神聖なる悪魔の子

らび

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36.覚醒

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カインSide

 目が覚めると同時に階下から聞こえてくる破壊音。…いや、なにか大きなものが倒れるような音だ。ときどき、冬季の割れるような鋭い音が響く。
「リリノア!?」
俺を起こしに来た姉が血相を変えて部屋を飛び出す。俺はまだ、いくらか麻酔の抜けきらないぼうっとした頭でそれを眺めていた。だが、少女の名を耳にした途端、すべてが思い起こされる。ノアがあの音を立てているとしたら、そんなにあばれまわる理由があるはずだ。そして、とても懐かしい、身に覚えのある想像に合点がいく。
(そうだ、あれは。慣れるまでの地獄の日々の音だ。)

 幼い日、疼く身体を抑えることが出来なかった。ぞわぞわと全身をめぐる痺れが、すべてを破壊したいような、すべてを投げ出したいような、そんな衝動となって己の身体を支配していった。自我を保つことも出来ない、荒ぶる獣だった。そうして俺は、大切な姉に牙を剥いたのだ。幸いにも俺はまだ子供だったから、姉は俺の口の中に手を割入れて、大量の血を流しながらも押さえつけ、宥めたという。俺が我に帰った時、その血まみれの手で俺をしっかりと抱きとめていたのをよく覚えている。大丈夫、大丈夫だ、と。俺に言い聞かせるように強く繰り返したが、あれはきっと自分自身にも向けられていたのだろう。
 ボロボロになった服、姉の血まみれの手、口内に残る鉄の匂い、あたりに刻まれた鋭い爪跡。俺はすべてを理解した。俺の中には破壊欲が眠っている。…いや、防衛本能の超過とも言えるだろう。精神状態の不安定だった、地下室脱出直後の俺は、何でもないことが怖くて、けれど怖いという感情を知らず、心に押しとどめて持て余していたのだ。いわゆる、情緒不安定というやつである。毎晩、見てもいない悪夢に魘されるかのように眠る俺を見かねて、姉がそっとベッドに入ってくるのだ。乱れた心が落ち着いたのは言うまでもない。
 心の不安定なときは、無意識に、いない何者かから身を守ろうと身構え、疲労するものだ。得体が知れるまでは苦労するだろう。
 
 きっと今、ノアは正しくそんな状態なんだろう。どうしようもない感情を持て余し、いうことを聞かない身体にもどかしさを感じ、誰かに迷惑をかけているような罪悪感に苛まれる。肯定は否定に受け取り、自分を奈落へと突き落としている、そういう時期なのだ。
「次は、俺がよりそう番だって決めたじゃないか…しっかりしろ、カイン。」
そこまでゆっくりと思考回路を回すと、少しだけ目が冴えたように思えた。
 いかなければ、という使命感に駆られてベッドを降りる。少し歩かなかっただけでかなり筋力が衰えたようで、ゆっくりゆっくり1歩を踏み出すしかない。
 今も尚、壁に何かぶつかるような鈍い音や、皿やコップの割れる音が度々聞こえてくる。

「まって、ノア。今行くから!」
掠れた声で階下に叫ぶ。すると心做しか、物騒な物音がしなくなった。そのかわり、木を削るような音と唸り声が僅かに耳をかすめる。俺はやっとの事で階段を降り、無残に蹴り開けられて倒れている扉を跨いだ。
 部屋は言うまでもなく荒れていた。倒れた食器棚の下で、ラブラドールより一回り大きいくらいの銀狼が、傷だらけになってもがいている。その首には姉さんがすがり付くようにしてしがみついており、その細い腕もまた血濡れである。もはや自身の血なのか返り血なのかも定かではない。部屋に踏み入れた瞬間に割れた陶器の破片が俺の足裏を小さく切りつけたが、構わずに足を進める。そして食器棚を起こし、目の焦点も合わない、言葉を失くした獣の少女に語りかけた。
「大丈夫だよ、ノア。何も怖いものはいない。誰もお前を鎖で繋いだり、辱めたりなんかしない。君は一人の人間になったんだ、誰も君のテリトリーを犯す者はいないんだよ。怖くない、怖くない」
両手で狼の頬を包み、鼻を突き合わせて囁く。やはり、彼女の暴走は彼女の意に反していたらしく、自身を制するようにノアは悶えた。
「戻り方はわかるかい?思い出せ、人間たる君の姿を。紅い隻眼、白銀の髪に優しい微笑みを覚えた君の姿を。」
言葉は通じる。ノアはゆっくりと深呼吸した。それを確認したアンが、しがみついていた腕を解いた。
「さぁ、帰ってこいリリノア。俺は…カインは、ここでお前の帰りを待っているんだ。」
「…カイン」
喉の奥から狼が絞り出した声は、その獣の姿をしてもなお、鈴の音のようないつもの声音の面影を残していた。
 いつもは隠されている、彼女の右目がゆっくりとこちらを向く。縦に細長い瞳孔を持つ、呪われた蛇の目だ。一瞬息を呑んだが、きちんと向き合うと決めたのだからと改めて見つめ返す。すると、安心したように蛇の目には瞼が降ろされ、美しい狼は砂の城を崩すように原型を崩壊させ、一人の少女へと還元した。
「ごめん、カイン…ごめんね」
力なく泣きついてきた彼女に押し倒される。ノアは見た目相応の少女のごとく俺の胸で声を上げて泣き始めた。アンは…と姉の方を見れば、どうやら擦り傷のみで殆どは返り血だったようで、何事も無かったかのようにゆるりと立ち上がった。
「ふぅ、これでとりあえずは元通りかな。カインも目覚めたし、ノアも落ち着いたし。とりあえず仕切り直そう、二人共着替えておいで。」
さながら子供の面倒を見る母親のように俺たちふたりを部屋から追い出したアン。その優しさに甘えてしまう自分の不甲斐なさに若干の苛立ちを覚えながらも、ノアと手を繋いで部屋を出た。

 リリノアSide

 着替えを終えた私はカインに連れられて、ダイニングルームのテーブルを3人で囲むように座る。焼きたてのパンケーキと紅茶を用意してくれたアンさんは、1冊の茶色いノートを手に口を開いた。
「さて、これから話さなければならない点は幾つかあるが。まず初めに、ノアが夢で何者家から預かった伝言についてだ。確か、ダイアナが近くにいるから目を抉られないために蛇を放て、だったな?あれの意味を、ノアは知らなかったようだが…」
そういえば、そんなことを言われた。本邸に行く前ということは、もう何週間も前のことであり、私自身忘れかけていた。
「あれの意味は、今回の出来事そのものなんだよ。お前が銀狼のほうの能力を目覚めさせようと促したものだ。ノア、お前の封じられている右目には蛇の力が宿っているみたいなんだ。詳しいことはわからないがな。そして、お前が持っている銀狼の能力…それは、カインが切り落としたオルトロスの首の片割れなんだ。昔、お前を守ろうとしてカインは片首を差し出したんだ。それが巡り巡って手元に帰ってきたわけだが、お前達の魂は双子でね。カイン自身ではなく分体のお前に返った訳だ。まぁ、カインとしては好都合だったかな。」
ふとカインの方を見ると、俯いたとも取れるような雰囲気で頷いた。
「…ゼウスの館で貴方のオルトロスの姿を見た…そのとき、あなたの首元に大きな傷跡があったのは、切り落とした首の跡ってことなの?」
静かに尋ねれば、彼の瞳が大きく見開かれた。
「気づいて…?」
「えぇ。暗かったからよく見えなかったけどね。」
「まぁ、そんなところだ、な。」
誤魔化すように紅茶を啜る彼は、どこか遠い目をしているようにも見える。
「苦しかった…?」
優しい彼がなんて答えるかなんて分かりきっているのにそんなことを尋ねる私はずるい。それでも、聞かずにはいられなかったのだ。
「リリノア、お前は当時の話を聞きたいと思うかい?」
「えっ?」
「姉さん、その話は」
何か言いかけたカインの口元にそっと指を当てたアンさんが私に尋ねる。
「お前は、昔の記憶を取り戻したいと思うのか、という意味でもある。どうだい?」
「…」
「もしも、心のどこかで思い出したくないと思っていたりするのなら、記憶を取り戻すのは少し難儀なことになる。だが、ここで嘘をついても仕方が無い。本当のことを言ってごらん?」
「…私は…………」
決して、責めるような口調ではなかった。それなのに、私の中では卑屈になったような感情が黒くうずまき始める。思い出したい、と素直に口にできないのは、ドライアドの森で見た私のかつての姿と思われる情景に、確実に恐怖を感じてしまったからだ。すべてを受け入れられる自信が、少しずつ揺らいでしまった。
「知りたくないわけじゃないの…でも…」
二人が息を呑むのがわかる。そう、私が知らないというのは、二人への負担に直結する。いつまでも気を使わせておくわけにも行かないのだ。
「怖い…なんだか、今ある仮の自分が、いなくなってしまう気がして…いいえ、いなくなるべきなんだろうけど…」
「リリノア、お前そんなこと考えていたのか」
小さく、隣にいる私にさえ聞こえるかどうかわからないような声で、カインが呟いた。
「うん…」
「だから、自傷行為に走ったって言うのか」
「えっ…?」
「バレてないと思ったか…?いや、実際俺は気付けなかった…だが、お前の身体に俺たちの治癒力さえ作用しない深い傷があるのは知っているんだぞ…」
鋭く、赤い閃光が私を睨みつけるように注がれる。カインは、怒っていた。
 傷を作ったのはもう数週間前のことだった。私はなにかに追いかけられ攻め立てられる様な幻覚に惑わされるようになり、その度に近くにあったナイフやハサミで自分の体に痛みを加え、冷静を保った。しかし、簡単に治ってしまう傷と、いつまでも痛み、治らない傷があることに気がついた。私たちの体は頑丈に出来ていると聞いたが、このふたつの違いはとうとう分からないままだったのだ。
「…治らない傷は、骨に達しているんだよ。知らなかったろう、ノア。」
「え、えぇ。」
アンさんが目を伏せてそっと教えてくれる。
「俺じゃぁ、そんなに頼りないのか」
「ちが、」
「じゃあどうして何も言ってくれないんだ!?」
ガタン、と音を立てて立ちあがるカイン。こんなに起こっている彼を見たのはゼウスの館以来であるように思う。 
 私はさながら蛇に睨まれた蛙のように動けなくなった。
「…私自身…何が起こって…あんなことしたのか…」
情けないくらい震える声がか細くつむぎ出される。そんな自分の弱さに腹が立ち、どうしようもない想いが涙になってこぼれ落ちた。
「私…どうしちゃったんだろう…分からない…分からないの…」
上擦った声が暖かいこの空間に響き渡る。過呼吸気味で上手く喋れずにいる私を、二人は黙って待っていてくれた。
「ごめんなさい、ごめんなさい…っうぅ、本当は、私…怖くて…っ、何がしたい、のか、自分でも…っ」
あぁ、私はまた、二人を困らせているんだ。そんなこと、私だって望んでないのに。

 ほんの数秒か、あるいは数時間か。私の時間の感覚が狂った頃、カインはそっと私を抱きしめていた。というより、私はいつの間にか彼の膝に抱えられて泣いていた。
「悪かった、ノア。お前が言えない正確なのは分かっていたさ。俺のせいだね、って言ったらお前はまた気負うから、今の俺からは何も言わない。だから、嘘をつくのはやめろ。思うままでいい、危なくなったら俺が止めてやる。」
「…うん…、」
完全に、あやされている幼子だった。それでも、彼の腕の中は心地よく、ずっとこのままでいたいとさえ思えてしまった。
「とりあえず、ノアは記憶を取り戻すことには前向きってことでいいんだな。」
私は涙で霞んだ目をアンさんに向けて、小さく頷いた。
「分かった。ならば、お前達はいい加減結婚しなさい。」
「えっ」
「はぁ!?」
サラリと告げられた唐突なお達しに、私もカインも唖然とするばかりであった。
「いや、実を言うとね、そろそろもう1人を産んでおいたほうがいいんだよ。」
「そろそろって?」
「ノアの胎盤が、あんまり時間を開けすぎると固くなっちまうのさ。ただでさえ昔から月経不順なお前の場合、5年以上あけないほうがいいんだ。」
「は、はぁ」
「ま、これも異端児特有の周期として私がたたき出した打算だから証明はできないんだけどな。」
「で、なんでそれが結婚に繋がるんだよ」
「まぁ、二人とも結婚できる年になったし~あとは、結婚してる状態での子供の方が手続きが楽だから。」
「なるほど…」
そういえば、私が最初に生んだ子の手続きやその他もろもろはどうしたのだろうか。…いや、きっとアンさんがすべて片付けてくれたに違いない。
「ノア、お前はどうしたい?」
カインがこう聞いてくる時は、私にすべてを託した時だ。これは、するかどうかの確認ではなく、今でいいかという問だろう。何せ、私達は二年前のクリスマスの夜に、婚約を既に果たしているのだから。
「うん、そうだね。そろそろいいかも知れない。」
「よし、じゃあ決まりね。後で本邸から契約書類持ってくるからその時はまたよろしく。じゃ、一旦片付けようか。」
テーブルの上にあったティーセットや空になったお皿を重ねていく。それらをシルバーのトレイに載せて、アンさんはキッチンの方へと姿を消した。…と、思った。しかし、彼女は一瞬の後に何かを思い出したように顔をひょっこりとのぞかせた。
「そうそう、もうひとつ聞こうと思ってたんだけど…」


「アンタらさぁ、子供に会うつもりは無いかい?」
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