【完結】悪役令嬢のスローライフ

きゅちゃん

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春風と新芽

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銀風の谷を吹き抜ける春風は、今日も柔らかく温かだった。エレノアは館の裏手にある小さな庭に腰を下ろし、手帳に何かを書き留めていた。春の陽射しが彼女の金色の髪を輝かせ、周囲の新緑が鮮やかさを増していく。

「養蜂場の拡張...薬草園の整備...村の学校の修繕...」

エレノアは領地での事業計画を整理しながら、一つ一つにチェックを入れていく。前世での経営知識が、ここでは思いがけず役立っていた。

四半期ごとの売上目標とKPIの設定クソみたいな仕事よりも、ずっと意義のある計画ね)

「お嬢様、村長のオスカーさんがお見えになっています」

振り返ると、マリーが丁寧に頭を下げていた。

「ありがとう、案内して」

オスカー・シルバーウッドは、エレノアが領地に来てから何度か顔を合わせている村長だ。最初は冷ややかな態度だったが、エレノアの真摯な姿勢に徐々に心を開きつつあった。

「失礼します、レディ・エレノア」

オスカーは恭しく挨拶をした。日に焼けた顔に、少し緊張した表情が浮かんでいる。

「どうぞ座って。今日はどんなご用件かしら?」

「昨日、養蜂場の件でトーマス爺さんからお話を伺いました。是非とも村としてもお力添えをさせていただきたいと思いまして」

エレノアは少し驚いた表情を見せた。彼女の計画に対して、村からの積極的な協力の申し出は初めてだった。

「ありがとう。具体的にはどのようなことを?」

「村の北側の丘には、野生の花が多く咲く場所があります。昔から蜜源として良いと言われてきたのですが、活用されずにいました。そこを整備して、養蜂場の拡張地として使っていただけないかと」

オスカーの提案に、エレノアは目を輝かせた。

「それは素晴らしいわね。ぜひ今日にでも見せていただきたいわ」

「今からでも構いませんが...」オスカーは少し躊躇った。「実は村の子供たちが、今日はエレノア様の読み聞かせを楽しみにしていると聞きまして」

エレノアは思わず微笑んだ。「そうだったわね。では、読み聞かせの後にしましょう」

午前中、エレノアはオスカーと共に丘を視察し、その後、村の広場に向かった。すでに十人ほどの子供たちが待ち構えていた。

「エレノアお姉様!」

最初に駆け寄ってきたのは、金髪のおさげ髪の少女、リリアン・ブルームフィールドだった。両親を疫病で亡くし、村人たちに育てられている孤児だ。

「リリアン、今日も元気ね」エレノアは優しく頭を撫でた。

「はい!今日はどんなお話ですか?」

「今日は...」エレノアは持ってきた絵本を開きながら言った。「働き者の蜂のお話よ」

子供たちは輪になって座り、エレノアの言葉に耳を傾けた。彼女は前世で読んだ『働き蜂の冒険』という物語を、この世界向けにアレンジしていた。小さな蜂が、仲間と協力して素晴らしい蜂蜜を作り上げる物語だ。

読み聞かせの途中、エレノアはふと気づいた。リリアンの横で、普段は読み聞かせに来ない年長の少年が真剣に聞き入っている。

話が終わると、子供たちから拍手が起きた。

「蜂さんって、すごいんですね!」リリアンが目を輝かせて言った。

「ええ、一匹だけではできないことも、みんなで力を合わせればできるのよ」

リリアンの隣の少年が、恥ずかしそうに手を挙げた。「僕...養蜂場を見てみたいです」

その言葉に、他の子供たちも次々と「見たい!」と声を上げた。エレノアはちらりとオスカーを見た。村長は小さく頷き、子供たちの熱意に負けたような表情を浮かべた。

「よろしいでしょうか?機会があれば、子供たちを養蜂場に招待して、トーマス爺さんから蜂について教えてもらうのも良いかと」

「素晴らしいアイデアね」エレノアは満足げに答えた。「では来週、養蜂場で特別授業を開きましょう」

子供たちから歓声が上がる。その笑顔を見ながら、エレノアは帝都での生活を思い出していた。アカデミーでの冷たい視線、計算尽くの社交、常に誰かを出し抜こうとする緊張感。

(こんな素直な笑顔は、前世はもちろん、帝都でも見られなかったわね...)

読み聞かせの後、エレノアはオスカーと共に北の丘を訪れた。春の陽光に照らされた丘は、想像以上に美しかった。野の花が風に揺れ、その香りが甘く漂っている。

「ここは...」

「村では『花の丘』と呼んでいます。昔から特別な場所とされてきました」オスカーが説明した。「伝説では、初代領主の奥方が愛した場所だとか」

エレノアは丘の上から谷全体を見渡した。銀風の谷の美しい景観が一望できる。

「ここを養蜂場の拡張地にするには、少し手を入れる必要があるわね」

「村の若者たちが手伝いますよ。実は...」オスカーは少し言いよどんだ後、続けた。「養蜂の話を聞いて、興味を持った若者が何人かいるんです。学びたいと」

エレノアは驚いた。「本当?」

「はい。トーマス爺さん一人では大変でしょうから、弟子入りしたいと言っています」

エレノアは思わず笑みを浮かべた。自分の始めた事業が、村の人々の新たな可能性を広げるかもしれないという喜びを感じた。

「素晴らしいわ。ぜひトーマスに話してみるわ」

丘を下りる途中、エレノアは足を止めた。ふと気づくと、丘の斜面に見慣れない花が咲いていた。小さな淡紫色の花だ。

「これは...」

オスカーが説明した。「『銀の涙』という花です。この谷にしか咲かないと言われています。薬草としての価値もあるようですが、詳しいことは村の薬草師のエマが」

エレノアは一輪の花を手に取り、じっと見つめた。

「美しいわね...」

帰り道、オスカーは村の若者たちの話を続けた。帝都からやってきた「お嬢様」が本気で領地の発展に取り組む姿に、若者たちが刺激を受けているという。

「若い衆は、新しいものに飢えていたんです。あてもなくこの谷を出て行くか、このまま親の仕事を継ぐかの二択しかないと思っていましたから」

エレノアは考え込むように言った。「この谷には、まだ見ぬ可能性がたくさんあるのね」

館に戻ったエレノアを、セバスチャンが出迎えた。

「お嬢様、お帰りなさいませ。お客様がお見えになっています」

「客?」

「はい。お嬢様の学友だという方です」

エレノアは驚いた。帝都から誰か来たのだろうか。居間に案内されると、そこには見知った顔があった。

アカデミー時代の友人であるソフィ・ヴィンターと、その兄のレオナルド・ヴィンター。ソフィとは秘密の読書会で親しくなった数少ない友人の一人だった。

「エレノア!久しぶり!」

ソフィが明るく手を振った。エレノアは思わず笑顔になった。

「ソフィ、レオナルド。こんな辺境までよく来てくれたわね」

「帝都はつまらないわ。あなたがいなくなってから特に」ソフィが言った。「それに、あなたの領地での生活がどんなものか、とても気になっていたの」

「数日泊まっていく予定です」レオナルドが付け加えた。「もちろん、お邪魔でなければですが」

「ええ、もちろん歓迎するわ」

エレノアは帝都の友人を迎え入れながら、少し複雑な思いを抱いていた。帝都との繋がりは完全に断ち切れるものではないのだろう。しかし、かつての友人が彼女の新しい生活を見に来てくれたことは、素直に嬉しかった。

その夜、エレノアは日記を開いた。

「今日は春風が新しい出会いをもたらした日...」

春の香りが漂う部屋で、エレノアはペンを走らせた。北の丘でのこと、村の子供たちのこと、そして突然訪れた友人たちのこと。彼女の新しい生活は、少しずつ、しかし確実に根を張り始めていた。

窓の外では、銀色に輝く月が谷を優しく照らしている。明日は、また新しい一日が始まる。エレノアは静かに微笑んだ。
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