片翅の火蝶 ▽お家存続のため蝋燭頭の旦那様と愛し合います▽

偽月

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三章 風の前の塵

-52- 初めての

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 遂に唇が重なろうかと言う、その時。

「ぃや……っ」

 八重は太蝋の手から逃れるように横に顔を背けた。
 小さく漏れ出た「嫌」と言う言葉が、太蝋の胸に酷く突き刺さる。
 これまでにない明確な拒絶だった。

「……急だったな。すまない」
「……」

 辛うじて出た言葉にも八重は何の言葉も返してくれない。顔を背けたままの状態で身動きひとつ取らなくなっている。
 そんな八重を見ていると余計に胸が痛む気がして、太蝋は音もなく立ち上がった。そして、部屋の襖の前に立って一言残す。

「……頭を、冷やしてくる」

 静かに開けられた障子は、また静かに閉められた。太蝋の気配が静かに遠のいていく。
 完全な沈黙が部屋に流れる中、八重は太蝋を拒絶してしまった自分を責めた。太蝋に恥をかかせてしまったことを悔いた。
 だが、どうしても太蝋との口付けを受け入れられなかった。
 何故なら……。

(旦那様は、まだ姉様のことを想ってるから……っ)

 一週間前に立ち聞きしてしまった太蝋とヨネの会話。
 太蝋はヨネが千重と似ていると言った。それは八重も感じていたことだった。
 ヨネもまた弟を二人、妹を一人持つ〝姉〟だ。姉特有の空気感が千重と似ているのだろうと八重は思っていた。だが、太蝋にとって姉ではない千重と、ヨネが似ていると言った。

 思い出して笑みを溢すほど、太蝋は千重を想っている。楽しそうにヨネと話している姿が、千重と話しているように見えて胸が苦しくなった。

(私は、姉様の代わり。その筈だったのに……。姉様とは似ても似つかない私では、旦那様を満足させられない。姉様のような……ヨネのような女性じゃないと、旦那様は……っ)

 考えれば考えるほど、その二人と自分が似ている所など一つも無くて、太蝋に愛情を向けてもらえる自信が湧いてこなかった。太蝋はただ、性愛を満たそうとしているのではないかと疑ってしまう。

 務めを果たすだけなら、それだけでも良い筈なのに。
 八重は絶え間なく流れ出てくる涙を、どうするべきか分からなかった。また、何故、こんなにも涙が流れ出るのかも分からなかった――



――屋敷の表庭を望む縁側に腰掛け、太蝋は深い深い溜息を吐いた。
 八重の笑顔を見る度に募る願望が己の行動を支配してしまった。それが非常に情けなく、太蝋は幾度も頭の中で自分自身を炎に焚べてやった。そして、燃えゆく自身に手を合わせながら自戒を唱えるのだ。

 その頭の中では、八重が幾度も『嫌』と言っている姿も浮かぶ。これまでは八重が怖がっている素振りを見せたら、すぐに離れるように努力してきた。
 だが今回は、太蝋の願望が前に出過ぎた故か、八重から明らかな拒絶を突き付けられた。そうなってくると、これまでの八重の反応も太蝋の推測が正しかったのだと思えてくる。

 八重はまだ太蝋を怖がっている……と言う推測が。

「はぁ~~……」

 怖がられていること。明確な拒絶を受けたこと。己自身の欲に負けたこと。
 それら全てが太蝋の心臓を酷く締め上げる。手袋を受け取った瞬間まで時間を戻したいと、とことん情けないことを考えてしまう。

 後悔に苛まれる中、ふと視界に映った自分の手。八重から貰ったばかりの純白の絹製の手袋。片手に着けたままだったことを思い出し、するりと外すと手元に一組の手袋が揃った。

 太蝋は自然と手袋に口付けしていた。
 さらりとした感触が唇に伝わると同時に、多大な罪悪感が押し寄せてくる。

「何をやってるんだ、俺は……」

 手袋を作った本人に出来ないからと言って、代償行為の充てにするなんて、いよいよ情けなさに輪がかかる。今、この場面をヨネにでも見られていたら、一言「気持ち悪い」と軽蔑の眼差しを向けられていたことだろう。

「あ~~~……もう……」

 太蝋は頭を抱えて、ただただ唸った。どんな顔をして部屋へ戻ったら良いのか分からない。
……尤も、太蝋の表情変化は誰の目にも映らないのだが。
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