異人こそは寒夜に踊る

進常椀富

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1 次元接続体現る

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 1 次元接続体現る

 凛可(りんか)の目の前で。
「びろーん」
 男はそう言って、自分の顔を両手で左右に引き伸ばした。その幅は六十センチ以上ある。
 咲河凛可(さきがわ・りんか)は言葉を失った。
「……」
 モチのように広がった人間の顔を凝視する。まだ事態を把握しきれていない。
 冬の夜十時、人気のない住宅街の路上。緑のセーラー服の上にダッフルコートを着込んだ少女が棒立ち。彼女の目の前では、スタジャン、ジーンズ姿の若い男がおどけてみせている。
 そこまでなら、まだありうる青春の一風景だったかもしれないが。
 寒さに引き締まった空気と、安穏とした静けさのなかで、事件は進行しつつあった。
 凛可の脳は最初の衝撃をしのぎ、異常の本質を取り込みはじめていた。
 男の顔は、頬が柔らかいなどというレベルじゃない。顔全体が骨格からして伸びている。人間にはありえないほど切れ長な目の中で、溶けたような瞳が自分を見ていた。
 男の薄く広がった前歯のあいだから赤い舌が覗き、白い息のなかでのたうつ。
「れろれろれろれろ」
 実体化した悪夢!
 凛可の頭のなかで恐怖の火花が弾け、あちこち跳ね返った末に、口から飛びだすところまできた。凛可は悲鳴をあげようとした。
「い、いいいいいっ……」
 しかし臨界寸前で力尽きた。上半身だけ叫ぼうとした姿勢のまま、足から力が抜ける。耐え切れず、凛可はぺたんと尻餅をついた。声も出せずにしゃくりあげることしかできない。
 男は満足そうな吐息をついた。
「ぐふふ……」
 異形の微笑みで凛可を見下ろしながら、顔から両手を離す。ぱちゅん、と音がして顔が人間に戻った。だからといって安心する間もない。男はかぶさるように屈みこんできた。空いた両手を凛可の腰に回して、軽々と肩に担ぎ上げてしまう。
 凛可は混乱し、紡ぐべき言葉も体をなさない。
「え、あ、い?」
 男は凛可を担いだまま向きを変え、暢気な歌を小声で歌いながら歩きだした。
「初ーの獲物は女子高生、軽いぞー、かわいいー」
 歌の調子とは裏腹に、歌詞はぞっとするような内容を示唆している。
 にわかに周囲の闇が濃くなった。気づけば木々と潅木に囲まれている。凛可の身体は公園のなかに、それもひときわ暗い一画に運ばれつつあった。
 凛可は、この得体の知れない若い男の目的を悟った。自分はなんらかの、ありがたくないことをされる!
 状況を理解すると、細い身体が小刻みに震え始めた。のどが詰まって声が出せない。ほんの数メートル先の路上は街灯に照らされていた。せめてその光の中に逃げ込みたいと願ったが、急に強い風が吹きつけ、凛可の視界は自分の髪の毛で閉ざされてしまった。希望がまったく断ち切られたような気がして、嗚咽とともに涙が溢れる。
 突風は一瞬でやんだ。
 視覚が戻ったとき、凛可の目の前に人影があった。どこからきたのか、一人の男が立っていた。
 人影は、水球選手がつけるようなキャップをつけ、水中メガネで目を隠し、黒いマントを身体に巻きつけていた。顔と足元が闇に白く映える。つまり裸足だった。
 その奇異な人影は、ニッと歯を見せた。
 凛可に向かってよく通る声で言う。
「安心したまえ、マドモアゼル」
 凛可の移動が止まった。彼女を担いでいる男が、不意を突かれた様子で凍りついたのだった。男は舌打ちすると、凛可を無造作に肩から落とした。
「きゃっ」
 凛可はなんとか四つんばいで着地できた。そのままの姿勢で二人の男から後ずさる。だが、まだ絶望から力が回復していない。逃げることもままならなくて、その場に固まった。
 凛可を暗がりに連れ込もうとしたスタジャンの男が、ゆっくり体を巡らしながら言った。
「この寒空に、人の世話なんか焼いてる場合か?」
 その声には凶暴な苛立ちが宿っていた。
 対する水球キャップの男は、落ちついた様子で事態を待ち受けている。
 凛可にとって敵と味方らしい、二人の男が、二メートルの間を開けて対峙した。
 スタジャンの男は敵の姿を見て、苦々しげに言った。
「なんてカッコしてやがる? おまえ、カワイソウな奴か? 腕に覚えでもあるつもりか、おまえみたいなのが?」
 水球キャップの男は鷹揚に返答した。
「オレがおまえを救ってやる。人として」
「てめぇなんざとは格が違うんだよッ!」
 男が吠えて右腕を振るった。腕がゴムのように伸びて拳が飛ぶ。二メートルの距離を。
 肌と肌が当たって、乾いた音が響いた。
 水球キャップの男は、相手の殴打を左手で払いのけていた。鋭い反射神経だった。マントから現れた手には黒革の手袋をはめているが、他に着衣は見えなかった。動きは素早く、この異常な状況にも動じていない。かえって襲った側のゴム男のほうが、動きを止めてしまっていた。相手も只者ではないと気づいたのかもしれない。
 黒マントの男はうつむき加減で、静かに言った。
「そういうことか。なんとなくそんな予感はしていた。この世界に迎え入れられてから、直感の導きが侮れない」
 そう言うと、マントを勢いよく後ろに払いのけ、向かいの相手に指を突きつけて力強い口調で続けた。
「ならば問おう! キサマはケイオス・ウェーブをどこまで知っているのかッ? 答えろ、次元接続体のニューカマーよ!」
「……」
 スタジャンのゴム男は言葉を失っていた。
「……」
 凛可も再び絶句した。
 水球キャップの男、マントの下はほぼ全裸だった。自然と目が行ってしまう場所には、海パンのようなものがあったので安心したものの、これではまるでマントと手袋をつけただけの水球選手だった。靴すらはいてない。うっすらと筋肉質ではあるものの、全体的に細身で、決して強そうには見えなかった。
 真冬に。人々が日常生活を送る住宅街の一画で。裸の水球選手と、全身ゴムでできたような強姦未遂犯と。
 凛可の日常が音速で遠ざかっていく。
 日常が遠くなっていくのに合わせて気も遠くなりかけたとき、鋭い光が凛可の意識を引きつけた。闇に輝く凶刃を目の当たりにして、凛可は反射的に叫ぶ。
「やめて!」
 スタジャンの男が、小ぶりなナイフを取りだし、両手に握っていた。男は挑むように相手を睨みつける。
「てめえの言ってることはわけがわからねえ! とっとと失せろ! 怪我する前になッ!」
 対する水球選手は、水中メガネの位置を調整しながら、冷静な声で言った。
「そんなものまで用意しているとはな。新たな力に踊らされているだけの憐れな男だと、同情もあったものだが。そこまでいくと、完全に異常者だ」
「てめえに言われたくねえよ!」
 スタジャンを着たゴム男は、ナイフを持った拳を鞭のように振るった。水球選手はそれを素手で簡単に弾く。
 ゴム男はいきりたって喚いた。
「やってやるッ!」
 ゴム男の猛攻が始まった。
 両の拳を飛ばして連続的な打撃を加える。刃の付いた鞭を縦横に振るうように襲いかかるようなものだった。
 水球選手は焦ることもなく、機械的に反応した。矢継ぎ早に迫るナイフを沈着に、確実に、そして踊るように弾き続ける。乾いた音が響くなかに、ときおり金属音が混じったが、水球選手がダメージを受けたような様子はない。
 ゴム男は両腕を振るいながら、水球選手の後ろに回り込もうと移動する。だが、水球選手のほうもそれに合わせて足を捌く。その動きは完全に凛可を守る形で、ゴム男は半円の弧を行ったりきたりするばかりになっていた。
 完全に水球選手が場を支配している。
 見事な体捌きに見惚れたものの、凛可は今なら逃げ出せることに気づいた。
 しかし、正義の味方は自分の味方で、さらに優勢ともなれば、好奇心の欲求を抑えることができなかった。この戦いを見守っていたい。
 凛可が目をみはる前で、ゴム男の動きは徐々に鈍くなり、とうとう攻撃の手が止まった。肩を激しく上下させ、荒い息を吐きだして、顔の前を白くさせている。
 水球選手も動きを止めた。
「ふぅー……」
 こちらは悠然と吐息をつき、ゆらりと両手を前に差しだす。握った拳を開くと、ズタズタに切り裂かれた手袋の破片がパラパラ落ちた。驚いたことに、素肌に怪我はない。
 空気が緊密になったような気配の直後、水球選手の態度が豹変した。
 凛可も驚くような怒声が響く。
「手袋だってタダじゃねんだぞ、コノヤローッ!」
 同時に、水球選手は目にも止まらぬ速さで、一気に間合いを詰めた。
「ヒッ!」
 ゴム男は怯え、ナイフを構えようとした。その両手は、水球選手の左右連打で弾かれる。
 ゴム男の身体は無防備に開いた。
 水球選手の腰がわずかに沈む。
「うおおおおおおッ!」
 猛烈な左右のラッシュが始まった。拳など見えないスピードで連打が打ち込まれる。潮騒のような連続した重低音が鈍く響いた。数え切れない無数の拳が、ゴム男の身体をへこませる。
 ヒーローの猛反撃。半ば幻想的でさえある光景に、凛可は心奪われた。どこからどこまでが現実かわからなくなりかけている。
 水球選手は猛攻を二秒ほどでピタリと止めた。それから素早く相手の背後に回り込む。
 ゴム男は身を折って吐いた。
「ぐえぇ……」
 ゴムのような身体でも、ノーダメージでは済まなかった。
 その背後には水球選手が立っている。無力に陥ったゴム男の両腕をとって後ろに回し、もぞもぞと動いていた。
 ゴム男が吐しゃ物の垂れる口をひきつらせて喚く。
「い、いてぇっ、何してやがる! やめろ!」
「こんなのは初めてか? 力を抜けよ。どんどん伸びるぜ、おまえのココは……」
 愉快そうに歯を見せる水球選手の顔に目をやり、凛可はハッとした。女子の持ってたマンガで、こういうやりとりを見た覚えがある。
 もしかしたらゴム男は、凛可にしようとした不届きな行為を、逆に水球選手に行われてしまうのではないか? 凛可は目を輝かせて見守ったが、少々期待はずれに終わった。
 水球選手がゴム男の頭を小突きながら言った。
「いっちょあがり」
 ゴム男が後ろを向いて、水球選手に抗議する。
「クソが! クソが! こんな真似しやがって!」
 凛可は、事の次第を知って息を呑んだ。
 ゴム男の両腕は、背後でがんじがらめに結び合わされていた。通常の人間ならありえない。でもゴム男の動きを封じるには最良かもしれなかった。水球選手は意外と頭が良さそうだった。
「クソが!」
 ゴム男が悪あがきで右の回し蹴りを放つ。
 その足首を易々と片手で捉えて、水球選手は冷淡に言った。
「威勢がいいな。おまえの可能性を見極めてやろう」
 水球選手は、ゴム男の片足を持ったままパンチを繰り出して顔面を打ち、同時に足払いをしかけた。重い音をたててゴム男が倒れる。
 そこからの動きは早かった。
 水球選手はゴム男の背中を膝で押さえ、首を後ろに曲げ、足首を伸ばしてひっかけ、さらにもう一本の足を前に回して、身体を折りたたみ……。
 その常軌を逸した光景は、公園の暗さも手伝って、凛可にとっては完全に認識できなかった。異次元の荷造りショーといった有様だった。
「くっくっくっくっ……」
 水球選手の楽しげな笑いと、ぐほっ、ぐほっというゴム男の言葉にならない喘ぎが続く。
 束の間ののち、いびつな球体が出来あがった。もとゴム男。直径一メートルに満たない。
 一見すると、スタジャンとデニム生地の塊のように見える。
 だが、変なところから手首やスニーカーが飛び出してピクピク震えているので、かなりグロテスクな代物だった。
 水球選手は腰に手を当て、気取った口調で言い放った。
「見事なもんだろ? まさしく無害!」
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