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三章 風の前の塵
-40- 上がる音の大きさは小さく
しおりを挟む寝苦しい夏の夜に、風鈴の音が響く。
鈴虫やコオロギが鳴く時期にはまだ早く、風鈴や蛙の声が夏の風物詩だ。
今頃の時期は郊外の夕陽町で蛙の合唱が鳴り響いていることだろう。しかし、都市部である朱町では風鈴しか、涼やかな音は無い。気温で熱くなった体温を少しでも下げたいと言う思いで、鴨居に風鈴をぶら下げているのだ。
――八重は太蝋に背後から抱き締められていた。少し寄り添うだけで互いの体温が上がると言うのに。
二つ揃って並べられた布団に腰を落ち着け、脚や両腕を使って捕らわれている状態に八重の心臓が酷く高鳴る。自身の心臓の音以外にも布が擦れる音や太蝋の息遣いが間近に聞こえ、思考が奪われていく様だった。
緊張して身体を強張らせていると、頬に何かが当たる感触とちゅ……と言う水音が耳に響いた。それが何を意味するか理解する頃、再び同じ感触と水音が八重を襲う。
所変えて幾度となく降り注がれる口付けの雨に八重は声も出せず、ただただ太蝋の腕の中で縮こまることしかできない。太蝋にされたことを仕返してやろう――などと言う余裕のある考えは当然出てこなかった。
「……八重」
低い太蝋の囁き声が、また八重の耳を刺激する。首を竦めて、目をぎゅっと閉じた。すると、太蝋は少し呆れた様子で息を吐き、八重の頭を撫でながら言う。
「こちらの顔が見えなければ少しは緊張が和らぐかと思ったが……全く慣れないようだな」
「っ……も、もうし――」
八重の謝罪の言葉を太蝋は頭に口付けを落とすことで封じた。わざとらしく唇を弾く音を部屋に響かせ、またも八重の思考を奪う。狙い通りに言葉を途切らせた八重を見下ろし、太蝋は八重を拘束していた両腕を解放した。
太蝋は八重の方を向いたままの体勢で、八重の隣に座り直す。そして、再び八重の顔に手を伸ばした。手袋を着けていない素手を。
顎に軽く手を添えて、自分の方へ向くようにくいっと力を込めると、八重は戸惑う表情を浮かべながら太蝋の方を見た。
そのままの体勢で暫くの間、二人は自然と見つめ合った。
太蝋の炎が大きく揺らいだ瞬間を見ていた八重の目の前に、太蝋の顔が迫っている。頬や額に口付けされる時とは違う――そう、八重は直感した。
八重は顔を真っ赤に染め上げ、恥ずかしさから目をぎゅっと瞑る。そして、耳元で囁かれた時のように首を竦めた。まるで亀のように。
(唇に……!)
口付けされる。そう思うと同時に騒がしかった心臓が余計に騒がしくなった。呼吸が浅くなり緊張がより高まっていく。
しかし。
「…………寝よう」
不自然な間があってから、太蝋は八重から手を離し、並べられた布団に移動してしまった。普段から太蝋が使っている布団の上で、寝る準備を始める太蝋の姿を八重はぽかんと見つめる。まるで何事も無かったかのように、それぞれに布団に横たわると自然と背を向け合う形になった。
(……〝また〟……して、もらえなかった……)
数日前の夜に太蝋から互いのことを知る為に『時間を掛けよう』と言われて以降、太蝋が屋敷に戻ってきた夜は太蝋の部屋で眠るようにしている。それは、眠る前に太蝋との触れ合いの時間を設ける為だ。
何気ない会話をしながら、互いへの距離を詰め、手を繋いだり、頭を撫でたり、頬に指を滑らせたり――と、太蝋からの接触を八重は享受していた。八重から触れた試しは無い。
そんな時間を過ごすこと、数日。太蝋からの触れ合いの水準が上がった結果、頬や額、手の甲、状況次第で首筋に口付けされることが増えていた。その合間に何度か唇に口付けされそうな雰囲気になったものの、結局することはなく、今夜のように尻すぼみで触れ合いが終わってしまうのだ。
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