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ジュニエスの戦い
42 仮面 2
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「近衛兵の動きが鈍いようですね」
後頭部で結った黒髪を風になびかせながら、親衛隊長ロードストレームがベアトリスに報告する。平静を装っているが、その言葉に含まれたかすかな喜悦はベアトリスに伝わっていた。
「彼らも人間ということね。安心したわ」
ベアトリスは皮肉混じりに応える。
「さて、今日はどこまで進ませてもらえるのかしらね? ラインフェルトがあのままなら、いっそ投石機の組み立てを始めさせても良さそうなものだけれど」
「中央軍をこのまま押し続ければ、いずれラインフェルトの軍を挟撃もできますね」
「彼が湖北部を捨てて中央軍に合流するなら、北とこちらで包囲すれば良し。さあ、このままでは終幕が近いわよ、ウルフ・ラインフェルト……」
どことなく落ち着かない様子のノアのもとに、伝令兵に連れられ、一人の剣士がやってきた。
腰の左右には二本の短剣を下げ、軽装の上にコートを羽織り、絹のような髪に包まれた顔を仮面で覆った女剣士だった。
ノアと女剣士は見つめ合ったまま、動かない。
「……よう。また会えるとはな……」
「よく来てくれた……」
リースベット――口にしかけた女剣士の名を、ノアは心の中にだけ響かせた。
リースベットたちをリードホルム軍に迎え入れる――そんな大胆な着想を最初に口にしたのは、ノアではなく特別奇襲隊の隊長トマス・ブリクストだった。
ノルドグレーンの迎撃案を固める六長官会議のあと、ノアは信頼の置ける傭兵に声をかけたり、協力を得られそうなカッセルの有力者に対して書簡を送るなど、八方手を尽くして戦力増強を図っていた。
もはやリードホルムは、協力者の能力や信頼度を選り好みできる状況ではないが、かと言って数ばかり集めても、戦場での作戦行動や土壇場での裏切りなどに不安を残す。
私室の机に向かっていたノアは羽ペンを置くと、背筋を伸ばして椅子の向きを変えた。
「なかなか、厳しそうではあるな……」
「状況が状況ですからな……我らが負ければ、協力した者たちに対するノルドグレーンの覚えも悪くなりましょう」
「カッセルの有力者たちは腰を上げるのが遅いだろう。あとは、利にさとい傭兵たちが、目先の金でどこまで動いてくれるか……」
ノアのぼやきにブリクストは腕組みをして考え込み、しばし間を置いて、ためらいがちに口を開いた。
「……数はともかく、その力においては近衛兵とさえ比肩しうる者たちがいますが……」
「ブリクスト、それは……」
ノアがはっとして顔を上げる。いつになく煮え切らないブリクストの口ぶりに、彼が誰について言及しようとしているのか、ノアはすぐに察しがついた。
ノア自身も常に頭の片隅で、その存在は意識していた。だが彼女の名と戦いを結びつけることを、心の奥底で拒否し続けていた気がする。
「リースベットたちのことだな……」
「はい。アウグスティン様の一件がなければ、王国として正式に協力を要請してもよかったのでしょうが……」
一度その名を口に出すと、ノアの思考は一挙に進展した。
――これは、地獄に垂らされた蜘蛛の糸だ。一人の力で数千の兵力差が覆りはしないが、何かを変える契機にはなる。
それに何より、今のリースベットを救う術は、おそらくこれしかない。……救う、などと言ったら彼女は怒るだろうか。だが、私が実権を握ったのち、戦場におけるリースベットの武功を称揚すれば、すでに世を去った兄上に関する事跡を、消し去ることさえできるはずだ。
「ブリクスト、このことはくれぐれも他言しないでくれ」
「……それでは、まさか」
「私に考えがある」
後頭部で結った黒髪を風になびかせながら、親衛隊長ロードストレームがベアトリスに報告する。平静を装っているが、その言葉に含まれたかすかな喜悦はベアトリスに伝わっていた。
「彼らも人間ということね。安心したわ」
ベアトリスは皮肉混じりに応える。
「さて、今日はどこまで進ませてもらえるのかしらね? ラインフェルトがあのままなら、いっそ投石機の組み立てを始めさせても良さそうなものだけれど」
「中央軍をこのまま押し続ければ、いずれラインフェルトの軍を挟撃もできますね」
「彼が湖北部を捨てて中央軍に合流するなら、北とこちらで包囲すれば良し。さあ、このままでは終幕が近いわよ、ウルフ・ラインフェルト……」
どことなく落ち着かない様子のノアのもとに、伝令兵に連れられ、一人の剣士がやってきた。
腰の左右には二本の短剣を下げ、軽装の上にコートを羽織り、絹のような髪に包まれた顔を仮面で覆った女剣士だった。
ノアと女剣士は見つめ合ったまま、動かない。
「……よう。また会えるとはな……」
「よく来てくれた……」
リースベット――口にしかけた女剣士の名を、ノアは心の中にだけ響かせた。
リースベットたちをリードホルム軍に迎え入れる――そんな大胆な着想を最初に口にしたのは、ノアではなく特別奇襲隊の隊長トマス・ブリクストだった。
ノルドグレーンの迎撃案を固める六長官会議のあと、ノアは信頼の置ける傭兵に声をかけたり、協力を得られそうなカッセルの有力者に対して書簡を送るなど、八方手を尽くして戦力増強を図っていた。
もはやリードホルムは、協力者の能力や信頼度を選り好みできる状況ではないが、かと言って数ばかり集めても、戦場での作戦行動や土壇場での裏切りなどに不安を残す。
私室の机に向かっていたノアは羽ペンを置くと、背筋を伸ばして椅子の向きを変えた。
「なかなか、厳しそうではあるな……」
「状況が状況ですからな……我らが負ければ、協力した者たちに対するノルドグレーンの覚えも悪くなりましょう」
「カッセルの有力者たちは腰を上げるのが遅いだろう。あとは、利にさとい傭兵たちが、目先の金でどこまで動いてくれるか……」
ノアのぼやきにブリクストは腕組みをして考え込み、しばし間を置いて、ためらいがちに口を開いた。
「……数はともかく、その力においては近衛兵とさえ比肩しうる者たちがいますが……」
「ブリクスト、それは……」
ノアがはっとして顔を上げる。いつになく煮え切らないブリクストの口ぶりに、彼が誰について言及しようとしているのか、ノアはすぐに察しがついた。
ノア自身も常に頭の片隅で、その存在は意識していた。だが彼女の名と戦いを結びつけることを、心の奥底で拒否し続けていた気がする。
「リースベットたちのことだな……」
「はい。アウグスティン様の一件がなければ、王国として正式に協力を要請してもよかったのでしょうが……」
一度その名を口に出すと、ノアの思考は一挙に進展した。
――これは、地獄に垂らされた蜘蛛の糸だ。一人の力で数千の兵力差が覆りはしないが、何かを変える契機にはなる。
それに何より、今のリースベットを救う術は、おそらくこれしかない。……救う、などと言ったら彼女は怒るだろうか。だが、私が実権を握ったのち、戦場におけるリースベットの武功を称揚すれば、すでに世を去った兄上に関する事跡を、消し去ることさえできるはずだ。
「ブリクスト、このことはくれぐれも他言しないでくれ」
「……それでは、まさか」
「私に考えがある」
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