【完結】悪役令嬢のスローライフ

きゅちゃん

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夏の来客

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満月の夜を待つ三日間、エレノアは日常の業務をこなしながらも、常に湖の秘密に思いを馳せていた。別館の改修工事は順調に進み、蜂蜜の王宮への出荷準備も整いつつあった。

朝食を取っていたエレノアのもとに、マリーが急ぎ足でやってきた。

「お嬢様、帝都からの手紙です。王太子の使いの者が届けに来ました」

銀のトレイに載せられた封筒には、王太子アレクサンダー・ルーデンベルクの紋章が押されていた。エレノアは静かに封を切った。

そこには、マルセル料理長の訪問のお礼と、改めて婚礼への招待状が同封されていた。しかし、その最後に書かれた一文がエレノアの目を引いた。

「婚礼の前日、私的な会談の場を設けたいと思います。あなたの領地での取り組みについてお聞かせいただければ幸いです」

「王太子との私的な会談...」エレノアは眉をひそめた。かつての婚約候補者同士の会談に、どんな意味があるというのだろう。

考えを巡らせていると、セバスチャンが書斎に入ってきた。

「お嬢様、村長のオスカーさんがお見えです。何やら急ぎの様子です」

居間に案内されたオスカーは、いつもの落ち着きを失っていた。

「レディ・エレノア、重大な知らせがあります。シュヴァルツ伯爵が領地視察と称して、明日、銀風の谷を訪れるそうです」

エレノアの表情が硬くなった。ヴィクター・シュヴァルツ伯爵——銀風の谷に隣接する領地の領主で、かねてからグランツェント家と確執のある人物だ。

「突然の訪問…何か企んでいるのかしら」

「村人たちの間では不安が広がっています。以前、シュヴァルツ伯爵は私たちの水源権を主張し、紛争になりかけたこともありました」

エレノアは冷静に対応を考えた。「わかりました。丁重にもてなしましょう。敵意は見せず、しかし油断もしません」

オスカーが帰った後、エレノアはセバスチャンを呼んだ。

「シュヴァルツ伯爵家とグランツェント家の確執について、詳しく教えていただけますか?」

セバスチャンは長年の執事らしく、過去の経緯を詳細に説明した。二つの家の対立は三代前から続いており、特に水源と鉱山の利権をめぐって争いが絶えなかったという。

「さらに言えば」セバスチャンは少し言いよどんだ。「初代領主の時代、シュヴァルツ家は『銀の鈴』の本来の所有者だという主張もありました」

「銀の鈴が?」エレノアは驚いた。

「はい。しかし証拠不十分として、その主張は退けられました」

翌日、正午過ぎ、シュヴァルツ伯爵の一行が館に到着した。エレノアは正装して前庭で出迎えた。

馬車から降りたのは、四十代ほどの男性だった。黒髪に早くも白髪が交じり、鋭い目つきが印象的だ。

「ようこそ、シュヴァルツ伯爵。銀風の谷へお越しいただき光栄です」エレノアは完璧な礼儀で挨拶した。

「レディ・エレノア」伯爵は浅く頭を下げた。「評判通りの美しい方ですね。こうして会えることを楽しみにしていました」

表面上は礼儀正しいやり取りだが、伯爵の目には計算高い光が宿っている。エレノアは彼を館に案内し、昼食を共にした。

「銀風の谷は想像以上に美しい場所ですね」伯爵は窓の外を見ながら言った。「特に、蒼穹の湖の景観は素晴らしい」

「ありがとうございます」エレノアは微笑んだ。「伯爵は湖をご覧になりたいですか?」

「ぜひ。実は湖畔の調査をしている帝国考古学協会の活動も気になっているのです」

(やはり何か目的があるのね)

食事の後、エレノアは伯爵を湖へと案内した。ローレンス博士たちは伯爵の訪問に驚いた様子だったが、丁寧に調査内容を説明した。

「『星の井戸』の研究は面白そうですね」伯爵は興味深そうに言った。「私の領地にも古代の遺構があるのですよ」

帰り道、伯爵は突然立ち止まった。

「実は、レディ・エレノア。今回の訪問には別の目的もあります」

エレノアは内心の警戒を悟られないよう、穏やかに尋ねた。「それは?」

「私は銀風の谷と私の領地、シュヴァルツハイムの協力関係を強化したいと考えています。具体的には、蒼穹の湖の共同管理と、あなたの養蜂事業の私の領地への拡大です」

エレノアは一瞬言葉に詰まった。共同管理とは名ばかりの支配権の主張ではないか。そして養蜂事業の「拡大」も、技術の収奪を意味しているのは明らかだ。

「興味深いご提案ですね」彼女は冷静に答えた。「詳細を書面でいただければ、検討させていただきます」

伯爵は薄く笑みを浮かべた。「もちろん。ところで、」彼は何気ない口調で尋ねた。「あなたは『銀の鈴』を持っていると聞きました」

エレノアの心臓が跳ねた。しかし表情には出さず、「噂話に過ぎません」と答えた。

「そうですか...」伯爵は残念そうに言った。「その鈴はシュヴァルツ家の先祖が作らせたものだという言い伝えがあるのです」

館に戻ると、伯爵は明日の朝には帰ると告げ、客室に案内された。エレノアは書斎で一人、今日の出来事を整理していた。

そこへマリーが報告にやってきた。「お嬢様、シュヴァルツ伯爵の従者が村で『銀の鈴』について尋ね回っているとの知らせがありました」

エレノアは決断した。「マリー、今夜の満月の間、私は湖に行きます。伯爵が動き出す前に、湖の秘密を確かめるわ」

日が落ち、満月が昇り始めた頃、エレノアは誰にも気づかれないよう館を抜け出し、湖へと向かった。月明かりに照らされた湖面は、まるで鏡のように美しく輝いていた。

湖畔に立つと、アイリスの姿があった。まるで彼女の訪れを待っていたかのようだ。

「来ると思っていました」アイリスは静かに言った。

「湖の秘密を教えてくれるのね?」

アイリスは頷き、湖の中央を指さした。「銀の鈴を鳴らしてください。そして、あなたの血を一滴、湖に捧げるのです」

エレノアは懐から銀の鈴を取り出した。月の光を受けて、鈴は強く青く輝いている。彼女は小さなナイフで指先を切り、一滴の血を湖面に落とした。そして鈴を鳴らした。

澄んだ音色が満月の夜に響き渡る。すると突然、湖面が大きく波打ち、中央から光の柱が立ち上がった。湖底から何かが昇ってくる——それは石でできた小さな祭壇だった。

「行きなさい」アイリスが促した。

エレノアはボートに乗り、湖中の祭壇へと向かった。祭壇には窪みがあり、その形は銀の鈴にぴったりと合いそうだった。彼女は鈴を置いてみる。

するとたちまち、祭壇全体が青く輝き、湖面に古代文字が浮かび上がった。

「谷の守護者の契約、血によって新たに結ばれん」アイリスが岸から声を上げた。「あなたは真の領主として、守護者に認められたのです」

光が収まると、銀の鈴は以前より鮮やかな青色に変わっていた。エレノアがそれを手に取ると、不思議な温かさが全身に広がった。

岸に戻ったエレノアに、アイリスは静かに言った。「シュヴァルツ家は長年、この力を狙ってきました。しかし守護者はグランツェント家、特にあなたを選んだのです」

「私が...選ばれた?」

「あなたの中に宿る二つの魂の記憶。それが守護者の目には特別な価値があるのです」

エレノアは驚いた。アイリスは彼女の前世の記憶についても知っているのだ。

「これからシュヴァルツ伯爵との対立は避けられないでしょう」アイリスは続けた。「しかし、あなたには守護者の加護があります」

満月の光の中、エレノアは決意を固めた。銀風の谷を守るため、彼女は立ち上がる。王太子の婚礼も、伯爵との対立も、すべて乗り越えていくと。

帰り道、エレノアの足取りは軽やかだった。明日はどんな難題が待ち受けていようとも、彼女は今、確かな自信を持っていた。
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