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第1章 ダンジョン
第55話 ─国境の城塞─ 無明の闇や憎多き 今の世にありてわれを信徒となし給ひぬ 願はくは吾に与へよ力と沈勇とを*
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領庁の裏手に続く砂利敷きの庭は、朝の光を浴びて乾いた土の匂いを微かに立ち昇らせていた。手入れが行き届いた石造りの館の優雅さとは裏腹に、そこには古びた二輪の荷馬車が一台駐められている。
「この荷馬車、途中で壊れませんか? 閣下」
ブレスト・プレートを体の前後に装着し、長剣を腰に佩いた短い金髪の女性が呆れた声をだす。彼女の視線は、長年にわたって酷使されたことが明らかな二輪の荷馬車に注がれていた。
「使える荷馬車の用途は言ったはずだ。かわりに馬は良いものを用意した。ご婦人3人ぐらいであれば背に乗せても問題ない」
そこに少年が、ガシャガシャと砂利敷きの庭を駆けてくる音をさせながら息急き切ってやってきた。
「ご、主人、さまぁ。鏡の、向こう、人、が、現れ、ました」
少年は息切れで赤くなった顔を上げ、言葉を途切れさせながらも、与えられた任務を全うせんと頑張った。
「ここへ連れてこい」
「わかり、ましたぁ」
子爵の命を受け、少年は館の中に駆け込んで行った。
「今度の日本人は約束を守る程度の知性はあるようだな」
「どういう意味ですか? 」
「ふんっ。彼奴は再訪の日時をわざと誤魔化しおった。命じられた仕事を惚けようとする使用人がよくやる手口だ」
「切り捨てられても仕方のない小者。ということですか? 」
ウィルマは唾棄するような口調で言った。
「そういうことだ。クーム侯爵やオールバラ伯爵が、あんな男のどこに価値を見出したのか、酔狂なものよ」
「両家の意図を探り出さなくても宜しいのですね? 」
「どの道手に入らぬものであれば、誰の手にも入らぬ内に処分してしまえばよい」
「なるほど、そういうことですか」
「処分と言えば、少し前に球冠鏡を通ってわしの執務室に侵入した日本人が妙な事を言っておった」
「閣下が領外へ追放なされたという日本人ですか? 」
「あぁその日本人だ。カモという氏族が全国にネギとかいう神官を派遣すると、全く意味のわからぬことを言っておった。ウィルマは知っているか? 」
「日本人が愚かだということをですか? 」
「違う。いや、それも事実だが、鴨鍋に葱を入れると肉の臭みがとれるのだ。あれを見よ。鴨肉を持った者が葱持参でやってきたぞ」
「あの大荷物は何なのでしょう。日本人と会うのは初めてですが、何とも言葉に困る珍妙な一団ですね」
ジョイントにプラスチックを使用しない帆布製のバックパック。男は110L、女3人は70Lの容量がある。それぞれがバックパックの側面に見慣れぬ素材を巻いた布の様な物を取り付けていた。
「子爵閣下。お待たせして申しわけありません」
リンが深々と頭を下げる。
「よい。今、荷馬車の準備ができたところだ」
子爵の鷹揚に振舞う声が庭に響く。 しかし、その声を聞いたリンは屋根のない荷馬車を一瞥すると、愛想の良い表情をロミナのような能面と化して表情を消す。
「城塞までは3日かかるが水と食料は適時補充してくれ。馬用と人用の水樽、保存食25食分と毛布を5枚、それに馬用の飼料を積み込んである」
「十分なご配慮に感謝いたします」
なんとか愛想の良い声を維持しようとするが、リンの声は当初より幾分硬くなっていた。
「皆さんこんにちは。私めはウィルマと申します。皆さまのご案内と護衛を閣下に命じられました。道中よろしくお願いします」
「リン・グリンプトンよ、よろしくね。随分と使い込んだ長剣のようだけれど、ベテランと同行できて嬉しいわ」
マヤは但馬に視線を向けるが、但馬は荷馬車の側に移動し挨拶に参加しない体を装っていた。
「マヤ・カトーと申します。御者は私が勤めましょうか? 」
「そうね。疲れたら代わってもらおうかしら。でも、急なことで荷馬車が年代物しか用意できなかったの。ごめんなさい。途中で壊れたら嫌でしょう? だから、慣れている私めができるだけ御者をするわ」
ウィルマは最後の1人に視線を向ける。
「ロミナ・ファーガスと申します。ファーガスは家名ではなくセカンドネームとして使用するように命じられた平民です。どうぞ、御引き回しの程をよろしく御頼みいたします」
「あらあら。随分と丁寧なご挨拶。痛み入ります。短い間だけれど、そう畏まらなくて良いのよ」
「俺は但馬」
ウィルマの後ろから男が一声かけた。
「挨拶が終わったのなら行こうか」
ムッとした風のウィルマが声を出す前に、リンが声を上げる。
「あんたねぇ最低限の礼儀ぐらい弁えてよ。それに子爵閣下にまだご挨拶していないじゃない」
「挨拶なら昨日したと思う」
「そうじゃないでしょ! 」
リンは拳を握りしめた。但馬は肩を竦めると子爵に向き直る。
「それでは、楽しい旅行に行ってきます」
それは皮肉であることを隠そうともしない際どい挨拶だった。
「あっあぁ。行ってこい」
子爵は一瞬言葉を詰まらせた後、曖昧に応じる。
但馬と女性3人が、板の軋む音を立てながら馬車の荷台に乗り込んだ。
1歩も動こうとしないウィルマに子爵が声をかける。
「どうした? 皆待っておるぞ」
ウィルマは荷馬車を背に、子爵の真横まで移動してから耳もとで囁く。
「日本人を殺すことが目的なら、今ここで始末したほうが良くないですか? 」
子爵も立ち位置をずらしてウィルマの耳もとに口を近づける。
「わしもそれを思ったが、『紅宝石』が日本人とわし等2人を等分に見続けておった。『狂犬』は突っ立ておるだけだったが、黒髪もさりげなく重心移動し戦闘態勢に移っていた。今ここでは何もするな」
不満そうなウィルマに子爵は注意を促す。
「中央の古狐共が派遣した神官が1人だけだと思ってはいないな? これからは常に見られていると思え。わしは侯爵に感謝されたいとは思うが、敵にしたいなどとは考えていない。やりたければ先ずは女たちを味方につけよ。それが出来ぬのなら絶対に直接手を出すな。侯爵への詫びにお前を差し出すなどということはさせてくれるなよ」
「私めが間違っておりました。全て閣下のご指示に従います」
ウィルマは込み上げる感情を無理やり飲み込んだ。
荷馬車の中でもリンが小声で但馬に詰め寄る。
「どういうつもり? 」
「俺が行きたがっていないことは知っているだろ。このボロ荷馬車と不相応な毛づやの良い馬。あの子爵が口を滑らした『馬用と人用の水樽』。何で人より馬の水を先に言う? 保存食は必要数に足りていないのに馬の飼料は大量に積んでいる」
「何が言いたいのよ? 」
「俺が言いたいのは、あの金髪が気にいらない。それだけ」
「但馬さん。私も気が気ではありませんでした。何を怒っているのですか? 」
マヤが心配そうな面持ちで割って入った。
「向こうが俺を嫌っているのに、何で媚びなければいけないの? 」
「何言ってんのよ。あんたには何も言っていないじゃない」
「俺は視線に乗せた感情を読み取れる。勘違いしないでくれよ。何を考えているのかがわかるとは言ってないぞ。最初から俺にネガティブなレッテルを貼って見てくる奴には何も期待しない」
「それって、あたしのことを言っているのかしら? 」
「ん? リンは最初から感情をぶちまけていたじゃないか。そういう人間だと第一印象で受け止めてしまえば、そんな感情を向けられたところでそのまま受け入れるだけで特に思うところはなかったよ」
「今の、あたしへの侮辱よね」
「いつか昔を思い出して『そんなこともあったね』と、笑いあえる関係になれるといいね」
「そんな関係になる未来なんて絶対にこないわよ。て、言うか。あんた何時まであたしにつきまとうつもりなの? 」
「俺は直ぐに切れるけど、いつまで続くかはリンの勉強進度によるんじゃないの? 」
「直ぐに終わらせてみせるわよ! 」
それまでのひそひそ声から一転して、突然大きな声が馬車内で響いた。
但馬が外を見ると、離れたところに立っていた子爵たちが振り向いて馬車を見ていた。ウィルマは子爵に一礼すると、命じられた仕事をこなすため御者席へと歩き出す。
「ここで買い物をしたいのだけれど、魔石で物を買えるのかな? 」
但馬が誰ともなしにぼそりと呟く。
「食料ですか? 」
「いや。この荷馬車を補強する板を買っておきたい。釘と道具は持ってきたが板は手持ちにないからね」
「普段金属の板でできた車に乗っているあんたに木製馬車の修繕なんてできるの? 」
「できるかどうかは明日の朝のお楽しみだね」
「勝手な事はしないで! 」
御者席に上がっていたウィルマが鋭く振り向いて但馬を叱る。
但馬が口を開く前にマヤが立ちあがった。
「壊れたときに補修するため、予め板を積んでおくことを子爵閣下はご了承なされるでしょうか?」
但馬を睨みつけていたウィルマはマヤの丁寧な申し出に表情を和らげて、少し考えてから御者台から降りた。
「許可を得てきますので、少し待ってね」
そう言ってウィルマは子爵の方に小走りで向かう。ジャリジャリと、小気味良いテンポで砂利の音が届く。
「マヤ。気を利かせてくれたところを悪いけれど。俺はここの貴族家の使用人ではないから、あの女が戻ってきて俺に『板を取りに行け』と言ってきても無視するから」
「あんた。少しは歳相応に振舞ってよ。子供のようなことをしないで」
「今更生き方を変えられない。俺は子供の頃から相手が大人でも言った言葉の責任は取らせてきた。この馬車の修繕はやらないし、壊れたらそれを理由に旅行を取り止めて日本に帰る。君たち3人は俺に付き合わなくていい。こっちの世界での慣習なんか俺は知らないから、各自で正しいと思う事をして」
「わたくしは但馬様の護衛としてお供を命じられております。但馬様が日本に帰られるのであれば日本に参ることとなりましょう」
「契約時の移動手段が確保できないのであれば、オールバラ伯爵家に苦情を申し立てることにはならないでしょう。私も帰ります」
「あたしは……」
そこにウィルマが戻ってきた。
「『帰る』って何のお話をしているのですか? この馬車は気にいりませんか? 」
4人全員が沈黙しているところに、事態を察知した子爵がやってきた。
「荷馬車の修繕がどうのと言っておるそうだが、そんなことに時間をとられて発つのが遅れるのは好ましくない。今、代わりの馬車を手配するから1度屋敷に戻って待機してくれ」
女性3人は互いに顔を見合わせ、ちらちらと但馬の方に視線を向ける。
「ふむ。決定権は君にあるようだ。何か不満があるのなら話してくれ。今日の君は昨日と態度が全く違うな」
「何が起きようとしているのか正直に話してもらえますか? 」
「その『何が起きるのか』を調べてもらいたいと昨日言ったはずだ。それに、君は既に前報酬を受け取っている。貴族から報酬を受けたのにそれを反故にするつもりか? 」
但馬はマヤを見る。
「報酬を受け取り、目的地への移動に支障がないのであれば、何もせずに帰るのは差し障りがあります」
「では、代わりの荷馬車の準備ができるまで待つしかないか」
「はい」
成り行きを注視していた子爵は屋敷の玄関前に待機していた壮年の男性に向けて片手を挙げる。
「あの者が案内する」
そう言うと子爵はウィルマを伴って屋敷とは別方向に歩いて行った。
「閣下。代わりの荷馬車があるのですか? 」
「わしの馬車だ。どの道家族を逃がすのにわしの馬車は使えん。あれは目立ち過ぎる」
「そうですか……少し気になったのですが、日本人に付いて来ている者たちは何故日本人ごときの顔色を窺っているのでしょう? 」
ウィルマの問いには、但馬への明確な嫌悪感が込められていた。
「奴の今日の態度はなっとらんが、昨日は礼儀を弁えておった。女たちを感化させる一面も、又あるのやもしれん。『狂犬』が貴族家当主たるわしを敬うのは当然だが、あの日本人への『狂犬』の振舞い方も聞いておるのとちと違う。あの日本人は先の日本人とは違うのかもしれん」
「私め、日本人との接触は1度もないのですが、閣下が領外追放した先の日本人とはどの様な者だったのでしょう? 」
「あれか……許可を求めずにわしの執務室に踏み込んできて、何やら色々言っておったな。『石鹸を作れる』『活版印刷』『ノーフォーク農法』噂に聞く日本人そのものだった」
「それで、その者をどう遇されたのですか? 」
「取り敢えず石鹸を作らせてみたが、いつまで経っても持ってこない。期限を区切ると醜い物を持ってきて、何やらごちゃごちゃと言い募る。発言を止めさせると、今度は『活版印刷』なら満足させるものができるとぬかしおった。『書物なんぞ大量にいるのか? 』と聞けば、わしでなければその場で切り殺されても文句を言えん不遜な目つきでわしを睨みつけ、『ノーフォーク農法』を導入云々と演説をはじめる始末よ」
「『ノーフォーク農法』ですか。日本人は必ずそれを言うそうですね」
「うむ。出来るのかと問い質したら益体もない事をだらだらと言い募るだけで要領を得ん。具体的な話をせよと命じると『これだから異世界人は』とわしらを罵り始めた」
「今回の日本人は、その『ノーフォーク農法』を口にしましたか? 」
「当人はわしと関りあいになることを避けている風でもあった。どちらかというと『狂犬』がわしへの繋がりを持とうと積極的であるな」
「ご指示は以前のままで宜しいのですね」
「うむ。特段変える事もなかろう。馬車の紋章を糊塗し装飾品を外した後に荷物を積み込んだら直ぐに出発せよ。ボックステッド家の家紋入り短剣は忘れずに持ってきたか。今夜の宿泊地であるフィネステダは4世帯しか在住しておらん小さな荘園だ。水しか補給できんだろう。手癖の悪い小作人はおらぬと思うが一応の注意は心掛けよ」
「閣下。私めが何年お仕えしたのかお忘れですか? 」
「ふっ、許せ。親心のようなものだ」
馬丁が子爵を見つけ走ってくる。再出発に向けて使用人たちが動き出す。
_________________________________________________________
* 上田敏訳詩集『海潮音』 ポオル・ヴェルレエヌ 「譬喩」新潮文庫 1952
「この荷馬車、途中で壊れませんか? 閣下」
ブレスト・プレートを体の前後に装着し、長剣を腰に佩いた短い金髪の女性が呆れた声をだす。彼女の視線は、長年にわたって酷使されたことが明らかな二輪の荷馬車に注がれていた。
「使える荷馬車の用途は言ったはずだ。かわりに馬は良いものを用意した。ご婦人3人ぐらいであれば背に乗せても問題ない」
そこに少年が、ガシャガシャと砂利敷きの庭を駆けてくる音をさせながら息急き切ってやってきた。
「ご、主人、さまぁ。鏡の、向こう、人、が、現れ、ました」
少年は息切れで赤くなった顔を上げ、言葉を途切れさせながらも、与えられた任務を全うせんと頑張った。
「ここへ連れてこい」
「わかり、ましたぁ」
子爵の命を受け、少年は館の中に駆け込んで行った。
「今度の日本人は約束を守る程度の知性はあるようだな」
「どういう意味ですか? 」
「ふんっ。彼奴は再訪の日時をわざと誤魔化しおった。命じられた仕事を惚けようとする使用人がよくやる手口だ」
「切り捨てられても仕方のない小者。ということですか? 」
ウィルマは唾棄するような口調で言った。
「そういうことだ。クーム侯爵やオールバラ伯爵が、あんな男のどこに価値を見出したのか、酔狂なものよ」
「両家の意図を探り出さなくても宜しいのですね? 」
「どの道手に入らぬものであれば、誰の手にも入らぬ内に処分してしまえばよい」
「なるほど、そういうことですか」
「処分と言えば、少し前に球冠鏡を通ってわしの執務室に侵入した日本人が妙な事を言っておった」
「閣下が領外へ追放なされたという日本人ですか? 」
「あぁその日本人だ。カモという氏族が全国にネギとかいう神官を派遣すると、全く意味のわからぬことを言っておった。ウィルマは知っているか? 」
「日本人が愚かだということをですか? 」
「違う。いや、それも事実だが、鴨鍋に葱を入れると肉の臭みがとれるのだ。あれを見よ。鴨肉を持った者が葱持参でやってきたぞ」
「あの大荷物は何なのでしょう。日本人と会うのは初めてですが、何とも言葉に困る珍妙な一団ですね」
ジョイントにプラスチックを使用しない帆布製のバックパック。男は110L、女3人は70Lの容量がある。それぞれがバックパックの側面に見慣れぬ素材を巻いた布の様な物を取り付けていた。
「子爵閣下。お待たせして申しわけありません」
リンが深々と頭を下げる。
「よい。今、荷馬車の準備ができたところだ」
子爵の鷹揚に振舞う声が庭に響く。 しかし、その声を聞いたリンは屋根のない荷馬車を一瞥すると、愛想の良い表情をロミナのような能面と化して表情を消す。
「城塞までは3日かかるが水と食料は適時補充してくれ。馬用と人用の水樽、保存食25食分と毛布を5枚、それに馬用の飼料を積み込んである」
「十分なご配慮に感謝いたします」
なんとか愛想の良い声を維持しようとするが、リンの声は当初より幾分硬くなっていた。
「皆さんこんにちは。私めはウィルマと申します。皆さまのご案内と護衛を閣下に命じられました。道中よろしくお願いします」
「リン・グリンプトンよ、よろしくね。随分と使い込んだ長剣のようだけれど、ベテランと同行できて嬉しいわ」
マヤは但馬に視線を向けるが、但馬は荷馬車の側に移動し挨拶に参加しない体を装っていた。
「マヤ・カトーと申します。御者は私が勤めましょうか? 」
「そうね。疲れたら代わってもらおうかしら。でも、急なことで荷馬車が年代物しか用意できなかったの。ごめんなさい。途中で壊れたら嫌でしょう? だから、慣れている私めができるだけ御者をするわ」
ウィルマは最後の1人に視線を向ける。
「ロミナ・ファーガスと申します。ファーガスは家名ではなくセカンドネームとして使用するように命じられた平民です。どうぞ、御引き回しの程をよろしく御頼みいたします」
「あらあら。随分と丁寧なご挨拶。痛み入ります。短い間だけれど、そう畏まらなくて良いのよ」
「俺は但馬」
ウィルマの後ろから男が一声かけた。
「挨拶が終わったのなら行こうか」
ムッとした風のウィルマが声を出す前に、リンが声を上げる。
「あんたねぇ最低限の礼儀ぐらい弁えてよ。それに子爵閣下にまだご挨拶していないじゃない」
「挨拶なら昨日したと思う」
「そうじゃないでしょ! 」
リンは拳を握りしめた。但馬は肩を竦めると子爵に向き直る。
「それでは、楽しい旅行に行ってきます」
それは皮肉であることを隠そうともしない際どい挨拶だった。
「あっあぁ。行ってこい」
子爵は一瞬言葉を詰まらせた後、曖昧に応じる。
但馬と女性3人が、板の軋む音を立てながら馬車の荷台に乗り込んだ。
1歩も動こうとしないウィルマに子爵が声をかける。
「どうした? 皆待っておるぞ」
ウィルマは荷馬車を背に、子爵の真横まで移動してから耳もとで囁く。
「日本人を殺すことが目的なら、今ここで始末したほうが良くないですか? 」
子爵も立ち位置をずらしてウィルマの耳もとに口を近づける。
「わしもそれを思ったが、『紅宝石』が日本人とわし等2人を等分に見続けておった。『狂犬』は突っ立ておるだけだったが、黒髪もさりげなく重心移動し戦闘態勢に移っていた。今ここでは何もするな」
不満そうなウィルマに子爵は注意を促す。
「中央の古狐共が派遣した神官が1人だけだと思ってはいないな? これからは常に見られていると思え。わしは侯爵に感謝されたいとは思うが、敵にしたいなどとは考えていない。やりたければ先ずは女たちを味方につけよ。それが出来ぬのなら絶対に直接手を出すな。侯爵への詫びにお前を差し出すなどということはさせてくれるなよ」
「私めが間違っておりました。全て閣下のご指示に従います」
ウィルマは込み上げる感情を無理やり飲み込んだ。
荷馬車の中でもリンが小声で但馬に詰め寄る。
「どういうつもり? 」
「俺が行きたがっていないことは知っているだろ。このボロ荷馬車と不相応な毛づやの良い馬。あの子爵が口を滑らした『馬用と人用の水樽』。何で人より馬の水を先に言う? 保存食は必要数に足りていないのに馬の飼料は大量に積んでいる」
「何が言いたいのよ? 」
「俺が言いたいのは、あの金髪が気にいらない。それだけ」
「但馬さん。私も気が気ではありませんでした。何を怒っているのですか? 」
マヤが心配そうな面持ちで割って入った。
「向こうが俺を嫌っているのに、何で媚びなければいけないの? 」
「何言ってんのよ。あんたには何も言っていないじゃない」
「俺は視線に乗せた感情を読み取れる。勘違いしないでくれよ。何を考えているのかがわかるとは言ってないぞ。最初から俺にネガティブなレッテルを貼って見てくる奴には何も期待しない」
「それって、あたしのことを言っているのかしら? 」
「ん? リンは最初から感情をぶちまけていたじゃないか。そういう人間だと第一印象で受け止めてしまえば、そんな感情を向けられたところでそのまま受け入れるだけで特に思うところはなかったよ」
「今の、あたしへの侮辱よね」
「いつか昔を思い出して『そんなこともあったね』と、笑いあえる関係になれるといいね」
「そんな関係になる未来なんて絶対にこないわよ。て、言うか。あんた何時まであたしにつきまとうつもりなの? 」
「俺は直ぐに切れるけど、いつまで続くかはリンの勉強進度によるんじゃないの? 」
「直ぐに終わらせてみせるわよ! 」
それまでのひそひそ声から一転して、突然大きな声が馬車内で響いた。
但馬が外を見ると、離れたところに立っていた子爵たちが振り向いて馬車を見ていた。ウィルマは子爵に一礼すると、命じられた仕事をこなすため御者席へと歩き出す。
「ここで買い物をしたいのだけれど、魔石で物を買えるのかな? 」
但馬が誰ともなしにぼそりと呟く。
「食料ですか? 」
「いや。この荷馬車を補強する板を買っておきたい。釘と道具は持ってきたが板は手持ちにないからね」
「普段金属の板でできた車に乗っているあんたに木製馬車の修繕なんてできるの? 」
「できるかどうかは明日の朝のお楽しみだね」
「勝手な事はしないで! 」
御者席に上がっていたウィルマが鋭く振り向いて但馬を叱る。
但馬が口を開く前にマヤが立ちあがった。
「壊れたときに補修するため、予め板を積んでおくことを子爵閣下はご了承なされるでしょうか?」
但馬を睨みつけていたウィルマはマヤの丁寧な申し出に表情を和らげて、少し考えてから御者台から降りた。
「許可を得てきますので、少し待ってね」
そう言ってウィルマは子爵の方に小走りで向かう。ジャリジャリと、小気味良いテンポで砂利の音が届く。
「マヤ。気を利かせてくれたところを悪いけれど。俺はここの貴族家の使用人ではないから、あの女が戻ってきて俺に『板を取りに行け』と言ってきても無視するから」
「あんた。少しは歳相応に振舞ってよ。子供のようなことをしないで」
「今更生き方を変えられない。俺は子供の頃から相手が大人でも言った言葉の責任は取らせてきた。この馬車の修繕はやらないし、壊れたらそれを理由に旅行を取り止めて日本に帰る。君たち3人は俺に付き合わなくていい。こっちの世界での慣習なんか俺は知らないから、各自で正しいと思う事をして」
「わたくしは但馬様の護衛としてお供を命じられております。但馬様が日本に帰られるのであれば日本に参ることとなりましょう」
「契約時の移動手段が確保できないのであれば、オールバラ伯爵家に苦情を申し立てることにはならないでしょう。私も帰ります」
「あたしは……」
そこにウィルマが戻ってきた。
「『帰る』って何のお話をしているのですか? この馬車は気にいりませんか? 」
4人全員が沈黙しているところに、事態を察知した子爵がやってきた。
「荷馬車の修繕がどうのと言っておるそうだが、そんなことに時間をとられて発つのが遅れるのは好ましくない。今、代わりの馬車を手配するから1度屋敷に戻って待機してくれ」
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「ふむ。決定権は君にあるようだ。何か不満があるのなら話してくれ。今日の君は昨日と態度が全く違うな」
「何が起きようとしているのか正直に話してもらえますか? 」
「その『何が起きるのか』を調べてもらいたいと昨日言ったはずだ。それに、君は既に前報酬を受け取っている。貴族から報酬を受けたのにそれを反故にするつもりか? 」
但馬はマヤを見る。
「報酬を受け取り、目的地への移動に支障がないのであれば、何もせずに帰るのは差し障りがあります」
「では、代わりの荷馬車の準備ができるまで待つしかないか」
「はい」
成り行きを注視していた子爵は屋敷の玄関前に待機していた壮年の男性に向けて片手を挙げる。
「あの者が案内する」
そう言うと子爵はウィルマを伴って屋敷とは別方向に歩いて行った。
「閣下。代わりの荷馬車があるのですか? 」
「わしの馬車だ。どの道家族を逃がすのにわしの馬車は使えん。あれは目立ち過ぎる」
「そうですか……少し気になったのですが、日本人に付いて来ている者たちは何故日本人ごときの顔色を窺っているのでしょう? 」
ウィルマの問いには、但馬への明確な嫌悪感が込められていた。
「奴の今日の態度はなっとらんが、昨日は礼儀を弁えておった。女たちを感化させる一面も、又あるのやもしれん。『狂犬』が貴族家当主たるわしを敬うのは当然だが、あの日本人への『狂犬』の振舞い方も聞いておるのとちと違う。あの日本人は先の日本人とは違うのかもしれん」
「私め、日本人との接触は1度もないのですが、閣下が領外追放した先の日本人とはどの様な者だったのでしょう? 」
「あれか……許可を求めずにわしの執務室に踏み込んできて、何やら色々言っておったな。『石鹸を作れる』『活版印刷』『ノーフォーク農法』噂に聞く日本人そのものだった」
「それで、その者をどう遇されたのですか? 」
「取り敢えず石鹸を作らせてみたが、いつまで経っても持ってこない。期限を区切ると醜い物を持ってきて、何やらごちゃごちゃと言い募る。発言を止めさせると、今度は『活版印刷』なら満足させるものができるとぬかしおった。『書物なんぞ大量にいるのか? 』と聞けば、わしでなければその場で切り殺されても文句を言えん不遜な目つきでわしを睨みつけ、『ノーフォーク農法』を導入云々と演説をはじめる始末よ」
「『ノーフォーク農法』ですか。日本人は必ずそれを言うそうですね」
「うむ。出来るのかと問い質したら益体もない事をだらだらと言い募るだけで要領を得ん。具体的な話をせよと命じると『これだから異世界人は』とわしらを罵り始めた」
「今回の日本人は、その『ノーフォーク農法』を口にしましたか? 」
「当人はわしと関りあいになることを避けている風でもあった。どちらかというと『狂犬』がわしへの繋がりを持とうと積極的であるな」
「ご指示は以前のままで宜しいのですね」
「うむ。特段変える事もなかろう。馬車の紋章を糊塗し装飾品を外した後に荷物を積み込んだら直ぐに出発せよ。ボックステッド家の家紋入り短剣は忘れずに持ってきたか。今夜の宿泊地であるフィネステダは4世帯しか在住しておらん小さな荘園だ。水しか補給できんだろう。手癖の悪い小作人はおらぬと思うが一応の注意は心掛けよ」
「閣下。私めが何年お仕えしたのかお忘れですか? 」
「ふっ、許せ。親心のようなものだ」
馬丁が子爵を見つけ走ってくる。再出発に向けて使用人たちが動き出す。
_________________________________________________________
* 上田敏訳詩集『海潮音』 ポオル・ヴェルレエヌ 「譬喩」新潮文庫 1952
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【本編完結】⭐︎気分どん底スタート、あとはアガるだけの異世界純情ハーレム&バトルファンタジー⭐︎
長年思い続けた幼馴染にフラれたショックで目の前が全部真っ白になったと思ったら、これ異世界召喚ですか!?
しかも、フラれたばかりのダダ凹みなのに、まさかのハーレム展開。まったくそんな気分じゃないのに、それが『シキタリ』と言われては断りにくい。毎日混浴ですか。そうですか。赤面しますよ。
ただ、召喚されたお城は、落城寸前の風前の灯火。伝説の『マレビト』として召喚された俺、百海勇吾(18)は、城主代行を任されて、城に襲い掛かる謎のバケモノたちに立ち向かうことに。
といっても、発現するらしいチートは使えないし、お城に唯一いた呪術師の第4王女様は召喚の呪術の影響で、眠りっ放し。
とにかく、俺を取り囲んでる女子たちと、お城の皆さんの気持ちをまとめて闘うしかない!
フラれたばかりで、そんな気分じゃないんだけどなぁ!
隣に住んでいる後輩の『彼女』面がガチすぎて、オレの知ってるラブコメとはかなり違う気がする
夕姫
青春
【『白石夏帆』こいつには何を言っても無駄なようだ……】
主人公の神原秋人は、高校二年生。特別なことなど何もない、静かな一人暮らしを愛する少年だった。東京の私立高校に通い、誰とも深く関わらずただ平凡に過ごす日々。
そんな彼の日常は、ある春の日、突如現れた隣人によって塗り替えられる。後輩の白石夏帆。そしてとんでもないことを言い出したのだ。
「え?私たち、付き合ってますよね?」
なぜ?どうして?全く身に覚えのない主張に秋人は混乱し激しく否定する。だが、夏帆はまるで聞いていないかのように、秋人に猛烈に迫ってくる。何を言っても、どんな態度をとっても、その鋼のような意思は揺るがない。
「付き合っている」という謎の確信を持つ夏帆と、彼女に振り回されながらも憎めない(?)と思ってしまう秋人。これは、一人の後輩による一方的な「好き」が、平凡な先輩の日常を侵略する、予測不能な押しかけラブコメディ。
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