裏剣客加瀬崎十郎 北斎大画即書

CHIHARU

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十二  絵師になりたい真吾に、ふと己の気持ちに気づく崎十郎

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 帰り道ゆえ、真吾の屋敷まで同行してやることにした。
 
 駕籠の代金を出してやると言っても固辞されるに決まっていた。
 真吾との押し問答が面倒で、崎十郎はあえて申し出なかった。

 真吾は過剰と思えるほど、祖父をいたわりながら歩いている。
 ふらふらと提灯を揺らしながら、ゆっくりゆっくりと本所へ戻る。

「拙者ひとりで大丈夫です。崎十郎殿はどこぞに向かわれるところではなかったのですか」
 真吾は気遣いの言葉を口にした。

「途中で急に錯乱なされれば、真吾ひとりの手に負えまい」

「祖父はいつも物静かで落ち着いております。あのように暴れたことは初めてなのですが、ないとはいえませぬ。まことに助かります」
 由蔵の歩行に気を配りながら、真吾は丁寧に頭を下げた。

「ところで善次郎殿の手伝いは頻繁にしておるのか」
「お恥ずかしいしだいですが、わたくしには他に取り得がございませぬゆえ、英泉先生のご厚意に甘えております」

「善次郎殿にせいぜい駄賃を弾んでもらうことだな」

「いえ、わたくしなどまだまだ未熟者ゆえ……」
 真吾の言葉を遮って由蔵が突然、言葉を挟んだ。

「なにを申しておる、真吾、そなたは知らぬだろうが、蔵の隠し扉の奥には、使い切れぬ金銀が隠されておるのだ。先ほども危うく鍵を奪われるところであった」
 由蔵は自慢げに鼻を鳴らした。

「鍵は、これじゃ。加瀬の小倅にも見せてつかわす」
 懐から古びた蔵の鍵を取り出して崎十郎の鼻先に突き出した。
 鍵には色褪せた紅い紐が通され、首から吊されている。

「それはそれは、危ういところでした。大事な鍵が奪われず、まことに祝着至極」
 話を合わせた崎十郎に向かって由蔵は鷹揚に頷いた。

(蔵地家は三河以来の譜代で、名家として知られておったそうだが……)
 崎十郎が加瀬家へ養子に入った頃は、由蔵の息子が当主で、傍目にも内福と察せられた。
 子供心にも、旗本と御家人とではずいぶん暮らしぶりが違うと、羨ましく思っていたものだった。
 だが……。


 十年ほど前、先代夫婦が相次いで亡くなり、長男の隼人助が当主におさまって以来、蔵地家の身代は、にわかに傾き始めた。
 大勢いた奉公人や女中は、しだいに減って、ひとりも見かけなくなって久しかった。


 いまは広い屋敷に、由蔵と隼人助と真吾の三人しか住んでいない。

「祖父は、この通り、遠い昔の記憶やら夢想やら、夢の中に生きておるようです」
 真吾はなんともいえぬ半笑いを浮かべた。

「誰しも歳をとれば記憶違いも多くなり、童に戻ると申すからな」
 我が家で待っている園絵の白い顔を思い浮かべた。

「蔵に残っているといえば、先祖伝来の宝刀、備前長船景光だけというありさまなのですが、鍵だけは肌身離さず、いつも身につけておるのです。さきほどは、大事な鍵を奪われると大暴れしたのでしょう」

「櫛の一件は、火消どもの見間違いだったのであろう」
 崎十郎は火消人足たちと惚けた老人との齟齬を知って苦笑した。

「崎十郎、先ほどはご苦労であった。屋敷に戻ったら褒美を取らす」
 由蔵がおごそかに告げた。
 表情は往事の堂々たる風貌を彷彿とさせたが、目の奥の光は虚ろだった。

(うちの養母上も近いうちに、こうなられるのではないか。現に先ほどもおかしな言動だった)
 にわかに心配になったが、
(来年、七十になる父は、いまもって目も衰えず、意欲もますます増しておる。同じ老人でも雲泥の差があるではないか。養母上がこうなられるとは限らぬ)と思い直すことにした。

 外神田から本所までそれほど遠くないのだが、遅々として先に進まなかった。
 柳原通りを浅草御門の方向に向かっていたとき、
「ほれ、あそこにがおるではないか、真吾、呼んでまいれ」
 由蔵は突然、柳原土手を見上げて一本の柳の木を指さした。

 土手は黒々と闇に沈んで、柳の枝が寒々と身を震わせている。
 あれとは、由蔵の妻女のことだろう。

 とっくの昔に亡くなっていて、崎十郎は会ったこともなかった。

「真吾、行ってしまうではないか。早く行って『わしはここじゃ』と申してまいれ。道に迷うておるのじゃ」
「はい、ただいま参ります」
 真吾は由蔵の指し示した闇に近づいた。

「お祖父さま、のちほど屋敷に戻られるそうにございます。先に帰って待つことにいたしましょう」

「おお、そうか、そうか」
 由蔵は嬉しげに何度も頷くと、両国西広小路方向へ歩を進め始めた。
 足取りも軽くなって速度が早まった。
 背筋もしゃんと伸びている。

 両国橋の橋番所の前を通り過ぎた。
 番所の中の灯りが揺れて人の気配を感じさせた。

「他に望みとてありませぬが、思うように絵に打ち込めぬことが、心底、辛いです」
 真吾は小声で、ぽつりとつぶやいた。

「英泉先生ではなく、北斎先生や応為先生に私淑して画の道に精進いたしたいのです」
 ふと顔を見れば、涙ぐんでいる。
 真吾がお栄を尊敬し、姉のように慕っていることを崎十郎も知っていた。

「絵など描く気さえあれば、いくらでも描けるではないか」
「自身で研鑽することも大事ですが、やはり優れた技をじかに目にすることが一番です。心を揺さぶられて、画に向かう気持ちが大いに高まるのです」

「ふむ」
 気のない返事をしたものの、ふと胸を突かれた気がした。

(そういえば、あのように汚い〝鼠の住み処〟に拙者がわざわざ足を運ぶ理由は……)
 幼い頃、養子に出されたから、肉親の情などないも同然だった。
 加えて、あの奇矯な親父と顔を合わせても苛立ちしか感じない。

 理由はなにかと問われれば、北斎やお栄の描いた画や、画を描く課程を間近で見られるからにほかならなかった。
 画を描くどころか、目利きですらない崎十郎でもなにかを感じるのだから、真吾なら得るものは途方もなく大きく、宝物のごとき貴重な刻に違いない。

「おお、話すうちに、もう到着だ」
 蔵地家の築地塀が、手にした提灯の灯りに黒々とした姿を現した。
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