神聖なる悪魔の子

らび

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35.罪の都

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 重たい瞼をゆっくりと上げると、まず目に入ったのは、あどけない顔をして眠るカインの姿だった。珍しいことに深く眠っているらしく、呼吸する度にゆっくりと動くのは胸ではなくお腹のようだった。
「ん…っ」
周りを見渡すために首を動かそうとするも、全く力が入らない。また長い時間眠ってしまっていたようだ。諦めて力を抜き、改めて目の前の彼を見る。相変わらず美しい。伏せられた睫毛はとても長く、そして髪と同じ白銀色をしていた。
 同じベッドに寝ていることは分かるのだが、どうやらピッタリとくっつけられているようでいつもより近い。少し顔を前に出せば、鼻と鼻が触れそうである。
 こうやって目覚めるのは、もう何度目だろう。一度目の記憶は、もちろんあの病室だ。そうやって思い起こしてみると、私が目覚める時は必ずカインが近くにいた。それはいつしか、私が何よりも安心する状況になっていた。
「…カイン、ありがとう。大好きよ」
「目が覚めたのかい、ノア。」
「!?!?」
とても小さく呟いたつもりが、背後から…思わぬ所から返事が来た。動かない固まった身体を解すように、優しい手が伸びてくる。首の根っこを掴むように緩く揉まれたかと思うと、両肩に手を当てられて1度だけぎゅっと強く押された。
「ちょっと我慢してな、すぐ楽になるから」
「えっと、おはようございます…アンさん」
「うん、おはよ。気分はどう?」
そっと脇の下に手が回り、持ち上げられるようにして身体を起こされる。
「…すこし身体がだるいですけど…でも、今のでかなり楽になりました、ありがとうございます」
「今は血液が下に溜まってるからそれ以上は動くんじゃないよ?少しずつ角度は変えてあげてたけど、人間の自然の生理現象には人工物なんて及ばない…っと、まためんどくさい話をしてしまいそうだね、私は。」
枕元においてあったポットから、アンさんが優雅にコップへと水を注ぐ。それを黙って私に差し出した。
「ありがとうございます…あの、」
「うん?」
「どのくらい…寝てました?」
「うーん…1ヶ月と、今日で三日目かな。」
予想通りといえば予想通りな答えが提示される。私はもう驚くこともなく、心の中で大きなため息さえ零していた。
「もう慣れて驚きもしない、か。まぁそうだよな、1年や2年眠ったところで何も変わらないだろうよ。」
そう言いながらおもむろに立ち上がった彼女は、小さな足音を響かせながら勢いよくカーテンを開け、そのまま窓を観音開きにした。暖かい陽気がふわりと部屋に舞い込み、凍った冬のようだった部屋に春が訪れたようだ。
「カーテン、まだカイン寝てるし、」
「あぁ、放っておきな。どうせ起きやしないよ、睡眠薬の量が違うから。」
「睡眠薬!?」
また彼女は、本人の許可なしに医薬品を投与したらしい。カインが彼女と暮らすようになったころは、毎日のように睡眠薬や麻酔薬の実験台にされた日々もあったとか…まぁ、アンさんだから安全なのが確認されたものしか投与してなかった…だろう、けど。
「ごめんね、ノア。私がちょっと忙しかったのよ。あんたもカインも、もしかしたらもうとっくに目覚めてたかもしれないんだけどさ、私の手が空いてから目覚めて欲しかったものでさ…ははは」
「つまり、アンさんの手が空いてから目が覚めるように調整したってこと?」
「まぁ、そういうことだ。」
将又、器用なことをしてくれるものだ。
「さて、お茶でも入れるから場所を変えないか?色々話さなきゃならんことがあるんだ、お前と。」
また椅子に座り直したアンさんが、その白くて細い綺麗な指の腹を私の鼻先にピッと優しく突き立てた。改めて間近で見たその手は、爪の先まで美しくて、思わず見とれてしまいそうだった。ネイルカラーなんてとても似合うんだろうな…なんて、どうでもいいことを頭の片隅で思い起こしながら。
「話…?」
「そ。赤ずきんに成り代わった狼の話を、な。」
まるで童話を語るような、しかしどこまでも真剣な声でアンさんは言葉を紡ぐ。私の胸の奥には、懐かしさと、もやもやとしたよく分からない感情が重く渦巻いている。これから話すことっていうのはきっと、私にとってはとてもとても良くないものなのだろう。

 「まずはじめに言っておくと、お前は一ヶ月前に本邸にいた。それは覚えているかい?」
「はい。」
穏やかな昼下がり、暖かい紅茶とシフォンケーキを口にしながら静かに時は流れた。鳥のさえずりがそのままバッグミュージックになるような、平和な時間である。
「そこで、お前は人を襲ったんだ。そのことは記憶にあるかい?」
「っ…いいえ、ごめんなさい」
嫌な予感はしていたが、予想の範疇からは大きく外れた。とんでもないことを言われたのに、この緩やかな空気がどこか話を非現実的に捉えさせ、私を冷静の元に送り届けてくれる。
「いや、謝ることじゃない。たしかに瀕死の傷を負った者はいるが、お前の意思ではない以上、お前を責めるのはお門違いってわけだ。一先ず安心したよ、私は。いや、疑いもしなかったから当然かな。」
目を細めて笑ったアンさんは、小さな溜息をつきながら組んだ足を組み替えた。
「でも…」
私の不安はよりいっそう深くくらい影を心の奥底に落とす。そう、それはけつまつではなくはじまりなのだから。
「お前の意思じゃなくてよかった…と、一息つきたいところだが。それは重大な問題でもある。それは分かるな?無意識というのはコントロール出来ないという意味でもある。だが、言わばお前は母鳥を亡くして間違った飛び方で飛ぶ術を身につけてしまった雛のようなものだ。コントロールの仕方など誰にも教えることは出来ないだろうな。」
「カインは…どうやって覚えたの?」
「あいつは…」
突然苦い顔をするアンさん。だがその顔はどこか困ったような色も僅かににじませており、慈しんでるようにも見えた。
「アンさん?」
「…いやぁ、あいつも散々やらかしてくれたよ。私も噛み付かれたしなぁ。だが所詮は子犬だった。いや、充分大きかったが…普通は、人間として子供のうちに狼に変化し始めるものなんだ。まぁ、私だって見てたのはあいつだけだけど…資料とかは本邸に腐るほどあるからな。そこから推測すると、お前のように大人になってから変化し始めた例は無い。」
そこまで言うと、彼女はティーカップに残っていた紅茶を飲み干した。そうしてケジメをつけているように見えた。カップを静かにソーサーに戻して、鋭い瞳でこちらを見た。私は思わず背筋を震わせる。美しい人の鋭い顔ほど怖いものは無い…穏やかな昼下がりには似合わない表情だった。
「ノア。荒療治かもしれないが、お前を無理にでも狼になれさせる必要がある。なにか覚えてることは?」
「えっと…」
覚えていること、と言われてもその当時の記憶がすっぽりと抜けているのだから、ないものを探すようなものである。じゃあ、そのとき私はどこにいた…?

(…紅くてくらい世界…一匹の蝶が舞う…)

「…あか」
「赤?」
無意識に思い起こされた景色に呑まれ、見た色を口にする。確かに、赤い世界だった。でも、煙にまみれていて、前を見ようとしても視界は霞んで、吸い込む息は喉を爛れさせるほどに熱を帯びていて。
「そう、紅い夢を見た。空も雲も赤黒くて、真っ黒な煙がそんな苦しくなるような空さえも覆い隠して、目が眩んで、割れたワイングラスが時を刻むの。すべてを投げ出したくなるような世界…」
思うように言葉が紡げない。あの風景をなんと形容したらいいのかがわからずに、幼い子供のように説明する。我ながら滑稽だとは思うが、それでも必死に聞いてくれる義姉の様子に安堵しながら夢の記憶を語る。
「私の他には誰もいなかった…声もしない。聞こえるのは建物が焼けて崩れる音。断末魔さえも許さないような、激しく弾ける音。すべてを焼き尽くす嫌な匂い…孤独なのは怖いこと。あれはまるで、私がいちばん怖がることを形にしたようだったわ。」
胸が苦しくなって、気がつくと両手でネグリジェの襟元を緩めていた。アンさんは少しの間目を閉じて黙っていた。しかし、数秒と経たないうちに再び目を開け、今度はまた穏やかな瞳をして私より少し上を見上げた。
「なぁ、ノア。お前、ソドムの話は知ってるか?」
「そどむ?」
「あぁ。旧約聖書に出てくる滅びた都市だ。お前の見た都市は、もしかしたらその滅びた日の1部かもしれないと思ってな。」
「ソドム…分からない。あ、でもひとつだけ」
もう一つ、強く覚えているもの。それは。
「苦しくて、何もかも諦めようとした時、真っ白な蝶が私の前を飛んでいたの。あの煙の中で煤汚れ一つない、真っ白な輝きを放つ蝶が、1匹。」
「蝶…それで、そいつはどうなった。」
「詳しいことは覚えてないの…どこへ行ってしまったんだろう」
そこまで思い出すと、経った今まで語っていた内容さえ遠のいていくように、記憶に霧がかかり始めた。
「うぅ、だめだ。思い出そうとするほどと消えていく」
「オーケー、もういいよ。一回落ち着こう。ソドムか…もしかしたら、それはお前の中にいる誰か神や神話の記憶の1部かもな。だが、ソドムとは異なる点が幾つかある。わかりやすいものから言うと、その白い蝶は異物だ。そんなものがあったはずが無い。何かを暗示する夢だとしたら、それが答えを示している何かなんだろうな。それから、ソドムが焼き払われた時の悲鳴は酷いものだったと聞く。なにせ、住んでいる人々を殺すために焼いたからね。」
「なぜ!?どうしてそんな酷いことを!」
「ソドムには、悪しき者共が蔓延っていたからね神はソドムを滅ぼすべきか考えた時に、使いの…天使を2人送り込んで、善人が10人いたら滅ぼさないと約束したんだ。だが、そこにいた善人はアブラハムの血族であるロトとその妻と二人の娘だけだった。つまり、4人。だから神は、その四人を逃がしてからソドムを滅ぼしたんだ。悪人たちを焼き払うためにな。しかし、ロトの妻は、逃げる時に振り向くなと言われたのに振り向いた罪で塩の柱となったと聞く。残りの3人も、大して幸せにはなれなかったそうだ。簡単に話すと、これがソドムの罪、ソドミーってやつさ。ソドムとくるとゴモラという都市も出てくるんだが、まぁそれはいいか。似たような話さ。」
 今更私が悩んだところでこれっぽっちも利がないことなど分かりきっていても、少し考えてしまう。神から見た人間など、どれも悪人に見えるのではないか。そして、そんな人間を生み出したのも神だというのに。それで焼き払ってしまおうなど、神の方が人間よりよっぽど獰猛に思われてならない。
「うーん、なにか覚えてればそれがきっかけで狼にでもなりはしないかと思ったが…そう簡単には行かぬな。さて、そろそろ下院の薬が切れるかな。起こしてくるから待っててね」
私の覚めたティーカップと自分の分を重ねたアンさんは、トレーにティーセットを載せて立ち上がった。そのままキッチンに立ち寄ってそれらを置いてから二階への階段の扉の無効に消えていく。

(白い蝶…ほんとに、どうなったんだったかしら?)

『本当に覚えていないの、ノア?』

久しぶりに聞く声が脳裏をかすめる。彼女の声はいつも通り優しく、しかし今日はどこか不安げである。

『本当に?よく思い出してご覧なさいよ』

同じといを繰り返す。その声は、間違いなくルリア。

「おぼえていないの。思い出そうとすると、遠ざかる…ねぇ、ルリアは何か知ってるの?」
『知ってるわ、すべて。あなたのことなら何でもね。でも、これは思い出さなきゃダメなこと。蝶はひらひらと舞い、あなたは興味本位で手を伸ばした。そして…さぁ、この次はどうなったのかしら?
思い出して。』
何もなくなったテーブルの中心あたりを見つめて喉を唸らせる。
 
 朝が舞い上がった。手を伸ばした。それから…

「そうだ、私、触ったんだわ。そして蝶は…」

指先に鮮明に蘇る感触。触れた瞬間、輝きを失った羽が、バラバラともろく崩れてゆく。

「蝶は…っ…はっ」

灰になって、熱風に舞い上がって。

「私、がっ…」

やがて、砂塵と化して空中に消えた。

「わたしが、ころしたんだ」

『ちゃんと思い出せたわね、いいこ。』
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