彼女は小石

よなぷー

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番外編・夏休み初日

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「オッケー……」

 私は私立常成高校2年E組所属、峰山香織みねやま・かおり。読書部副部長でもある。その私の口から漏れたのは、今日の終業式後の部活で、一つ上の先輩から言われた単語だった。その先輩の名は大蔵秀三おおくら・しゅうぞうという。読書部部長だ。

 オッケー。それはつまり、私の告白がみのったということでもある。2月に秀三に告った答えが、約5ヶ月を経て、私の鼓膜に届けられたのだ。それは何ともあっけなく、あっさりしたものだった。

 だが間違いではない。これで私と秀三は正式にカップルとなったわけだ。私は湯船に鼻まで沈み込む。目の前で立ちのぼる湯気を見つめながら、その実感の湧かない新たな関係性に、ぼんやり考え込んだ。

 告白の答えなんてものは、もっと劇的な場面で言うだろう、普通。なんで部活の雑談でさらりと口にするのか。その怒りで思わず秀三を軽く叩いてしまったが、恋人としてあれはまずかった気がする。取り返しはつかないが。

 あの後は登山用具の買い出しとかで、秀三は1年の田辺篤彦たなべ・あつひこを引き連れてさっさと下校してしまった。その後、彼からの連絡はない。LINEですらだ。これはどういうことだろう? やっぱり後悔して取り消し、とか?

 私は一人で悶々もんもんと考え込む。水面の上にあごを戻し、長めのため息をついた。

「夏休み」

 明日から夏休みが始まる。時間はたっぷりあった。自分ひとりでくよくよと悩んでいてもしょうがない。私は風呂から上がった。



「長かったわね、お風呂」

 姉のまいが、寝巻き姿で出てきた私の肩を叩く。楽天家で20歳の大学生である舞は、私の書く小説の熱狂的読者だった。

「また新作の構想でもってたんでしょ? 違う?」

「違う」

「あれ、じゃあなんで長湯したの?」

 私はタオルで髪の毛をぬぐいながら、その動作で上気した顔をこっそり隠した。あっさりした返事、いつまでも寄越さない連絡――そんなドライな恋人のことを熟考していた、なんていえるわけもない。

「無言」

 案のじょう舞は不満顔になった。

「何よー、私にも言えないことなの? ふーんだ」

 舞は風呂に入るべくすれ違って行ってしまった。そのとき、ふんわりとこころよい芳香《ほうこう》がほのかに漂う。

「香水……」

 大学生ともなると、色々おしゃれに気を使うのだろう。私は2階の自室へ引っ込むべく階段を上がっていった。



『秀三、私たちは恋人同士になったんだよね? これからどうする? 明日、どこかで会おうか?』

 言葉に出しては単語になってしまう私だったが、ペンやスマホやキーボードでは驚くほど饒舌じょうぜつだった。もちろん、そうでなければ小説や読書感想文など書けるわけもない。

 とはいえ、さすがにこの確認は気恥ずかしく、決定ボタンを押すまで何度も改訂かいていしてしまった。

「送信」

 さすがに既読は早々つかない。5分ほどスマホを眺めてから、私は眠気に耐え切れず、明かりを消して寝床にもぐりこんだ。



『返信が遅れてすまない。それじゃ朝9時にバイクで迎えにいくから、ちょっと付き合ってくれるかね?』

 外はすっかり明るくなっており、カーテンの隙間から朝日が差し込んできていた。秀三からのLINEでの返信は、昨夜私が寝てから10分後につけられていた。私は現在の時刻が9時30分であることに気がつく。シーツを跳ね除けてベッドの上に立ち上がり、何度も文章を確認した。

 何てことだ。せっかく秀三がくれた連絡に、まさか眠っていて気付かないとは。9時? 30分前だ。すっかり寝坊してしまったではないか。

 私は寝巻き姿のまま、狂気のように部屋を出てどたどたと階段を駆け下りる。そうしながら『今気付いた。ごめんなさい。現在どこにいるの、秀三?』とスマホに打ち込んだ。

 ともかく1階にいるであろう母さん――あずみに、来客があったかどうか聞かなくては。気がいて周りのことがおろそかだった。ドアを開ける。

「えっ」

 目の前に、その肝心かなめの秀三がいた。母さんと向かい合ってソファに座り、ともにアイスティーを喫している。夏らしく軽装だった。二人がこちらを見る。

「峰山くん、おじゃましているよ。凄い格好だね」

「香織! 何て格好しているの!」

 言われて気付いた。今の自分は、ほとんどスケスケのネグリジェのままだったのだ。私は目から火が吹くのではないかと思うほど全身が熱くなり、慌てて2階に戻っていった。



「実は8時55分にここに着いてね。応対に出てくれた峰山くんのお母さんから、まだきみが寝ていると知らされて、どうしたものか迷ったんだ。でも、それなら娘が起きてくるまで少し話しましょう、とお母さんに誘われてね。それで上がらせてもらっていた、というわけだよ」

 私は今度は外出用のシャツとハーフパンツに着替えて、居間で秀三の説明に耳を傾けていた。ふがいない姿をさらした自分と、それを見た秀三へのちょっと理不尽な怒りから、膨れっ面を抑えられない。

「まあそう怒らないで。すまなかったね」

 秀三は笑みを浮かべながら、ストローを口にくわえて紅茶をすすった。私も自分の分を一口だけ飲む。母さんはとっくに引っ込んでいた。

「目的地」

 秀三が空のコップをコースターの上に置く。

「これからバイクで行く先かい? いや、実は特にはないんだ。今は明日に迫った、小石くんの故郷訪問で頭がいっぱいでね。それもあって、今日は軽めのツーリングといきたいところなんだ。何せ――」

 秀三の表情がやや思い詰めたものになる。

「何せ、明日の冒険で危険な目にったり、事故に出くわしたりして、二度と帰れなくなるかもしれないからね……」

 私はふと秀三を見つめた。七三分けの黒髪、二枚目の器量、黒縁眼鏡、すらりと高い長身。せっかく恋人同士になったのに、二度と帰ってこられなくなるなんて。

 そんなの……

「嫌!」

 私は悲哀とともにきっぱりと言った。受け止めた秀三がまた口角を上げる。

「大丈夫さ、今のはちょっと言ってみただけさ。田辺くんも小石くんもいるんだし、万全だよ。怖がらせてすまないね」

 秀三は立ち上がった。私に手を差し出す。

「じゃ、行こうか」

猶予ゆうよ

「え?」

 香織は秀三を待たせて1階の化粧台に向かった。そこには昨日舞が体につけていた香水の瓶が置かれていた。オードパルファムとかいうらしいが、よく分からない。姉の化粧品を勝手に使用してしまうことについては、後で謝っておこう。香織は香水を適量手の平に取り、うなじと耳の裏になじませた。確かこれが正しいつけ方だと思っていたけど、合ってたっけ?



 秀三のバイクはスズキの『GSR250』だった。シートが直射日光でだいぶ熱くなっている。秀三はヘルメットを被って黒縁眼鏡を付け直すと、私にもヘルメットを渡した。

 フルフェイスのこれ、被るんだ。これでは香水の意味がない。

「実はこの愛車の後部シートに女子を乗せるのは初めてなんだ」

 秀三は照れたように視線をそらした。バイクにまたがる。

「いつか、好きな人を乗せて走らせてみたいって、ずっと思ってたよ。今日はそれを叶えにきたといってもいい」

「秀三……」

 私の脳裏に、読書部OBの早野結はやの・ゆいの顔がよみがえった。秀三は去年バイクの免許を取得したというから、当時好きだった結を本当は『初めて乗せる女子』としたかったに違いない。

 だが彼の口振りからすると、秀三は結への想いを綺麗に清算して、今は私を好きになってくれているのだろう。胸が温かいもので満たされる。

「特に目的地を決めず、お腹が空いたら美味そうな店で食べて、喉が渇いたら涼しそうな店で一服しよう。……デートと呼べるものでもないけど、今日のところはこれで満足してくれたまえ」

 私の告白に対する、あのあっけなくそっけない「オッケー」の言葉。恐らく秀三は、その軽さを今日のツーリングで補おうとしているのだろう。つまり今日のこれは、本当の意味での「返事」なのだ。

 私はふっと笑う。自分も性急な付き合いをしたいわけじゃない。秀三が楽しいなら私も楽しい。私はヘルメットを装着すると、まだ女子が座ったことがないという後部座席にまたがった。何となく誇らしい気持ちになる。眼前に広い背中があった。秀三の、気を許した背中。

「遠慮なく抱きついてきたまえ、峰山くん。落ちないように気をつけて」

「了解」

「……あ、ところで峰山くん」

「ん?」

 秀三は賛嘆するように笑った。

「今日は香水つけてるんだね。華やかな香りがするよ」

 どうやら気付いていたらしい。私は少しドキッとしながら、「そ、そう」と返した。

 秀三がエンジンをかける。爆音がとどろき、バイクが振動し始めた。

 これは最初の一歩。お互いに『好き』を深めていく、その過程の始まり。

「じゃあ行こうか、峰山くん!」

「承知」

 二輪車は私たちカップルを乗せて、意気揚々と発進した。風が吹いてこずえが揺れる。空いている道路は走りがいがありそうだ。

 私は目の前にいる男子を思い切り抱き締めて、夏の景色の中を運ばれていくのだった。
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