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18. 禁断の果実
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どういうことなの?カインが殺されるなんて。
掌に感じるのは、未だかつて触れたことのない、鎧のような硬い鱗の感触。艶があり、冷たいそれはまるで磨いた金属のようで、撫でると心地よかった。
『貴女は、本当にあのノア様なのですか?』
ドラゴンの片方の頭がその大きな口を開く。
「ええ、そうみたいね。」
『でも、方舟のノア様は…』
「知ってる。男だった。だから戸惑っているのね」
『信じていない訳では無いのですがね』
「私も、確証はないの。少し前に、記憶を全て失ってしまって…」
『では、貴女がエヴァ様と言うのは…?』
「それもどうやら本当みたい。でも、本来ならばアダムの肋骨の欠片から生まれたのはエヴァの筈なのに、欠けているのは私の肋骨なのよ」
『アダム様がご心配でしょうに、不謹慎でした。すみません』
「いいの。あなたの最速がこれならば、私はあなたに頼るしかありません」
『最悪の事態は免れられるよう、最善を尽くします…その、』
「私はリリノアよ。好きに呼んで、ラドン。」
私は遠く前を見つめる。眼下には雲が白い海のように広がり、空が近く感じる。
こんな、ドラゴンが存在するなんて世界に私は生きていたというの?四角く切り取られた世界がすべてだと思っていた頃が懐かしい。あの教会の中、陽の光も乏しい冷たい場所がこの世のすべてだと思っていたのは、本当に私なのだろうか?あの頃の私には、こうして空を飛ぶことなど想像もつかなかっただろうに。
(記憶のすべてを取り戻せる日は、いつか来るのかな)
じわりと熱くなった目頭から涙が落ちる。しかしそれは、私の手元に落ちることなく後ろへと流された。風が強まり、体が浮くような浮遊感に包まれる。
ラドンが急降下し始めた。
「ひゃっ!?」
『カイン様はこの下です!すみません、しっかりお掴まりください!!』
鉄の鎌のような翼が大きく1度だけ空を叩くと、そのスピードは何倍にも増して地面を目掛けて垂直に降下していく。私はラドンの太い首に手足を駆使してしがみついた。雲に飛び込み、暫く落ち続けると、やがて視界は開けた。しかし、曇り空の下は空気が悪い。何故、と思って周囲を見渡すと、眼下にあるのは広大な森林だった。しかし、一部分が広場のように円状に木がなくて、そこから黒い煙が上がっていた。
「火事?」
『いや違う…まずい!』
今までに無いほどの力強さでラドンが何度も何度も羽撃く。速く、速く、と彼が自身を急かしているように見えた。鱗がギシギシと音を立てて軋み、二つの首が大きく上下に揺れる。目的地がハッキリしたからか、ラドンは煙をめがけて突進する猪の如く速度を上げた。煙にやられて目が痛む。それでも私は目をこすり、意地と力で瞼を上げた。
そこで私の目に飛び込んできた光景は。
「やめろぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!!!!」
『グォォォォォォォォォン!!!!!!』
私の叫びとラドンの遠吠えが響いたのは同時だった。上空からでも、ハッキリ見えたのだ。
円形に上がる炎の中心に、一本の棒が立てられている。そこに括られていたのは気絶してぐったりとしたカインだった。その周りを飛び交うのは、エキドナの息子が内の1人、エトンだった。
(プロメテウスと同じ…!?)
炎の周りには様々な森に住むのであろう動物達が集まっている。リス、鹿、梟、狐…彼等に表情こそ無かったが、止めようとする意志もないことは見れば分かる。
凄い勢いで迫り来る地面、ラドンは炎に自分諸共突っ込むつもりのようだ。近づくほど、その炎の大きいことがよく分かってきた。思いの外広い範囲が燃えている。
あぁ、カイン。貴方がどうして気絶しているのかは分からないけれど、燃える熱さを感じなくて済んでいるのならそれは不幸中の幸い。
『炎は私達でどうにかします。カイン様の元へお急ぎください。』
半ば激突するように地面に着地する。空に放り出されたかと思ったが、ラドンが上手く投げ飛ばしてくれたようで自分の足で着地できた。そのまま炎をかき分けるように大切な人のところに駆ける。
「カイン!」
地面が熱くて、何度もよろける。煙を吸ったせいで頭がクラクラする。視界は相変わらず悪いし、涙で歪んでいるけれど、大好きな彼だけは絶対に見失わない。目一杯に手を伸ばし、未だ気を失っている彼の元へ飛び込んだ。
一瞬の安心の直後、それは恐怖へと変わった。飛びこんだ胸からは、心臓の音がしない。こんなに熱いのに、汗もかいていない。
「嘘…カイン!しっかりしてよ!!」
耳元に首を伸ばして叫ぶも、反応がない。
『リリノア様!早くカイン様を開放してください!縄が外れれば呼吸が戻るかも知れません!!』
頭上からラドンの声が聞こえる。大きな翼が羽撃く度に、炎はその風に吹き消されてゆく。
私は無我夢中で、彼を括っている布に噛み付いた。歯がキシキシと音を立てて痛むが、全く気にならなかった。早く、早く。今度は私が自分を急かしていた。
ビリッ…
布が解れ、そこから見る見るうちに崩れていく。私はそのまま布を引きちぎり、支えを無くして崩れ落ちたカインを受け止めた。
「もう大丈夫よ。ごめんね」
私たちを囲む炎は未だ切れ目を見せない。私は服の裾で口を覆い、深く息を吸ってから呼吸を止めた。今の私には彼を抱えることは出来ない。ルリアも助けてはくれない。なら、引きずってでもこの場を脱するしかなかった。
そう心を決めて、私は燃え盛る炎にゆっくりと潜り込んで行った。
気がつけば、炎の海を抜けていた。目の前は赤ではなくて緑に包まれていて、ちゃんと出てこられたのだと確信する。引きずってきたカインを見れば、彼もまた燃えることなく連れてこられたようだった。
力尽きたようにその場に崩れ落ちるも、私はふと我に帰ってカインを抱き寄せた。左胸に耳を当てても、やはり鼓動は聞こえない。
「…カイン、死んじゃったの…?」
虚無感に包まれた心が白く固まり始める。
嫌だ!と、そう叫ぼうとした時だった。
「見事ね。ちゃんと助けに来るなんて。」
声の主を見ると、そこにいたのは何とエキドナだった。
「貴女…貴女がカインをこんな目に遭わせたのの!?」
「…そうよ」
冷淡に告げられたその言葉に、怒りをぶつけたのは私ではなかった。
『母さん何故ですか!?彼はカインであると共に、アダムなんですよ!!?』
ラドンの太い声が響き渡る。しかしエキドナはそれにも動じず、再びサラリと答えた。
「知っているわよ?」
『何、』
私はふらつく足に力を込めて立ち上がり、彼女に近づいた。
「許さないわよ、エキドナ」
「何を言うの?私は彼にアダムの素質があるかどうかを試しただけなのに。」
「何ですって?」
エキドナが口を弧にして笑う。
「貴女、カインという神をそもそも知っている?」
「分からない、無くした記憶に含まれていたかさえ…でもそれが何よ」
「カインはね、弟アベルを殺したの。」
「…え?」
「その罪を問われるべき忌まわしい魂。それがカイン。でも、神の子であるアダムの素質があるのなら、彼は火炙りにしたくらいでは死なないはずでしょ?エヴァ様。」
「…そんなこと」
「何かしら?」
「そんなこと、関係ない!」
余裕げに笑うエキドナの瞳がさらに細くなり、私を嘲笑するように見下ろす。きっと、私が子供だからからかっているのだろう。でも、私だけでなくカインまでを巻き込み、あまつさえ殺そうとしたなんて。
「何よ、魂なんて…宿命って何よ!?不可抗力じゃないの!!私は、カインがアダムで、自分がエヴァで、だから必然的に好きになったんじゃない…今までに私を人として見てくれた人がどこにいたの!?私はずるいから、初めて気にかけてくれた彼に縋っているだけだと、自分でもわかってる。でも、それでも…っ!」
私は未だ地面に横たわっているカインの隣に膝をついて、もう1度彼の胸に耳を当てた。
ちゃんと、静かなところで聞けばわかる程度には鼓動が聞こえる。それだけで、涙が溢れてきた。
「…まってて、くれたんだね。」
汚れた手で涙を拭って、深呼吸する。大丈夫、助けられる。前に、アンから蘇生法を教わったことがあった。異端児ならではの確実な救出法を。
私は彼の顎を押さえて口を開けさせた。噎せたのか、その口内には灰が少しついていた。私は自身の下唇を強く噛み、血が滲んだのを確認してから半開きになっている彼の口にそっと触れさせた。
上手く行けば、私の血液に反応して目を覚ます筈なのだ。私は何度も傷を抉るように噛んでは彼に飲ませた。
「何を、しているのよ。カインは死んだ、つまりそいつはアダムでは無かったという事、」
「うるさい!アダムかどうかなんてどうでもいいのよ!」
あまりに腹が立って、エキドナを睨めつけるように振り向くと、彼女は初めてゾッとしたような顔をした。
「エヴァ、」
「私はリリノアよ。エヴァなんて呼ばないで。宿命なんて、彼が助かればどどうでもいいわ」
「…そんなこと言うなよ、リリノア」
「!!」
背後から弱々しく聞こえてきたのは、ずっと待ち望んでいた声。恐る恐る振り向けば、細く目を開けて、起き上がろうとするカインの姿があった。
「…イン、カイン!本当に、良かった…っ!怪我は?痛いところは?火傷もしてるよね、早く何処かで、」
涙を押さえきれずに彼の方に向き直る。我ながら酷い顔をしているのだろうな、なんて。
「大丈夫。言ったでしょ?俺達の身体は外傷に強いって。」
「うん、でも」
「心配かけちゃったな」
灰だらけの顔にあどけない笑みを浮かべ、彼は私の頭に手を置いた。
「ごめんね?」
「違う、私さっき…」
「違わない。身重な君に負担をかけてしまった。」
そう言って私の下腹部を撫でる彼は、いつも通りとまでは行かないが、思っていたより元気そうだった。
「でも、」
彼が膝で立っている私を下から見上げ、少し泣きそうな顔をした。普段見たことのないその表情に私が驚愕していると、次の瞬間には彼の腕の中に収まっていた。
「ちょっとだけ、熱かった」
目に入る彼の首筋は、焼け爛れた皮膚に血が滲んでおり、見ているだけで痛みが感じられそうな気さえする。
「…うん、もう大丈夫だよ」
私は傷に触れないように細心の注意を払いながら、その傷だらけの首にそっと腕を回した。
「ふぅん、本当にアダムだったなんてね。」
知ったかぶりをするかのように、エキドナが言った。私が言い返してやろうとすると、カインの手に口元を塞がれた。
「そうそう、エキドナ。カインがアベルを殺した理由を知っているかい?」
「えっ?なんでそんなこと聞くのよ。」
「だって、可笑しいじゃないか。」
私を開放した彼は、ゆっくりと立ちあがって周りを見渡した。そこには、まだ現状を見守っている動物達が大勢いた。
「何が可笑しいのよ。」
エキドナが少し焦っているのがわかる。カインは、勝ったと言わんばかりに見透かした目をしてエキドナに笑いかけた。
「カインを裁く、ということは、お前達はアベルの味方なんだろう?でも、理由を知っていたら動物達はアベルの味方にはならない筈なんだよ。」
動物達の視線が痛いほどにカインに集中する。葉が1枚舞い落ちる音ですらよく聞こえそうな沈黙に包まれて、少しずつ耳鳴りすらし始める。
「それはね、」
「やめろ…」
エキドナが耳を塞ぐ。耳鳴りのせいかな…?いや、それにしては苦しそうだ。
しかしカインは、その現状を楽しむようにいたずらに微笑み、そして続けた。
「アベルは、ヤハウェへの供物として羊の肉を捧げたからさ。」
動物達が息を飲んだ。言葉こそないが、動揺しているのがよく見て取れる。
「彼が行ったのは動物犠牲だ。もちろん、今の俺は人間として動物の肉を食らう。だから、彼を責めている訳では無い。寧ろ、悔しさから弟を殺したカインは重罪だ。だが、事実を知らずに踊らされる準加害者には可哀想だからね。」
カインはまるで他人のことを語るように話し終えた。そしてこちらを振り返り、私を立たせる。
「ごめんね、驚いただろう?カインは、そういう人間なんだ。きっと俺が監禁されていたのは、カインの魂を持って生まれたからなんだろうね。」
そういって苦笑する彼はすこし悲しそうだった。
「いやぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
突然の悲鳴。甲高いそれは、幼げな少女の声と化物の声が溶け合って不協和音を引き起こしたような雑音だった。
見れば、動物達に襲われるエキドナの姿があった。
「駄目だ離れろ!!」
動物達の群れに飛び込むカイン。梟の爪や狐の牙を逃れながらエキドナの腕を引いている。当の本人は泣き叫び、正気ではない。
「落ち着けよお前ら!!コイツはお前らを騙したけど別に傷つけなくたっていいだろ!?」
まるで人に話しかけるように話すカイン。動物達の鳴き声を聞いて何を理解しているのかきちんと対話しているようだ。
「俺は死んでねぇだろうが!!!結果的にそれでいいじゃねぇかよ」
どうやら動物達は、エキドナに騙されて危うくカインを殺しそうになったことに腹を立てているらしい。
「あぁもう黙れ!静粛に、だ!!!」
エキドナの蛇の体を引きずって群れから出てきたカイン。彼女は気を失ってだらんとしている。
「カイン!エキドナはっ」
「あぁ、気を失っているだけだよ」
「そう」
私はエキドナの体に駆け寄った。すると、よく見れば彼女の蛇の下半身を覆う鱗がキラキラと光っているのが見えた。
「これって…」
無意識に手が伸びて、指先がそっと鱗を撫でる。だんだんと透明になっていく様はまるで水のようで、やがて蛇の体は音もなく消え去り、そこに残ったのは人間の脚だった。
「どういうこと?」
「俺にも分からない…でも、彼女も本来は人間なんじゃないかな。あの警察官が言っていたのはこういうことだったのかもしれない。」
私たちは、胸で浅い呼吸を繰り返す少女を見つめていた。
掌に感じるのは、未だかつて触れたことのない、鎧のような硬い鱗の感触。艶があり、冷たいそれはまるで磨いた金属のようで、撫でると心地よかった。
『貴女は、本当にあのノア様なのですか?』
ドラゴンの片方の頭がその大きな口を開く。
「ええ、そうみたいね。」
『でも、方舟のノア様は…』
「知ってる。男だった。だから戸惑っているのね」
『信じていない訳では無いのですがね』
「私も、確証はないの。少し前に、記憶を全て失ってしまって…」
『では、貴女がエヴァ様と言うのは…?』
「それもどうやら本当みたい。でも、本来ならばアダムの肋骨の欠片から生まれたのはエヴァの筈なのに、欠けているのは私の肋骨なのよ」
『アダム様がご心配でしょうに、不謹慎でした。すみません』
「いいの。あなたの最速がこれならば、私はあなたに頼るしかありません」
『最悪の事態は免れられるよう、最善を尽くします…その、』
「私はリリノアよ。好きに呼んで、ラドン。」
私は遠く前を見つめる。眼下には雲が白い海のように広がり、空が近く感じる。
こんな、ドラゴンが存在するなんて世界に私は生きていたというの?四角く切り取られた世界がすべてだと思っていた頃が懐かしい。あの教会の中、陽の光も乏しい冷たい場所がこの世のすべてだと思っていたのは、本当に私なのだろうか?あの頃の私には、こうして空を飛ぶことなど想像もつかなかっただろうに。
(記憶のすべてを取り戻せる日は、いつか来るのかな)
じわりと熱くなった目頭から涙が落ちる。しかしそれは、私の手元に落ちることなく後ろへと流された。風が強まり、体が浮くような浮遊感に包まれる。
ラドンが急降下し始めた。
「ひゃっ!?」
『カイン様はこの下です!すみません、しっかりお掴まりください!!』
鉄の鎌のような翼が大きく1度だけ空を叩くと、そのスピードは何倍にも増して地面を目掛けて垂直に降下していく。私はラドンの太い首に手足を駆使してしがみついた。雲に飛び込み、暫く落ち続けると、やがて視界は開けた。しかし、曇り空の下は空気が悪い。何故、と思って周囲を見渡すと、眼下にあるのは広大な森林だった。しかし、一部分が広場のように円状に木がなくて、そこから黒い煙が上がっていた。
「火事?」
『いや違う…まずい!』
今までに無いほどの力強さでラドンが何度も何度も羽撃く。速く、速く、と彼が自身を急かしているように見えた。鱗がギシギシと音を立てて軋み、二つの首が大きく上下に揺れる。目的地がハッキリしたからか、ラドンは煙をめがけて突進する猪の如く速度を上げた。煙にやられて目が痛む。それでも私は目をこすり、意地と力で瞼を上げた。
そこで私の目に飛び込んできた光景は。
「やめろぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!!!!」
『グォォォォォォォォォン!!!!!!』
私の叫びとラドンの遠吠えが響いたのは同時だった。上空からでも、ハッキリ見えたのだ。
円形に上がる炎の中心に、一本の棒が立てられている。そこに括られていたのは気絶してぐったりとしたカインだった。その周りを飛び交うのは、エキドナの息子が内の1人、エトンだった。
(プロメテウスと同じ…!?)
炎の周りには様々な森に住むのであろう動物達が集まっている。リス、鹿、梟、狐…彼等に表情こそ無かったが、止めようとする意志もないことは見れば分かる。
凄い勢いで迫り来る地面、ラドンは炎に自分諸共突っ込むつもりのようだ。近づくほど、その炎の大きいことがよく分かってきた。思いの外広い範囲が燃えている。
あぁ、カイン。貴方がどうして気絶しているのかは分からないけれど、燃える熱さを感じなくて済んでいるのならそれは不幸中の幸い。
『炎は私達でどうにかします。カイン様の元へお急ぎください。』
半ば激突するように地面に着地する。空に放り出されたかと思ったが、ラドンが上手く投げ飛ばしてくれたようで自分の足で着地できた。そのまま炎をかき分けるように大切な人のところに駆ける。
「カイン!」
地面が熱くて、何度もよろける。煙を吸ったせいで頭がクラクラする。視界は相変わらず悪いし、涙で歪んでいるけれど、大好きな彼だけは絶対に見失わない。目一杯に手を伸ばし、未だ気を失っている彼の元へ飛び込んだ。
一瞬の安心の直後、それは恐怖へと変わった。飛びこんだ胸からは、心臓の音がしない。こんなに熱いのに、汗もかいていない。
「嘘…カイン!しっかりしてよ!!」
耳元に首を伸ばして叫ぶも、反応がない。
『リリノア様!早くカイン様を開放してください!縄が外れれば呼吸が戻るかも知れません!!』
頭上からラドンの声が聞こえる。大きな翼が羽撃く度に、炎はその風に吹き消されてゆく。
私は無我夢中で、彼を括っている布に噛み付いた。歯がキシキシと音を立てて痛むが、全く気にならなかった。早く、早く。今度は私が自分を急かしていた。
ビリッ…
布が解れ、そこから見る見るうちに崩れていく。私はそのまま布を引きちぎり、支えを無くして崩れ落ちたカインを受け止めた。
「もう大丈夫よ。ごめんね」
私たちを囲む炎は未だ切れ目を見せない。私は服の裾で口を覆い、深く息を吸ってから呼吸を止めた。今の私には彼を抱えることは出来ない。ルリアも助けてはくれない。なら、引きずってでもこの場を脱するしかなかった。
そう心を決めて、私は燃え盛る炎にゆっくりと潜り込んで行った。
気がつけば、炎の海を抜けていた。目の前は赤ではなくて緑に包まれていて、ちゃんと出てこられたのだと確信する。引きずってきたカインを見れば、彼もまた燃えることなく連れてこられたようだった。
力尽きたようにその場に崩れ落ちるも、私はふと我に帰ってカインを抱き寄せた。左胸に耳を当てても、やはり鼓動は聞こえない。
「…カイン、死んじゃったの…?」
虚無感に包まれた心が白く固まり始める。
嫌だ!と、そう叫ぼうとした時だった。
「見事ね。ちゃんと助けに来るなんて。」
声の主を見ると、そこにいたのは何とエキドナだった。
「貴女…貴女がカインをこんな目に遭わせたのの!?」
「…そうよ」
冷淡に告げられたその言葉に、怒りをぶつけたのは私ではなかった。
『母さん何故ですか!?彼はカインであると共に、アダムなんですよ!!?』
ラドンの太い声が響き渡る。しかしエキドナはそれにも動じず、再びサラリと答えた。
「知っているわよ?」
『何、』
私はふらつく足に力を込めて立ち上がり、彼女に近づいた。
「許さないわよ、エキドナ」
「何を言うの?私は彼にアダムの素質があるかどうかを試しただけなのに。」
「何ですって?」
エキドナが口を弧にして笑う。
「貴女、カインという神をそもそも知っている?」
「分からない、無くした記憶に含まれていたかさえ…でもそれが何よ」
「カインはね、弟アベルを殺したの。」
「…え?」
「その罪を問われるべき忌まわしい魂。それがカイン。でも、神の子であるアダムの素質があるのなら、彼は火炙りにしたくらいでは死なないはずでしょ?エヴァ様。」
「…そんなこと」
「何かしら?」
「そんなこと、関係ない!」
余裕げに笑うエキドナの瞳がさらに細くなり、私を嘲笑するように見下ろす。きっと、私が子供だからからかっているのだろう。でも、私だけでなくカインまでを巻き込み、あまつさえ殺そうとしたなんて。
「何よ、魂なんて…宿命って何よ!?不可抗力じゃないの!!私は、カインがアダムで、自分がエヴァで、だから必然的に好きになったんじゃない…今までに私を人として見てくれた人がどこにいたの!?私はずるいから、初めて気にかけてくれた彼に縋っているだけだと、自分でもわかってる。でも、それでも…っ!」
私は未だ地面に横たわっているカインの隣に膝をついて、もう1度彼の胸に耳を当てた。
ちゃんと、静かなところで聞けばわかる程度には鼓動が聞こえる。それだけで、涙が溢れてきた。
「…まってて、くれたんだね。」
汚れた手で涙を拭って、深呼吸する。大丈夫、助けられる。前に、アンから蘇生法を教わったことがあった。異端児ならではの確実な救出法を。
私は彼の顎を押さえて口を開けさせた。噎せたのか、その口内には灰が少しついていた。私は自身の下唇を強く噛み、血が滲んだのを確認してから半開きになっている彼の口にそっと触れさせた。
上手く行けば、私の血液に反応して目を覚ます筈なのだ。私は何度も傷を抉るように噛んでは彼に飲ませた。
「何を、しているのよ。カインは死んだ、つまりそいつはアダムでは無かったという事、」
「うるさい!アダムかどうかなんてどうでもいいのよ!」
あまりに腹が立って、エキドナを睨めつけるように振り向くと、彼女は初めてゾッとしたような顔をした。
「エヴァ、」
「私はリリノアよ。エヴァなんて呼ばないで。宿命なんて、彼が助かればどどうでもいいわ」
「…そんなこと言うなよ、リリノア」
「!!」
背後から弱々しく聞こえてきたのは、ずっと待ち望んでいた声。恐る恐る振り向けば、細く目を開けて、起き上がろうとするカインの姿があった。
「…イン、カイン!本当に、良かった…っ!怪我は?痛いところは?火傷もしてるよね、早く何処かで、」
涙を押さえきれずに彼の方に向き直る。我ながら酷い顔をしているのだろうな、なんて。
「大丈夫。言ったでしょ?俺達の身体は外傷に強いって。」
「うん、でも」
「心配かけちゃったな」
灰だらけの顔にあどけない笑みを浮かべ、彼は私の頭に手を置いた。
「ごめんね?」
「違う、私さっき…」
「違わない。身重な君に負担をかけてしまった。」
そう言って私の下腹部を撫でる彼は、いつも通りとまでは行かないが、思っていたより元気そうだった。
「でも、」
彼が膝で立っている私を下から見上げ、少し泣きそうな顔をした。普段見たことのないその表情に私が驚愕していると、次の瞬間には彼の腕の中に収まっていた。
「ちょっとだけ、熱かった」
目に入る彼の首筋は、焼け爛れた皮膚に血が滲んでおり、見ているだけで痛みが感じられそうな気さえする。
「…うん、もう大丈夫だよ」
私は傷に触れないように細心の注意を払いながら、その傷だらけの首にそっと腕を回した。
「ふぅん、本当にアダムだったなんてね。」
知ったかぶりをするかのように、エキドナが言った。私が言い返してやろうとすると、カインの手に口元を塞がれた。
「そうそう、エキドナ。カインがアベルを殺した理由を知っているかい?」
「えっ?なんでそんなこと聞くのよ。」
「だって、可笑しいじゃないか。」
私を開放した彼は、ゆっくりと立ちあがって周りを見渡した。そこには、まだ現状を見守っている動物達が大勢いた。
「何が可笑しいのよ。」
エキドナが少し焦っているのがわかる。カインは、勝ったと言わんばかりに見透かした目をしてエキドナに笑いかけた。
「カインを裁く、ということは、お前達はアベルの味方なんだろう?でも、理由を知っていたら動物達はアベルの味方にはならない筈なんだよ。」
動物達の視線が痛いほどにカインに集中する。葉が1枚舞い落ちる音ですらよく聞こえそうな沈黙に包まれて、少しずつ耳鳴りすらし始める。
「それはね、」
「やめろ…」
エキドナが耳を塞ぐ。耳鳴りのせいかな…?いや、それにしては苦しそうだ。
しかしカインは、その現状を楽しむようにいたずらに微笑み、そして続けた。
「アベルは、ヤハウェへの供物として羊の肉を捧げたからさ。」
動物達が息を飲んだ。言葉こそないが、動揺しているのがよく見て取れる。
「彼が行ったのは動物犠牲だ。もちろん、今の俺は人間として動物の肉を食らう。だから、彼を責めている訳では無い。寧ろ、悔しさから弟を殺したカインは重罪だ。だが、事実を知らずに踊らされる準加害者には可哀想だからね。」
カインはまるで他人のことを語るように話し終えた。そしてこちらを振り返り、私を立たせる。
「ごめんね、驚いただろう?カインは、そういう人間なんだ。きっと俺が監禁されていたのは、カインの魂を持って生まれたからなんだろうね。」
そういって苦笑する彼はすこし悲しそうだった。
「いやぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
突然の悲鳴。甲高いそれは、幼げな少女の声と化物の声が溶け合って不協和音を引き起こしたような雑音だった。
見れば、動物達に襲われるエキドナの姿があった。
「駄目だ離れろ!!」
動物達の群れに飛び込むカイン。梟の爪や狐の牙を逃れながらエキドナの腕を引いている。当の本人は泣き叫び、正気ではない。
「落ち着けよお前ら!!コイツはお前らを騙したけど別に傷つけなくたっていいだろ!?」
まるで人に話しかけるように話すカイン。動物達の鳴き声を聞いて何を理解しているのかきちんと対話しているようだ。
「俺は死んでねぇだろうが!!!結果的にそれでいいじゃねぇかよ」
どうやら動物達は、エキドナに騙されて危うくカインを殺しそうになったことに腹を立てているらしい。
「あぁもう黙れ!静粛に、だ!!!」
エキドナの蛇の体を引きずって群れから出てきたカイン。彼女は気を失ってだらんとしている。
「カイン!エキドナはっ」
「あぁ、気を失っているだけだよ」
「そう」
私はエキドナの体に駆け寄った。すると、よく見れば彼女の蛇の下半身を覆う鱗がキラキラと光っているのが見えた。
「これって…」
無意識に手が伸びて、指先がそっと鱗を撫でる。だんだんと透明になっていく様はまるで水のようで、やがて蛇の体は音もなく消え去り、そこに残ったのは人間の脚だった。
「どういうこと?」
「俺にも分からない…でも、彼女も本来は人間なんじゃないかな。あの警察官が言っていたのはこういうことだったのかもしれない。」
私たちは、胸で浅い呼吸を繰り返す少女を見つめていた。
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