裏剣客加瀬崎十郎 北斎大画即書

CHIHARU

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十四   火事が真吾の屋敷とは……

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 崎十郎が、予想したより早く帰ってきたため、園絵はすこぶる機嫌が良かった。

 襖一枚を隔てた園絵の部屋からは、気持ちよさそうな寝息が聞こえてくる。

(どうしても眠れぬ。あの愚鈍丸出しで丸々と肥えた顔を思い出すと、むしゃくしゃしていかん)
 なにごとも他人のせいにしてしまう隼人助が許せなかった。

(裏剣客となって隼人助の髷を斬り落としてくれよう。当分、恥ずかしくて女遊びにも出られまい。いや、あのような破廉恥漢ならば頭に頭巾をかぶって出かけるであろうな)
 考えているうちに、ようやく深い眠りに落ちた。



「ん?」
 どのくらい眠ったのか、どこからか漂ってくる異臭に気づいた。

「養母上、起きておられますか。火事でございます」
 襖越しに声をかけた。

「なんと」
 床から身を起こして身じまいを正す衣擦れの音がしたあと、襖が音もなく開いた。

「幸い、火事は遠そうですが、拙者が見てまいります」
 乱れ籠から袴を取り出してはき始めた。

「慌ててはなりませぬぞ、崎十郎殿、いかなるときも身なりから整えねば。崎十郎殿の身仕舞いはだらしなくていけません」
 園絵が手際よく手伝ってくれたおかげで、ぴしりと着付けが決まった。

「では、行ってまいります」
 大小を腰に帯びて取次ノ間から玄関の土間に下りた。


 すぐに飛び出したいが園絵に見られている。
 一呼吸してから、おもむろに草履を履いた。

「お気をつけていってらっしゃいませ」
 園絵は、姿良く、優雅にお辞儀をした。

 お勤めの日は、綺麗に身繕いして薄化粧した園絵が、丁寧に礼をして送り出してくれる。
 加瀬家の当主たる自覚が湧いて心が引き締まるが、心が急いているおりは煩わしい。

「旦那さま、火事は、蔵地さまのお屋敷のようでございます」
 外の様子を窺っていた下男の六助が走り寄ってきた。

「なに! 真吾の家とな」
 前庭を駆け抜けて通りに飛び出した。

「これ崎十郎殿、武士が走るなど、もってのほか……」
 園絵の小言が追いかけてきたが、すぐに聞こえなくなった。



「確かに、蔵地家に相違ない」
 火事の炎で真昼のように明るくなった通りを急いだ。
 周辺の武家屋敷からも次々に人が出てくる。
 半鐘が連打される音が鳴り響いて不吉な音が心を乱す。
 園絵の目が届かぬことを幸いに、ばたばたと袴の裾をはためかせながら走った。

 屋敷の近くまで来ると、大勢の人が集まっていた。

 夜空を焦がす紅い炎の舌が、表通りに面した長屋門の軒を舐めている。
 門の奥に見える母屋が断末魔の悲鳴を上げていた。
 視界を深紅に染めて炎が舞い踊り、轟々という音が耳を圧した。

「気がつきましたときは、すでに手をつけられぬさまでございました」
「火の回りが、ことのほか早かったようだな」
 武家主従が興奮した様子で話している。
 
「おい、崎十郎、えらいことだな。火の手を見て、もしや、おめえの屋敷じゃねえかと相生町からすっ飛んできたんだが……。真吾の屋敷とは驚いたぜ」
 上擦った声で善次郎が声をかけてきた。
 炎のせいで顔が仁王のように赤い。

「このような夜中まで親父の家におられたのですか」
「午過ぎにちょっと立ち寄ったつもりが、いつものように長居しちまってな」
 善次郎は苦笑した。
 北斎、お栄の筆さばきに魅入られて帰れなかったのだ。

「火消しはまだか」
 周辺の町屋の住人たちも大勢やってきたが、騒ぐだけでなすすべもない。
 風がなく、隣家に燃え移る恐れがないだけがせめてもの救いだった。



「真吾や由蔵殿は無事でしょうか、姿が見えませぬが」 
 崎十郎は善次郎とともに、燃えさかる長屋門を避けて屋敷の西側に回った。

 長く続いている築地塀の崩れを探して屋敷の中に入った。
 火の粉が降りかかり、熱で目が痛む。

 井戸端に真吾の姿が見えた。
 井戸から水を汲み上げて頭からかぶっている。

「真吾は家の中に飛び込むつもりだぞ」
 善次郎がかすれた声で叫んだ。

「おい、真吾、無茶はいかん」
 駆け寄って真吾の腕をしっかとつかんだ。

「祖父が、まだ家の中に取り残されております。放してください」
 真吾は意外なほど強い力で、崎十郎の手を振り払った。

「行かさぬ」
「やめろ」
 崎十郎と善次郎は同時に真吾に組み付いた。

「わたくしのせいです。気づけば祖父の寝所はもう……。あのとき外に逃れず、火の中に飛び込んでおれば助けられたやも知れませぬ。わたくしは勇気が足りなかった。火の勢いが怖かったのです。炎に怖じ気づいた己が恥ずかしい。後生です。わたくしに責があります。行かせてください」
 真吾は半狂乱で暴れ、泣き叫んだ。

「武士の情けです。放してください。一命に代えても祖父を救いたいのです」
 真吾は華奢な身体からは考えられぬほどの強い力で抵抗した。

 崎十郎は真吾の異常なまでの孝行心に呆れた。
 母が真吾を腹に宿した事情を考えれば、実の父と知って情が深まったとは思えなかった。

「そういえば兄上は?」
 真吾はやっと兄の安否に思いが到ったらしかった。
「兄上は? 兄を見かけませぬか」
 真吾の問いかけに、崎十郎は首を横に振った。

「兄上も逃げ遅れてしまわれたのか。火事に気づいたとき兄上に報せておれば、兄上だけでも救えたものを……。兄上は泥酔して眠りこけておられたゆえ、火事にも気づかずにおられたに違いない」
 がっくりとうなだれた真吾は、ようやく動きを止めた。

「なあ、真吾、隼人助殿は若い。無事に違いねえよ」
 善次郎が気休めを口にした。

「隼人助殿が由蔵殿を救い出しておるやもしれぬぞ。まずは隼人助殿を探してみよう」
 崎十郎の言葉で三人は塀の外に出た。
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