海賊提督の悪妻

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トリーチェ編

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 約ひと月ぶりに戻った自室で、リリアンヌ・ギヴリーは丸一日を泥のように眠って過ごした。
 灰も軋みもない最高級の清潔なベッド、睡眠を奪う強引な腕も、四肢を拘束する鎖もなく、揺れる感覚も潮騒も聞こえぬ静かな眠りである。

 最高。最高しかない。

「………」

 あれ、全部夢だった?

「………」

 二十四時間が経った昼、明るい光の中で胸元からネグリジェの中を確かめてみるが、やっぱり結果は変わらなかった。何度確認しても三つ星がある。

「はぁ………」

 この焼き印がなければもう少し現実逃避も上手くいくのだが、抉り取らぬ限りは消えない。くっついて離れない、あの男そのものだ。

 気怠げに身をずり上げてクッションに上体を預け、意味もなく天井を見つめる。


 突然現れた白馬の王子ならぬ妹は、店内の騒動にも慌てずトイレの小窓へ声をかけた。応じて現れた海軍服の男が二人、手早く窓そのものを枠から外してしまう。さぁ、帰りましょう!! と瞬く間にそこから押し出され、店の正面で怒号が飛び交うのを尻目に港へ走り、停泊していたギヴリーの船へ飛び乗れば即座にトリーチェへと出航……という顛末である。

 ネイトによる姉の拐かし後、マリアンヌはカミロという海軍総督の元へ駆け(怒鳴り)込み、海賊共と関わりのない正規海軍兵を借りて(奪って)ギヴリーの船でグレイプへと追ってきたのであった。総督は役に立たない元貴族のぼんぼんで、使えるのは役職だけという便利な男だ。
 店の入り口で爆発騒ぎを起こし、暴漢だと叫んで騒ぎを起こしたのも妹たちの仕業である。父や秘書の一人も連れず、姉を追いかけ、たった一人で海軍兵を率いる船旅など、よくも大変な所業をと呆れ……胸打たれた。
「なんて危険なことを」
 船の中でしがみついて泣きじゃくるマリアンヌを胸に、リリアンヌも安堵の涙を流した。姉としては心臓が止まりそうではあったが、妹の無茶のおかげであの現実離れした日々から目を覚ませたのだ。
「ありがとう、ありがとう、マリー……うう……」
「リリー、辛かったでしょう!? 本当に、本当に! 酷いことをされませんでしたか!?」

 監禁に軟禁にいやがらせ。

「殴られたり、どこか傷とか!?」

 焼き印が三つ。

「あの……あの、その、あの男に無体なことは……」

 されまくった。

「………マリアンヌ、本当に感謝しています……だけどしばらく、私を一人にして下さい」
「リ、リリー!!!! あの、あの」
「大丈夫です、せっかく助けてもらったのだもの、早まったりはしないわ」

 それからリリアンヌはほとんどを船の部屋で過ごし、屋敷へと帰り着いた。


 当たり前だが自室の天井はグレイプに行く前と変わりはない。
 まだ見る気にはならないが、あの窓からの景色も、穏やかなマレーナ海もきっと変わりないだろう。

 これからどうしようか。

 天井をその目に映しながら、考えるともなく思い浮かべる。
 グレイプに行く前は、図書館に行ったり、そのまま街を散歩してチーズケーキを食べたり、屋敷で薔薇を育てたり、ギヴリーや港の事務所に顔を出したり、そこで自分が携わっている女性向け商品の売買に関する帳簿を確認したり。ゴールのない花嫁修業のお稽古に、多岐に渡る外国語の茶会レッスン。父に言われるまま時に夜会に出て、母に言われるままお茶会やショーの観覧、ドレスの採寸、お買い物のお供。マリアンヌと芝居やコンサートを観に行ったり……。

 だけどつい先月までのその自分は、酷く遠く感じられた。
 同じことをして、同じ自分でいられる自信がなかった。

 帰ってきた自分を見て、父母は妹同様に泣き崩れたが、腫れ物には触るまいと心配そのものに蓋をした。つまり何も聞いてこなかった。

 それはそうだ。だってあの男は元海賊なのだから。
 普通は思うだろう、散々想像も超える扱いを受けたのだろうと。正義どころか一般的な良心も常識もない海賊船上で、半月以上どうやって過ごしたのか。
 だけどそれらは“なかったこと”になるのだろうと感じられた。だから何も聞いて来ないし、リリアンヌが『具合は大丈夫』と言ったのを理由に医者も呼ばれない。今ならまだ、本人が口を閉ざしていれば全部なかったことに出来る。両親の思い描くリリアンヌの未来がまだ残されていると。
 そういうことにしたいのだろう、と手に取るように感じられた。

 とにかく好きなだけ休みなさいと母に労わられ、二十四時間が経ち、リリアンヌは天井を見上げている。

 帰路は海流の具合で往路よりも短い日数で戻ったが、それでも二週間近くじっとしていられたので体力的な疲労感はない。毎日食事を運んでくれる妹とポツポツと何でもない話をし、船にあった裁縫道具と端切れで手慰みにキルトを作って黙々と作業をしていると、嵐のようだった心がようやく凪ぎ始めた。その間に大賢者リリアンヌが少しずつ記憶に重たい蓋をしてある。



 ぼうっとしていると、腹が鳴った。
 そう言えば、ずっと寝ていたので三食抜けている。

 もう充分休憩したわ。
 とにかく着替えて何かを食べよう。
 ダラダラと寝ていられない性分が、全く変わらず機能する。いつでも律する必要がある。

 以前であればチャコットを呼ぶなりするのだが、下着姿でも見られるのは避けたかった。もう誰にも素肌を見られたくない。星のことは誰にも言いたくない。だからリリアンヌはクローゼット部屋に入り、洋服の海を泳ぎ始めた。

 赤、ピンク、黄色、黄色、オレンジ、赤、紫……。

 千や二千では利かないハンガーの中から、生まれて初めて自分に似合いそうな物を探し求めた。そんなものがこの世にあるなど発想すらなかったので、指定されたり予定に合わせた服に袖を通していただけだ。クローゼットの種類も量も一切を把握していなかった。
「どうしてこうもゴテゴテしているのかしら」
 ぼやきながら見渡すが、目視だけで手に取る気さえ起こらない。
 スッキリした服がなかった。何かにつけ花のコサージュ、フリフリフリル、ボリューミーなシフォン、パールにダイヤ、カラフルで女性らしい色により目立つ何かが付け足される。どう足掻いても似合いそうにはないのに、そうすることがルールなのだと言わんばかりに。
 トリーチェの特権階級ではこういった洋服が主流で、言わばマナーなのだ。可愛らしいマリアンヌが着れば垂涎もののお人形が出来上がる。

 洋服を見ながら、リリアンヌは記憶の隙間から娘たちを思い出してみた。
『マムって顔のパーツがす~ってしてるから、単色が似合うのよ。それもセットアップ。目尻の印象もあるし、デザインは辛口ね。カットは直線で、フレアがあってもパンツやマキシ丈とかがいいわ。本当言えば、メンズの服が良いくらい。めちゃくちゃハンサムでセクシーになる』

 そんなのは見つからない。どれを着れば良いの?

『基本は柄物なら細かい物を選んで。もし大きな柄が着たい時は、柄に使われる色はシックな色味が良いよ。そんで絶対茶系。ゴールドとオレンジも良き! そのヘーゼルの瞳を濃くしたような色とか……髪色も濃い茶色だしね。これ、本当は黒髪にしたい! 今度する!? あとはぁ、アクセントにブルー系も似合う』

 リズムに溢れたモニークの言葉が頭に浮かび、リリアンヌの胸をひたひたと満たし始める。
 嵩んでいく容積は重量を増し、小さく罅(ひび)の入る音がする。

 ふと目に入った洋服に手を伸ばした。
 白い襟なしのノーカラーブラウス。
 これなら着れそう。
 昨年の冬に一緒にハンガーにかけられている白い幅広のボウタイをたっぷりとしたリボン状に巻いて、ギヴリーが経営する病院へのクリスマスプレゼントを届けたことを思いだす。
 ボウタイは手に取らず、ブラウスだけを着ることにした。
 下はどれを穿こうか。慰問時には濃紺のスカートを穿いたのだが、何か違う。それだとかしこまり過ぎる。収納されている衣類はドレスや訪問着(ワンピース)が殆どだ。スカートだけなんてあまり無いし、パンツなど嗜む程度の乗馬やテニスをする下着程度のものしかなかった。基本的に女性はコルセットを付けているので運動が出来ないのだ。

「あ……」
 埋もれるように吊られていた濃紺と白の細いストライプのワンピースを手に持った。初めて目にする。たぶん少し褪せた感じなので、作ったけれど日の目を見なかったのだろう。だけどその褪せた感じが良かった。胸元にシフォンで作られたピンク色した花々のコサージュ、腰に巨大な同じ生地のリボンが付いていたので、鋏を手にちょん切ってやる。

 うん、これですっきり。

 そして、パニエを穿かずにストンとワンピースを着て、上からブラウスを羽織る。
 平民の女性はパニエなど穿かないので、別に異常な恰好ではない。
 ポポロが最後にこんな格好をしていたので、思い出してお手本にしてみた。
 ただ、ポポロのブラウスは生成りで皺っぽくて、こなれていた。ストライプもフレアパンツで……あとは袖を捲っていたわね。と、リリアンヌも捲ってみる。完成してみると凄く楽しい時間だった。よし、まともな服を買いに行こう。

 洗面台で顔を洗うと泥石けんが頭に浮かび、大事な用事も思い出す。

 うん、意外にやることがあるみたい。
 リリアンヌは化粧水を手に取った。
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