異人こそは寒夜に踊る

進常椀富

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番外編2

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 玄関のドアを勢いよく開けて篠原が入ってきたとき、綾香はトイレの中で息を潜めていた。
 トイレは玄関を入って右の位置にある。
 綾香は荒くなりそうな呼吸を必死に抑えて、頭を巡らせた。
 まだ勝算はある。まだ戦える。
 思いもしない事態に遭遇した時、人の時間は一瞬止まる。
 その隙に、立てた計画通り、よどみなく、繊細な作業も正確に行えば。
 綾香はトイレのドアをわずかに開いて、耳を澄ませた。
 レジ袋を置く重い音がしたあと、篠原の足音が居室に入っていく。その背中が見えた。
 一、二、と数えて、綾香はトイレを飛び出した。
 出ると左足のつま先でトイレのドアを閉め、右手で玄関のドアを開ける。
 玄関を抜けるとすぐに振り返って、勢いよくドアを閉じた。
 箱を持った不自由な左手の花火でサムターンを回し、同時に右手の花火でドアチェーンをかけた。
 ドアチェーンの方は、うまく入ったか確証が持てない。
「誰だ!」と、部屋の中から叫ぶ声が聞こえたときには、綾香は玄関の前の塀を乗り越えようとしていた。
 地面まで三メートルはある。
 しかし骨折さえしなければ、捻挫程度で済めば、勝ち目はあった。
 綾香は飛んだ。
 着地と同時に上のほうでガツンと音がした。
 ドアを開けようとしてチェーンが引っかかった音に違いない。
「くそ!」篠原の悪態も聞こえる。
 飛び降りた衝撃は予想より、はるかに少ないものだった。
 もしかしたら、次元接続体の頑健性によるものか? 何の問題もない。
 綾香はつま先立って、階段の上り口にある、端の部屋を目指した。
 向かいながら右手の花火を放ち、その部屋の鍵を開ける。
 やはりその部屋の住人である若い女は、まだ帰宅していなかった。
 頭の上をあわただしい足音が通過していくが、綾香は音を立てないよう、冷静にゆっくりとドアを開けていく。
 素早く中に入り、またゆっくりとドアを閉じながら、覗き穴に目を当てる。
 音が出ないよう、完全には閉めない。
 視界に篠原が入ってきた。
 狼狽して周囲をきょろきょろ見回してから駐車スペースを突っ切り、アパートの敷地から外へ走り出して行った。
 今になって綾香は、自分の息がひどく乱れていることに気がついた。
 心臓が早鐘を打ち、手足も震えてくる。
 そのまま覗いていると、篠原が戻ってきた。
 相手を見失ったとなれば、ほかに盗まれた物が無いか早く確認したいだろう。
 篠原が階段を上って視界から消えると、少しの間を置いて、ドアを閉める音がかすかに聞こえてきた。
 綾香は慎重に部屋を出た。

 結局はこれで良かったかもしれない。
 教師をしている知能があれば、自分の敵が普通ではないと、後になって篠原にも気がつくだろう。
 夕暮れのなか帰宅し、車を車庫入れしながら、綾香はそう考えた。
 パソコンには、いくらか手を加えなければならない。
 体はくたくただったが、頭は冴えていた。まだやるべきことがある。
 パソコンを持って家に入ると、リビングの灯りが点いていた。
 優輝が一人でソファに腰かけ、テレビを見ている。
「優輝!」
 綾香は思わず大声で呼びかけ、パソコンをキッチンのテーブルに置き、急いで駆け寄っていく。
 優輝は面食らったような顔をして、小首をかしげながら言った。
「お母さんどこ行ってたの? そんなカッコで」
 綾香はそれに答えず、優輝の隣に座り、息子の肩を強く抱き寄せた。
 おもむろに右手をかざし、優輝の髪に向かって花火を出す。
「優輝、ほら花火」
「もうそれ見飽きたよー」
 テレビに視線を戻そうとする優輝に対し、綾香は努めて平静を装いながら質問した。
「優輝、お母さんに秘密にしてること、ない?」
「えー、そんなのないよ」
 その声と同時に、佐山くんに貰ったえっちなマンガ、バレちゃったのかな、と聞こえる。
 綾香は奥歯をかみしめた。
 優輝にそんなものはまだ早い。後で探し出して処分しよう。
 しかしそんな声が出てくるなら、優輝はまだ無事だ。綾香の胸に温かい安堵が広がった。
 綾香は続けて、次の懸念を口にした。
「直弥くん、このごろウチに来ないじゃない? あんなに仲良かったのに。学校には来てるの?」
「来てるけど、アイツこのごろ暗くなっちゃってさー」
 綾香の目が涙で滲んだ。鼻をすすりながら続ける。
「じゃあ、親友の優輝が元気づけてあげなきゃ。でしょ?」
「お母さん、泣いてるの?」
「ううん、花粉症みたい。直弥くん、お母さんのアップルタルトが好きだったでしょう。明日作っておくから、
 食べにきてって、ウチに呼ぶのよ」
「うーん」
「絶対よ」
「分かった!」
 明るい返事とともに、もう一つの声が聞こえた。
『お母さん、また変なドラマでも見たのかな?』
 その純真さに触れて、綾香の口もとに微笑みが広がった。

 午前五時。
 灯りを消した寝室のベッドに腰かけ、綾香は明けてゆく空を眺めていた。
 疲労困憊してたが、こんな日に眠れるわけがない。
 篠原のパソコンは、夜中に校長の自宅へ置いてきた。
 警察に行くことも考えはした。
 しかし、そうした場合、まず綾香の身元と能力を明らかにしなければならなかったろうし、
 綾香自身が窃盗で逮捕される恐れもあった。
 事情を汲んでもらえたとしても、今度は被害児童の特定が始まる。
 直弥くんが、さらに傷つくことになるような可能性は排除したかった。
 結果として篠原に下される罰には言うことないが、他の部分が最善とは言いがたい。
 だから校長宅を選んだ。
 職歴の長い校長ともなれば、ちょっとした地域の顔であり、自宅の位置は綾香も知っていた。
 花火を使って進入し、キッチンのテーブルの上に警告文とともにパソコンを置いてきた。
 パソコンはデスクトップを掃除して、そこに「宝」フォルダを移動させておいた。
 宝フォルダの中身の、直弥くんと特定できるような画像は消去してある。
 子供の下腹部と篠原の顔、そして教室が写っている数枚だけを残した。
 もちろん、全ての画像は綾香のフラッシュメモリに保存されている。
 警告文には以下のようなことを書いた。
 このパソコンが、教師篠原誠のものであること。
 宝フォルダの中身を見ること、他の画像も参考にしてもらいたいこと。
 犯罪は教室で行われており、こちらは被害児童の特定もできている上、証拠も持っていること。
 そして何より、「このような真似のできる自分が見張っている」ということを。
 警察ではなく、なぜ自分の自宅にこのパソコンが持ち込まれたのか、ベテランの校長ならその意味をはっきり理解するだろう。
 戦慄とともに。
 小心だったり繊細だったりすれば、命の危険を覚えても不思議はない。
 綾香はそこまでするつもりは無いが、今日にでも何らかの動きがなければ、すぐ次の行動を起こす心の準備があった。
 これで戦いが終わったとも限らない。
 だが、それよりもまず。
 疲労がいくぶん回復したような気がして、綾香は立ち上がった。
 それよりも、まずアップルタルトの仕込みに入ろう。
 直弥くんが食べきれないほど作ろう。
 お土産に持たせても余るほど作り、夫にもおすそ分けしてあげよう。












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