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過去編・夜へ続く道
16 陰謀と逃避
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ヘルストランド王城の一角にあるアウグスティン王子の私室では、一昨日と同じような情景が再演されていた。いくつか異なるのは、壁に投げつけられたものが陶器のグラスではなく銀製のゴブレットで、石壁に広がる飛沫の色が薄かったことだ。職人の手になる銀細工が無残に形を変じ、円弧を描いて床を転がった。
室内にはアウグスティンの粗相を世話するものはおらず、不運な銀食器は床に横たわったままだ。人払いをした責任を感じてか、同室していたエイデシュテット宰相は自ら侍従役を兼ね、新たな器に白ワインを注ぐ。
「毒殺は諦めよと申すか」
「左様です。万が一、毒の出処が露見でもしたら、ノア王子に口実を与えてしまうことになりますゆえ。ここは御身の大事を取られますよう」
「口実とは……何だ、ノアが俺を討つとでも言うのか」
「恐れ多いことながら……」
「この俺があんな若造にやられるものか。口先だけの理屈倒れめ」
兄弟とはいえアウグスティンとノアは歳が五つ離れており、精神面の陶冶はともかく年齢上は確かにノアが若輩ではある。
――このお方は操りやすいが、いささか悋気がすぎる。エイデシュテットは胸中で呆れていた。だが、まだまだ末永く、ノルドグレーンの操り人形として役立ってもらう必要があるのだ。
「そのような危険な橋を渡らずとも、このエイデシュテットめに一計がございます」
「何だ? 貴様がノアを道連れに葬ってでもくれるのか?」
エイデシュテットは内心で舌打ちした。
「……カッセル王国との戦争です」
「バカなことを。何をもってカッセルに攻め入るというのか。あれでも表向きは友好国だぞ」
「ごもっともな見識でございます」
「父上も、故なく戦端を開こうとはすまい」
「まずは地固めが必要です。もともと彼の国を良く思わぬ臣下や国民はおりますが、数の上では多数とは言えませぬ」
「そこを何とするか」
「国内の吟遊詩人に布告を出し、彼らの歌を変えるのです。カッセルへの敵意を煽り、神聖なるリードホルムを称える歌に」
「吟遊詩人を……?」
アウグスティンは訝しがりながらも目をぎらつかせた。興味は惹かれたようだ。
「いささか迂遠ながら、もっとも確実で無理のないやり方で、民衆の思考をすり替え、戦いを望む気風を生むのです。これにはノルドグレーンとの関係や、塩などにかけている重税から目をそらす副次的効果も望めます」
「ほう……?」
アウグスティンは不敵な笑みを見せ、ようやくワインを口に含んだ。銀の食器は毒素に反応して色が黒ずむが、そのゴブレットは灰白色の輝きを湛えたままだ。
「戦争も大規模でなく、ただの一度でよいのです。究竟一の近衛兵を動かせば、それは造作もありますまい。勝利によって民衆が熱狂すれば、アウグスティン英雄王の戴冠は誰もが望みとするところでしょう」
「うむ……しかし父上は近衛兵の参戦を認めるかな」
「仮に近衛兵を出せずとも、そのような世になれば兵は自ずと集まりましょう。士気に満ちた数多の強兵が、あなたさまの下に」
「なるほど、時間はかかるが、しかし面白そうな案だ」
「古来より、民衆の声を無視した王が刎頸の憂き目に遭った例は数知れませぬ。しかしその実、その声すらも操れるものなのです」
「いいだろう! 仔細は卿に任せる。民部省に通達を出せ」
「御意にございます」
「英雄王か、ふふ、良い二つ名ではないか……」
アウグスティンは酒精に澱んだ目で戴冠式の幻を見ながら、ワインを口に運んだ。レーヴェンアドレール吟遊詩人大学は図書省の管轄だが、エイデシュテットはあえて訂正せずにおいた。
そのアウグスティンの私室の窓外、階下の茂みから、足音も立てずひとつの人影が走り去った。
室内にはアウグスティンの粗相を世話するものはおらず、不運な銀食器は床に横たわったままだ。人払いをした責任を感じてか、同室していたエイデシュテット宰相は自ら侍従役を兼ね、新たな器に白ワインを注ぐ。
「毒殺は諦めよと申すか」
「左様です。万が一、毒の出処が露見でもしたら、ノア王子に口実を与えてしまうことになりますゆえ。ここは御身の大事を取られますよう」
「口実とは……何だ、ノアが俺を討つとでも言うのか」
「恐れ多いことながら……」
「この俺があんな若造にやられるものか。口先だけの理屈倒れめ」
兄弟とはいえアウグスティンとノアは歳が五つ離れており、精神面の陶冶はともかく年齢上は確かにノアが若輩ではある。
――このお方は操りやすいが、いささか悋気がすぎる。エイデシュテットは胸中で呆れていた。だが、まだまだ末永く、ノルドグレーンの操り人形として役立ってもらう必要があるのだ。
「そのような危険な橋を渡らずとも、このエイデシュテットめに一計がございます」
「何だ? 貴様がノアを道連れに葬ってでもくれるのか?」
エイデシュテットは内心で舌打ちした。
「……カッセル王国との戦争です」
「バカなことを。何をもってカッセルに攻め入るというのか。あれでも表向きは友好国だぞ」
「ごもっともな見識でございます」
「父上も、故なく戦端を開こうとはすまい」
「まずは地固めが必要です。もともと彼の国を良く思わぬ臣下や国民はおりますが、数の上では多数とは言えませぬ」
「そこを何とするか」
「国内の吟遊詩人に布告を出し、彼らの歌を変えるのです。カッセルへの敵意を煽り、神聖なるリードホルムを称える歌に」
「吟遊詩人を……?」
アウグスティンは訝しがりながらも目をぎらつかせた。興味は惹かれたようだ。
「いささか迂遠ながら、もっとも確実で無理のないやり方で、民衆の思考をすり替え、戦いを望む気風を生むのです。これにはノルドグレーンとの関係や、塩などにかけている重税から目をそらす副次的効果も望めます」
「ほう……?」
アウグスティンは不敵な笑みを見せ、ようやくワインを口に含んだ。銀の食器は毒素に反応して色が黒ずむが、そのゴブレットは灰白色の輝きを湛えたままだ。
「戦争も大規模でなく、ただの一度でよいのです。究竟一の近衛兵を動かせば、それは造作もありますまい。勝利によって民衆が熱狂すれば、アウグスティン英雄王の戴冠は誰もが望みとするところでしょう」
「うむ……しかし父上は近衛兵の参戦を認めるかな」
「仮に近衛兵を出せずとも、そのような世になれば兵は自ずと集まりましょう。士気に満ちた数多の強兵が、あなたさまの下に」
「なるほど、時間はかかるが、しかし面白そうな案だ」
「古来より、民衆の声を無視した王が刎頸の憂き目に遭った例は数知れませぬ。しかしその実、その声すらも操れるものなのです」
「いいだろう! 仔細は卿に任せる。民部省に通達を出せ」
「御意にございます」
「英雄王か、ふふ、良い二つ名ではないか……」
アウグスティンは酒精に澱んだ目で戴冠式の幻を見ながら、ワインを口に運んだ。レーヴェンアドレール吟遊詩人大学は図書省の管轄だが、エイデシュテットはあえて訂正せずにおいた。
そのアウグスティンの私室の窓外、階下の茂みから、足音も立てずひとつの人影が走り去った。
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