徒然

藤原丹後

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徒然

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 特養(特別養護老人ホーム)から帰宅した。
 築50年弱のマンションの1室。昔は親子4人で暮らしていたが今は1人暮らし。
 父は大分前に酒の飲み過ぎで他界。姉夫婦は隣県で暮らしている。
 母は数年前、1度転んで骨折し、医者からは「もう歩けないかもしれません」と告げられた。幸い、最初の骨折からは回復した。だが2度目の骨折は駄目だった。

 1度目の入院時に俺は勤めていた郵便局を辞め、目出度く無職というジョブ? タスク? を手にした。主夫という言葉があるのは知っているがちょっと違う気がする。
 俺の役割にふさわしい言葉は何だろう? 
 職に就かずに母親の介護をしている息子。
 まぁ母は特養に入っているので、やってることは汚れ物の洗濯だけだが。
 警官に職質されたら、やはり「無職です」と答えるべきか……
 警官だって仕事なのだから個々人の細かい家庭の事情を聞かされても迷惑だろう。

 独りで食べる夕食。

 日替わりの具に、溶き卵を入れて錦糸卵状になったものと刻みネギをふってイロドリを増やし、普段より少し手間をかけた味噌汁が食卓にあると、母は「きれいやなぁ」と毎回喜んでくれた。
 そんなちょっとしたことをふと思い出す。
 生味噌を買うのをやめて、フリーズドライの味噌汁ですますようになってから、もうどれぐらいの月日が流れたのだろうか。

 認知症が進行し、流行り病の数年後に面会できた母は、もう俺のことがわからなくなっていた。
 女性用の下着を買うことにも抵抗がなくなり、特養へ週に2度母の着替えを持って行き、洗濯物を回収する。
 そして月に一度の面会日、母は俺を「誰だろう?」という顔で見つめる。その間、会話は途切れ時間だけが過ぎていく。
それでも俺は毎回行く。それが子としての母への務めだと思っているから。

 先月なかったことが今月あることもなく。
 今月なかったことが来月あることもない。
 何もない日常が過ぎていく。

 ある日。いつものように洗濯物を干しにベランダへ出ると、隣室との隔て板の下三分の一ほどが銀白色の霧状のものに覆われていた。

 不思議に思い、屈んで覗き込む。

 いつしか霧は、隣のベランダをすっぽりと包み込んでいる。やがて、その霧の中から、聞き慣れた声が聞こえてきた。

「きれいやなぁ……」

 声のする方を凝視する。銀白色の霧の中に、ぼんやりと母の姿が見えた。昔のように俺の作った味噌汁を前にして、にこやかに微笑んでいる。

「母さん……」

 思わず声に出すと、母はゆっくりと俺の方を向き、静かに微笑みかけた。そして、その笑顔が溶けるように霧の中へ消えていく。銀白色の霧もまた、淡い光となって空に昇り、やがて何もかもが消え去った。

 ベランダには、いつもの風景が戻っていた。隣との隔て板も、いつもと変わらない壁だ。

 俺は、もう一度ベランダを見渡した。そして、その目に涙が溢れてくるのを感じた。

 母が俺を認識できなくなってから、ずっと聞けなかった声。

 その声が、今、聞こえた。

 それは幻かもしれない。でも、俺には、それで十分だった。

 今日は、スーパーに寄って生味噌を買って帰ろう。そして、久しぶりにまともな味噌汁を作ろう。

 いつか、また、母と共に食事のできる日のために。
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