。 その秘密はリーンにとって許せないものだった。結婚1日目にして離縁を決意したリーンの夫婦生活の始まりだった。 本編完結してます。 番外編を更新中です。

【完結】6人目の娘として生まれました。目立たない伯爵令嬢なのに、なぜかイケメン公爵が離れない

朝日みらい
恋愛
エリーナは、伯爵家の6人目の娘として生まれましたが、幸せではありませんでした。彼女は両親からも兄姉からも無視されていました。それに才能も兄姉と比べると特に特別なところがなかったのです。そんな孤独な彼女の前に現れたのが、公爵家のヴィクトールでした。彼女のそばに支えて励ましてくれるのです。エリーナはヴィクトールに何かとほめられながら、自分の力を信じて幸せをつかむ物語です。

十年間虐げられたお針子令嬢、冷徹侯爵に狂おしいほど愛される。

er
恋愛
十年前に両親を亡くしたセレスティーナは、後見人の叔父に財産を奪われ、物置部屋で使用人同然の扱いを受けていた。義妹ミレイユのために毎日ドレスを縫わされる日々——でも彼女には『星霜の記憶』という、物の過去と未来を視る特別な力があった。隠されていた舞踏会の招待状を見つけて決死の潜入を果たすと、冷徹で美しいヴィルフォール侯爵と運命の再会! 義妹のドレスが破れて大恥、叔父も悪事を暴かれて追放されるはめに。失われた伝説の刺繍技術を復活させたセレスティーナは宮廷筆頭職人に抜擢され、「ずっと君を探していた」と侯爵に溺愛される——

【完結】番である私の旦那様

桜もふ
恋愛
異世界であるミーストの世界最強なのが黒竜族! 黒竜族の第一皇子、オパール・ブラック・オニキス(愛称:オール)の番をミースト神が異世界転移させた、それが『私』だ。 バールナ公爵の元へ養女として出向く事になるのだが、1人娘であった義妹が最後まで『自分』が黒竜族の番だと思い込み、魅了の力を使って男性を味方に付け、なにかと嫌味や嫌がらせをして来る。 オールは政務が忙しい身ではあるが、溺愛している私の送り迎えだけは必須事項みたい。 気が抜けるほど甘々なのに、義妹に邪魔されっぱなし。 でも神様からは特別なチートを貰い、世界最強の黒竜族の番に相応しい子になろうと頑張るのだが、なぜかディロ-ルの侯爵子息に学園主催の舞踏会で「お前との婚約を破棄する!」なんて訳の分からない事を言われるし、義妹は最後の最後まで頭お花畑状態で、オールを手に入れようと男の元を転々としながら、絡んで来ます!(鬱陶しいくらい来ます!) 大好きな乙女ゲームや異世界の漫画に出てくる「私がヒロインよ!」な頭の変な……じゃなかった、変わった義妹もいるし、何と言っても、この世界の料理はマズイ、不味すぎるのです! 神様から貰った、特別なスキルを使って異世界の皆と地球へ行き来したり、地球での家族と異世界へ行き来しながら、日本で得た知識や得意な家事(食事)などを、この世界でオールと一緒に自由にのんびりと生きて行こうと思います。 前半は転移する前の私生活から始まります。

一級魔法使いになれなかったので特級厨師になりました

しおしお
恋愛
魔法学院次席卒業のシャーリー・ドットは、 「一級魔法使いになれなかった」という理由だけで婚約破棄された。 ――だが本当の理由は、ただの“うっかり”。 試験会場を間違え、隣の建物で行われていた 特級厨師試験に合格してしまったのだ。 気づけばシャーリーは、王宮からスカウトされるほどの “超一流料理人”となり、国王の胃袋をがっちり掴む存在に。 一方、学院首席で一級魔法使いとなった ナターシャ・キンスキーは、大活躍しているはずなのに―― 「なんで料理で一番になってるのよ!?  あの女、魔法より料理の方が強くない!?」 すれ違い、逃げ回り、勘違いし続けるナターシャと、 天然すぎて誤解が絶えないシャーリー。 そんな二人が、魔王軍の襲撃、国家危機、王宮騒動を通じて、 少しずつ距離を縮めていく。 魔法で国を守る最強魔術師。 料理で国を救う特級厨師。 ――これは、“敵でもライバルでもない二人”が、 ようやく互いを認め、本当の友情を築いていく物語。 すれ違いコメディ×料理魔法×ダブルヒロイン友情譚! 笑って、癒されて、最後は心が温かくなる王宮ラノベ、開幕です。

婚約者の幼馴染って、つまりは赤の他人でしょう?そんなにその人が大切なら、自分のお金で養えよ。貴方との婚約、破棄してあげるから、他

猿喰 森繁
恋愛
完結した短編まとめました。 大体1万文字以内なので、空いた時間に気楽に読んでもらえると嬉しいです。

第12回ネット小説大賞コミック部門入賞・コミカライズ化企画進行中「妹に全てを奪われた元最高聖女は隣国の皇太子に溺愛される」完結

まほりろ
恋愛
第12回ネット小説大賞コミック部門入賞・コミカライズ企画進行中。 コミカライズ化がスタートしましたらこちらの作品は非公開にします。 部屋にこもって絵ばかり描いていた私は、聖女の仕事を果たさない役立たずとして、王太子殿下に婚約破棄を言い渡されました。 絵を描くことは国王陛下の許可を得ていましたし、国中に結界を張る仕事はきちんとこなしていたのですが……。 王太子殿下は私の話に聞く耳を持たず、腹違い妹のミラに最高聖女の地位を与え、自身の婚約者になさいました。 最高聖女の地位を追われ無一文で追い出された私は、幼なじみを頼り海を越えて隣国へ。 私の描いた絵には神や精霊の加護が宿るようで、ハルシュタイン国は私の描いた絵の力で発展したようなのです。 えっ? 私がいなくなって精霊の加護がなくなった? 妹のミラでは魔力量が足りなくて国中に結界を張れない? 私は隣国の皇太子様に溺愛されているので今更そんなこと言われても困ります。 というより海が荒れて祖国との国交が途絶えたので、祖国が危機的状況にあることすら知りません。 小説家になろう、アルファポリス、pixivに投稿しています。 「Copyright(C)2021-九十九沢まほろ」 表紙素材はあぐりりんこ様よりお借りしております。 小説家になろうランキング、異世界恋愛/日間2位、日間総合2位。週間総合3位。 pixivオリジナル小説ウィークリーランキング5位に入った小説です。 【改稿版について】   コミカライズ化にあたり、作中の矛盾点などを修正しようと思い全文改稿しました。  ですが……改稿する必要はなかったようです。   おそらくコミカライズの「原作」は、改稿前のものになるんじゃないのかなぁ………多分。その辺良くわかりません。  なので、改稿版と差し替えではなく、改稿前のデータと、改稿後のデータを分けて投稿します。  小説家になろうさんに問い合わせたところ、改稿版をアップすることは問題ないようです。  よろしければこちらも読んでいただければ幸いです。   ※改稿版は以下の3人の名前を変更しています。 ・一人目(ヒロイン) ✕リーゼロッテ・ニクラス(変更前) ◯リアーナ・ニクラス(変更後) ・二人目(鍛冶屋) ✕デリー(変更前) ◯ドミニク(変更後) ・三人目(お針子) ✕ゲレ(変更前) ◯ゲルダ(変更後) ※下記二人の一人称を変更 へーウィットの一人称→✕僕◯俺 アルドリックの一人称→✕私◯僕 ※コミカライズ化がスタートする前に規約に従いこちらの先品は削除します。

幽閉王女と指輪の精霊~嫁いだら幽閉された!餓死する前に脱出したい!~

二階堂吉乃
恋愛
 同盟国へ嫁いだヴァイオレット姫。夫である王太子は初夜に現れなかった。たった1人幽閉される姫。やがて貧しい食事すら届かなくなる。長い幽閉の末、死にかけた彼女を救ったのは、家宝の指輪だった。  1年後。同盟国を訪れたヴァイオレットの従兄が彼女を発見する。忘れられた牢獄には姫のミイラがあった。激怒した従兄は同盟を破棄してしまう。  一方、下町に代書業で身を立てる美少女がいた。ヴィーと名を偽ったヴァイオレットは指輪の精霊と助けあいながら暮らしていた。そこへ元夫?である王太子が視察に来る。彼は下町を案内してくれたヴィーに恋をしてしまう…。

処理中です...