異人こそは寒夜に踊る

進常椀富

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「くしゅん!」
 凛可は我慢できずにくしゃみをした。喝采したいところだったが、地面に座ったままだった身体が冷えきってしまっている。
 水球選手が凛可のほうを向いた。
 裸足でぺたぺたと歩み寄ってきて、手を差し出してくる。
「そんなに冷たい地べたが好きか? 寒くないのか、今は冬だぞ?」
「は、裸の人に言われたくない……」
 そう言いつつも、凛可は差し出された手をつかんで立ち上がった。傷の一つもない、柔らかく温かい手だった。その普遍的なぬくもりが、安心感を呼び起こす。真冬に裸でパンツにマント、水球スタイルで顔を隠した、この変質者っぽい人物に対して。
 凛可は緑色のスカートをはたきながら、平静を装って言った。
「お礼はいっとくべきよね? ありがとう」
「素直な感謝も言えない大人になるなよ、お嬢さん」
 隣に立ってみると、水球選手は凛可より頭一つも背が高かった。百八十センチ近くある。そして、彼の鼻と口のバランスには、なんとなく見覚えがあるような気がした。でも思い出せない。
 記憶を探っていると、足元でうめき声がした。ゴム男の成れの果てである肉ボールが、震えている。
 凛可は我にかえり、その物体を指差して尋ねた。
「何なの、アレって?」
 水球選手は平然と答えた。
「もちろん、人間だ」
「フツーじゃないじゃないっ!」
「確かに、普通じゃない……」
 水球選手はあごに手を当てて続けた。
「次元接続体さ。その風上にもおけない奴だけどな。とりあえず、そう呼ばれている」
「次元接続体って?」
「知りたいか? ちょっと長くなるぞ」
「う、うぅん、別にいいけど……?」
「じゃ、話しておこう、なにかの縁だ。あー、次元接続体とは……。ケイオスウェーブに曝されて多次元接続を引き起こした、もともと普通の人間だ。細かいことはしらないが、多次元接続は、物理法則をも無視した特殊な能力を個人に与える。例えば、ゴムのような身体とか」
 そこで区切ると、水球選手は凛可の顔を見下ろして続けた。
「例えば、銃弾よりも速く動ける身体とか。それはつまり、そのスピードで動くための筋力もあるということになるし、速度からくる衝撃に耐える強さも持っているということになる。刃物なんか通さない皮膚とかね」
 凛可は上目遣いで、水中メガネの奥を覗いてみた。
「あなたも、そうなの?」
 水球選手は軽く頷いた。
「ああ、見ただろ? 普通じゃない。あとは……、ケイオスウェーブは不可視、不可知。次元接続体が存在することを以って、それが実在することの証左とする……だったかな? それが事実だとして、どう思う?」
「どうって、そんな話聞いたこともないし、誰も知らないみたいだし、どこまで本気にしていいのか……?」
 凛可の戸惑いに、水球選手は理解を示したようだった。諭すように続ける。
「オレだってついこのあいだまで知らなかった。こんなことは、みんな師匠が教えてくれたんだ。まだ世間一般には認知されていないとみていいだろう。だけど、公的機関は急速にその対応に追われている。ケイオスウェーブ現象が発生してから、まだ数年らしい。ま、いまの世の中、自分も知らないあいだに、自分が超人になってたりすることもあるようだ」
 水球選手は凛可から離れて、うめく肉ボールの上に屈みこんだ。肉ボールをひょいと軽く持ちあげてしまう。大人一人分の重量を片手で掲げながら、凛可に向かって囁く。
「キミならなにをする? ある日突然、超人になったとしたら……」
 凛可の目に映ったのは、私欲に走る者と、利他行動を優先する者とを対比した画だった。その迫力に気圧されて、凛可は混乱した。直接的な返事をすることができずに、なんとか言葉をつなぐ。
「突然人が超人になっちゃって、その人がいい人か、悪い人か関係ないなんて、そんな怖いことが起こってるの……?」
「そんなに怖がる必要もないさ。次元接続体は基本的に稀な存在だ。キミは奇跡的な悪夢に出くわした。レア度マックスの不運に見舞われた、それだけのこと。いま話したようなことは、明日にも忘れてしまって構わない。交通事故にでも気をつけたほうが現実的だ」
 水球選手はうめく肉ボールを、右手から左手に移した。そのとき、何か白いものが落ちたのを、凛可は目ざとく発見した。
「何か落ちた」
 凛可は水球選手の足元までいき、落下物を指でつまみあげた。一センチ角の小さい紙片が何枚かくっついている。水球選手の顔の前に差し出す。
「ほら、コレ」
「ただのゴミだろ?」
「うぅ~ん……?」
 凛可は納得できず、角度を変えて検分した。ゴミにしては整いすぎている。見ていると、おぼろげだった記憶の糸がつながっていく。以前ネットで似たようなものを目にしたことがある。正体を察した動揺で、指先が震えた。
「……これ、もしかしたら……」
「なんだ、ちょっとキレイなゴミか?」
「ちがうよっ! これ、麻薬かもしれないっ!」
「なにぃ! こんなものがかっ!」
 水球選手が凛可の指から紙片を取って眺める。肉ボールのうめき声が大きくなった。
 水球選手は固い声で言った。
「初めて見たが、調べる必要があるだろう。麻薬のことなんてほとんど知らないからな。キミに持たせておくわけにはいかない。預かっておく」
 水球選手は、自分のパンツの中に紙片を押し込んだ。左手に持った肉ボールへ向けて顔をしかめる。
「それにしてもコイツ。次元接続体でありながら、麻薬中毒か! この!」 
 言うと同時に肉ボールを地面に叩きつけた。反動で帰ってきたところをさらに叩きつけ、動きの大きいドリブルを始める。うめき声が一層高くなったが、水球選手は容赦しない。
「キミを襲ったのも、薬物の影響による可能性が高いな」
 凛可は少し考えて、当然の疑問を口にしてみた。
「その人、いったいどうするの?」
 水球選手が、ドリブルを続けながら答える。
「ん? ああ、公になってないが、この鳴田警察署には『次元接続体対策班』がある。さっき公的機関は対応を急いでいるって言ったろ。ある程度の用意はあるんだ。つまり警察署に突っ込んでくれば、向こうでうまくやってくれる。次元接続体の特殊能力を無効にする機器があるようなんだ。貴重なものらしいが」
 凛可の返事を待たずに、水球選手はマントを翻した。背中越しに凛可に言う。
「長話してしまったな。気をつけて帰りたまえ、もう遅い時間だ。今日のことは早く忘れたほうがいい」
 凛可は名残惜しかった。できればもっと話を聞きたかったし、彼の素性も知りたくなっていた。胸が高鳴り、弾む息ですがるように聞いてみた。
「また、会える……?」
 水球選手は背中を見せたまま、顔だけ凛可に向けて首を振った。
「いいや」
 短く告げて走り出そうとするところへ、凛可はさらに訴えた。
「名前は? 名前くらい!」
 水球選手はドリブルを続けながら、もごもごと何か言う。凛可には聞き取れない。
「はっきり言って!」
 水球選手はニッと歯を見せると、今度はよく通る声で言った。
「次元接続体・一(イチ)ッ!」
「え?」
「さらばだ、マドモアゼル! ハハハハハッ!」
 水球選手改め次元接続体・一は、疾風のように走り去った。高速で肉ボールを突きながら、高笑いを響かせて。靴もはいてないほぼ全裸を寒気にさらしながら、黒いマントを翼のように広げて。
 夜更けの静まり返った公園に、凛可は一人ぽつねんと立ち尽くした。
 自らを次元接続体と呼ぶ、怪人の走り去った方角を見つめて呟く。
「……イチ……」
 眉間に深い皺が刻まれているのが、自分でも分かった。
 少しは素敵に見えたような気もしたが、寒さのなかで冷静になってみると、やっぱり納得いかない。
 あの格好はやっぱり変態だ。今日のことは早く忘れたほうがいい、と彼は言った。変質者でも性倒錯者でも、正しいことを言わないわけでもないだろう。凛可は喜んで彼の忠告に従おうと考えた。
「帰ろ、帰ろ」
 凛可は踵を返すと、足早に公園を通り抜け、家路を急いだ。
 先ほどまでのことは、確かにさっぱりと忘れてしまいたい。だが、なんとも腹立たしかった。あんな格好をした男、どんな性癖を持ってるか知れたものじゃない。そんな男に一瞬でも心を開き、なおかつ、憧れを抱くところだった自分が許せなかった。イライラが募る。
 凛可の早歩きは、いつのまにか駆け足に変わっていた。走りながら叫ぶ。
「変態のくせにーっ!」
 変態のくせに、もう会うことはないとか言っていたのも、気に食わない。もう、自分にとって何が一番いらだたしいのかもわからなかった。
 疾走したおかげで、あっという間に家に着いた。
「ハァハァ……」
 玄関の灯りのなかで、身を折って息を整える。そしていると、頭の方向から声をかけられた。
「遅かったな、凛可。父さんも一汗流してきたところだ」
 凛可の父、咲河健太郎(さきがわ・けんたろう)だった。中肉中背で髪はふさふさしているが、白髪も増えてきている。グレーのスウェット上下に、スニーカーという姿で、軽くジョギングしてきたらしかった。健太郎は鳴田市役所の職員で、仕事で夜遅くなることはほとんどない。暇な夜はけっこうな時間を費やして、外で身体を動かしていた。
 健太郎は凛可の横を通り抜けて、玄関の鍵を開けた。
 凛可のほうを振り返って言う。
「今夜は寒いが、穏やかな夜だな。こんな夜には悪事も実を結ばないだろう」
 その言葉を聞いて、凛可はバネ仕掛けのように身を起こした。父の背中をにらみつける。
 今夜は危機一髪だった。自分の身にどのような悪事が行われかけたのか、この暢気な父親に教えてやりたい。ただし、一つを話せば、すべてを話さざるを得なくなる。どのような人間に襲われ、どれだけ現実離れした行為が行われ、とんでもない変人に救われたかということを。
 真実を伝えるためには、かなり骨が折れそうだった。話すのはやめておこう。凛可は唇を尖らせて、不機嫌に一言いうだけに留めた。
「そうかもね……」
 父の後に続いて、玄関のドアをくぐる。やっと家に戻ってこられた。短い時間に、驚異が多すぎた帰路だった。
 それから一時間後、凛可は入浴を済ませて自分の部屋に戻っていた。
 電話でネットに接続する。
「えっと……」
 凛可は眉根を寄せて、記憶をたぐった。
 次元接続体。
 あの聞きなれない言葉を思い出し、ネットで検索をかけてみる。出てきたのは、数学、幾何学、建築素材について。
 別に知りたいことじゃなかった。
 鳴田国際高校の二年生である凛可には理解できなかったし、もとより今夜遭遇した連中とは関係なさそうだった。次元接続体という言葉そのものはヒットせず、少なくともネット上には存在していない。
 モニターには、どうでもいいことばかりが羅列されるだけだった。急激に眠気が襲ってくる。今日はこれまでだ。
「寝よっと」
 凛可は電話を充電器につなぐと、速やかな眠りに身を任せた。
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