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第5部 赤壁大戦編

歴史解説 赤壁の戦いその2

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 三国志で最も有名な戦い、赤壁せきへきの戦い。前回は新たに荊州けいしゅうの主となった劉琮りゅうそう曹操そうそうに降伏したところまでを述べた。今回はまずはそれを受けての劉備りゅうびの動向から述べていこう。


 ◎劉備りゅうび樊城はんじょう撤退


 『劉備りゅうびはんに駐屯していたが、曹操そうそうの来攻を知らず、曹操そうそうえんに到着して初めてこれを知り、自分の軍勢を率いてはんを引き払った。途中、襄陽じょうようを通過する時、軍師の孔明こうめい劉琮りゅうそうを攻撃すれば荊州けいしゅうを支配できると進言したが、劉備りゅうびは「私には忍びない」といって従わなかった。』[先主せんしゅ伝]

 孔明こうめい劉琮りゅうそうを攻撃すれば荊州けいしゅうを支配できるという発言は、安易として批判的な意見が多いが、劉琮りゅうそう後継と曹操そうそう降伏を、襄陽じょうようにいる蔡瑁さいぼうら一部の重臣たちのみで決定したのであれば、ある程度勝算のある判断だったのではないか。

 劉琮りゅうそうを廃しても劉琦りゅうき擁立ようりつすれば、正統性を確保することができるし、襄陽じょうよう以南の荊州人けいしゅうじん劉琮りゅうそう後継、曹操そうそう降伏を知らない、もしくは承服していないなら蔡瑁さいぼうらさえ除けば、元々、対曹操そうそう戦で劉備りゅうびが中心となることは劉表りゅうひょう生前から決まっていたのだから支持を得ることも不可能ではない。

 問題は既に目前まで迫っていた曹操そうそう軍の到達が早いか、襄陽じょうよう占領が早いかという時間の問題だが、新野しんやにいる文聘ぶんへいを引き込むことができるのであれば、ある程度の時間稼ぎは可能だろう。

 だが、劉備りゅうびには劉表りゅうひょうに申し訳ないという気持ちもあっただろうが、やはり時間の無さが問題であったのだろう。

 襄陽じょうよう占領するには、少なくとも事前に劉琦りゅうき文聘ぶんへいの協力を得ておく必要がある。だが、文聘ぶんへいには既に劉琮りゅうそうから曹操そうそう軍と戦わないよう連絡がいっているだろうから、その上で自分に従うよう説得しなければならない。劉琦りゅうきが手許に入ればあるいは説得できるかもしれないが、劉琦りゅうきは遠く江夏こうかの地にいる。

 劉琦りゅうきのいる江夏郡こうかぐんまで連絡を取り合う時間、文聘ぶんへいを説得する時間を考えたら、やはり曹操そうそう襲撃前に襄陽じょうよう占領を完了するのは難しいと判断したのだろう。

 また、劉備りゅうび曹操そうそう襲来を劉琮りゅうそうに確認したやり取りが『漢魏春秋かんしんしゅんじゅう』にある。

 『劉琮りゅうそう曹操そうそうに降伏をうたが、劉備りゅうびには知らせていなかった。劉備りゅうびはしばらくして気がつき、劉琮りゅうそうに尋ねた。劉琮りゅうそう宋忠そうちゅう(本編、ソウチュウ、63話より登場)を派遣して劉備りゅうび趣旨しゅしを説明させたが、既に曹操そうそうえんにいると知り、劉備りゅうびは驚いて宋忠そうちゅうを問いただした。「相談もせず、敵が目前に迫って知らせるのはあまりにもひどいではないか。」さらに宋忠そうちゅうに刀を突き付け、「今君の首を斬っても怒りは収まらない。それに君をここで斬るのは男として恥ずべきことだ」といって宋忠そうちゅうを帰した。』[先主せんしゅ伝]

 また『武帝紀ぶていき』には、9月、曹操そうそう新野しんやに到達すると劉琮りゅうそうは降伏したとあり、『劉表りゅうひょう伝』には、曹操そうそうの軍が襄陽じょうように到達すると、劉琮りゅうそう荊州けいしゅうを上げて降伏したとある。

 一見、劉琮りゅうそうの降伏時期がバラバラに見えるが、おそらく曹操そうそう率いる本隊が新野しんやに到達した時点で、張遼ちょうりょうらの先遣せんけん部隊が既に襄陽じょうように達していたのだろう。そう考えると劉備りゅうび曹操そうそう襲来を知った時点で曹操そうそうえんにいたのなら、その先遣部隊は既に新野しんや付近に到達していたのではないだろうか。



 なお、現代のGoogleマップの基準で申し訳ないが、えん(現南陽市宛城区なんようしえんじょうけん)から新野しんや(現南陽市新野県なんようししんやけん)までが約62km、新野しんやから襄陽じょうよう(現襄陽市襄陽区じょうようしじょうようく)までが約67kmとそう距離は変わらない。(劉備りゅうびが駐留するはん襄陽じょうよう漢水かんすい(川の名前)を挟んで北隣に位置する)

 また、軍隊が一日に進む単位を一しゃといい、これは三十里の距離である。これより速い行軍ぎょうぐんは補給部隊が追い付けなかったり、兵士に脱落者が出たりすることになる。一里は時代によって多少変わるのだが、かん代なら約415m、一しゃは約12,4kmとなる。先ほどの距離に換算すると、えんから新野しんやまでが約五日、新野しんやから襄陽じょうようまでが約五~六日の距離となる。

 これはあくまでも現代の道路事情からの換算なので当時はもう少しかかると思うが、それでもやはり時間はなく、劉備りゅうびあせるのは当然と言えるだろう。

 曹操そうそうが後10日程で襄陽じょうように到達する距離にいると知り、さらに劉琮りゅうそうも降伏してしまった今、劉備りゅうび樊城はんじょうで抵抗することをあきらめ、城をてて逃走することを選んだ。

 『劉備りゅうび襄陽じょうようを通過する時、劉琮りゅうそうに呼び掛けたが、劉琮りゅうそうは怖れて応じなかった。この時、劉琮りゅうそうの側近や荊州けいしゅうの人々の多くが劉備りゅうびに同行した。』[先主せんしゅ伝]

 『先主せんしゅ伝』注の『典略てんりゃく』によると、劉備りゅうび劉表りゅうそうの墓に別れを告げて立ち寄り、涙を流して去ったという。『水経注すいけいちゅう』によると、劉表りゅうひょうの墓は襄陽城じょうようじょうの東門の外二百歩(約276m)先にあったという。

 この時、劉琮りゅうそうの側近や荊州けいしゅうの人々の多くが劉備りゅうびに同行したとあるが、側近とは蔡瑁さいぼうらに同意できなかった者たちだろう。この時に同行したと思われる人物に伊籍いせき(本編、イセキ、63話より登場)らがいる。(この他、新野しんや襄陽じょうよう付近出身の劉備りゅうび家臣では、魏延ぎえん(本編未登場)・劉邕りゅうよう(本編未登場)・傅肜ふゆう(本編未登場)・霍峻かくしゅん(本編、カクシュン、63話より登場)・向朗しょうろう(本編、ショウロウ、74話より登場)・宗預そうよ(本編未登場)・輔匡ほきょう(本編未登場)・馮習ふうしゅう(本編未登場)らがいるが、つかえた時期が不明確なため名を挙げるだけに止める。※龐統ほうとうらこの地域出身者でも赤壁せきへき戦後につかえたことが明言されている人物は省略する)


 ◎劉備りゅうびの逃走と荊州けいしゅうの民

 樊城はんじょうて、南へと逃走した劉備りゅうび一行の様子を『先主せんしゅ伝』と『張飛ちょうひ伝』からまずは引用していこう。

 『劉備りゅうび一行が当陽とうように着いた頃には十余万の民衆、数千台の荷車が付き従い、一日の行程は十里余りしか進めなかった。別に関羽かんうに命じて数百そうの船に乗せ、江陵こうりょうにて落ち合うこととした。

 (中略)

 曹操そうそう江陵こうりょう軍需ぐんじゅ物資があることから、劉備りゅうびに占拠されることを怖れて、補給部隊を後方に放置し、一足先に襄陽じょうように到達した。曹操そうそう劉備りゅうびが既に襄陽じょうようを通過したと知ると、精鋭の騎兵五千を率いて急いで追撃し、一昼夜に三百余里の行程を駆けて当陽とうよう長坂ちょうはんで追い付いた。』[先主せんしゅ伝]

 『劉表りゅうひょうが死ぬと、曹操そうそう荊州けいしゅうに侵攻してきたので、劉備りゅうび江南こうなんへ逃走した。曹操そうそうはこれを追撃すること一昼夜、当陽とうよう長坂ちょうはんにて追い付かれた。』[張飛ちょうひ伝]

 樊城はんじょうを棄てた劉備りゅうび一行は南郡なんぐん南部の都市・江陵こうりょうを目指すが、行く先々で民衆を吸収し、行軍は遅れに遅れ、行程の途中、当陽県長坂とうようけんちょうはんにて曹操そうそう軍に追い付かれてしまう。

 当陽県長坂とうようけんちょうはん(現当陽市長坂坡とうようしちょうはんは)は襄陽じょうようより南へ、Googleマップの現代道路事情だと約170km先にある地点。

 これを曹操そうそう劉備りゅうびを追撃するために補給部隊を切り離し、騎兵のみの部隊で三百余里という速さで追撃する。先程算出した速さで計測するなら三百里は約124km、三百“余”なのでこれより幾分いくぶんか速いスピードで追いかけたことになり、襄陽じょうようから当陽とうようまでを一日半程度で駆け抜けたことになる。『張飛ちょうひ伝』に曹操そうそう軍は一昼夜(原文『一日一夜』)で当陽とうよう長坂ちょうはんで追い付いたとあるが、この速度が事実なら『張飛ちょうひ伝』の記述も決して誇張こちょうではないことになる。

 対して劉備りゅうび一行の移動速度は一日に十里余りとある。これでは日に四、五km程度しか進めておらず、長阪ちょうはんに着くには一月以上かかってしまい、曹操そうそう軍の移動速度と計算が合わない。おそらく、劉備りゅうび一行は行く先々で徐々に民衆を吸収し、移動速度を落としていき、最終的に日に十里余りまで減速してしまったのだろう。

 通常の行軍速度なら長坂ちょうはんまで約十四日程度、これより少し遅いぐらいだろうか。曹操そうそうの移動がえんから襄陽じょうようまで約十日程度+劉琮りゅうそうらとの面会時間+襄陽じょうようから当陽とうようまで約一日から二日程度と考えると、合計日数が劉備りゅうびとかなり近くなる。なので、長坂ちょうはんの戦いは劉備りゅうびはんより逃走して約十数日後の出来事であったのだろう。


 ◎曹操そうそうの計画、劉備りゅうびの計画


 曹操そうそう襄陽じょうように軍隊の大多数を待機させているとはいえ、ほぼ通り過ぎる形で劉備りゅうび討伐を優先させた。劉琮りゅうそうは降伏したが、その真意は未だ不明で、事実、『劉表りゅうひょう伝』注の『漢晋春秋かんしんしゅんじゅう』によると、王威おうい(本編、オウイ、63話より登場)という者が劉琮りゅうそうに、今なら曹操そうそうも油断しているから捕虜にできると進言している。この意見を劉琮りゅうそうは採用しなかったが、降伏に納得できない者がまだ襄陽じょうように潜んでいる状況であった。

 その状況でも曹操そうそう劉備りゅうび討伐を優先させたのは、劉備りゅうび自体が油断ならない梟雄きょうゆうと考えていたこともあるだろうが、もう1つの理由として、『先主せんしゅ伝』には劉備りゅうびが目指した江陵こうりょう軍需ぐんじゅ物資があることから、占領されないように急いだとある。

 つまり、曹操そうそうにとって戦場が江陵こうりょうに移るのは想定外の事態であり、さらに言えば劉琮りゅうそうの降伏自体も想定外であった可能性がある。

 しかし、この江陵こうりょうにある軍需ぐんじゅ物資とはなんだろうか。そもそも劉表りゅうひょう曹操そうそうと決戦するつもりだったのだから、襄陽じょうようにも武器や食糧はある程度確保されていた可能性が高い。今更劉備りゅうび江陵こうりょうもり、武器・食糧を得たところで、曹操そうそうに対して逆転するのは難しい。それでも江陵こうりょうを目指したのはそれ以上のものがあったのではないだろうか。

 考えるに、江陵こうりょうに豊富にあった軍需ぐんじゅ物資とはつまり、船だったのではないだろうか。

 ここで荊州けいしゅうの地理を少し整理しよう。荊州南郡けいしゅうなんぐんの北部にある都市が襄陽じょうようで、ここを劉表りゅうひょうは拠点(州治しゅうち、州の庁舎ちょうしゃがある都市)としていた。同郡南部にある都市が江陵こうりょうで、南郡なんぐん郡治ぐんち(現代でいう県庁所在地)はこちらである。

 そして襄陽じょうようの北部から東部に沿うように漢水かんすい(沔水べんすい漢江かんこうとも、川の名前)が流れる一方、江陵こうりょうの南側には中国最長の河川・長江ちょうこうが西から東へと流れている。なお、漢水かんすいはそのまま南へ流れるが、当陽県とうようけん辺りで東へとれ、東隣の江夏郡こうかぐん内にて長江ちょうこうと合流する。

 つまり、大船団を停泊させるなら、襄陽じょうようよりも江陵こうりょうの方が適している。

 また、この時、劉備りゅうび軍の関羽かんうが別行動を取り、水上ルートを移動している。

 『劉備りゅうびはんより南下して長江ちょうこうを渡る計画をたて、関羽かんうには別に数百そうの船を率いさせ、江陵こうりょうで落ち合うこととした。』[関羽かんう伝]

 この時、関羽かんうが使った数百そうの船とは、本来、襄陽じょうよう戦で使われるはずだったものではないだろうか。

 一方、荊州けいしゅうの水軍についての武将・周瑜しゅうゆは後に曹操そうそうと開戦するにあたって、『「今、曹操そうそう荊州けいしゅうをそっくり手に入れてしまった。劉表りゅうひょうが整備した水軍は、蒙衝もうしょう(駆逐艦くちくかん)、闘艦とうかん(戦艦せんかん)が数千という数に上っていた」』と述べている。[周瑜しゅうゆ伝]

 数千という数は誇張こちょうがあるかもしれないが、関羽かんうが率いてた水軍が数百そうであり、数が合わない。また、この水軍は関羽かんうが率いているのであるから曹操そうそうの手に渡ってはいない。そして、関羽かんう襄陽じょうようの船を手に入れたのなら、わざわざ曹操そうそうのために数千もの船を残していったりはしないだろう。つまり、後に曹操そうそうが手に入れることになる数千の船がまだ荊州けいしゅうに残っている。そして、それは長江ちょうこうに面した江陵こうりょうにあったのではないだろうか。

 だから、その江陵こうりょうまで劉備りゅうびに占領されてしまうと、襄陽じょうようの船は既に関羽かんうに奪われているので、曹操そうそうの元に船が全くない状況となる。

 ここで一つ疑問なのが、果たして曹操そうそうは水軍を保有していなかったのかということだ。『演義えんぎ』をはじめ多くの三国志物語では曹操そうそう荊州けいしゅう水軍を手に入れ、それをもって赤壁せきへきの戦いに挑んでいる。

 まるで曹操そうそうの水軍は荊州けいしゅう水軍を得て、初めて配備されたような描写だが、曹操そうそうはこの年(208年)の正月に鄴城ぎょうじょう郊外こうがい玄武池げんぶちにて水軍の訓練を行っている。荊州けいしゅう征伐に備えて水軍の訓練をしたのに、その水軍の当てが荊州けいしゅう水軍を奪うこと前提なのはおかしいのではないだろうか。水軍の訓練をしたのなら、当然、その訓練した自前の曹操そうそう水軍があったはずである。

 これより先の出来事ではあるが、『先主せんしゅ伝』には以下の記述がある。

 『劉備りゅうび孔明こうめいに送り出し、その援軍を待っていた頃、劉備りゅうびの元に孫権そんけんからの援軍の船が来たと警備の者が知らせに来た。劉備りゅうびは「なぜ、青州せいしゅう徐州じょしゅうの軍ではないとわかったのか?」と尋ねると、警備の者は「船を見てわかりました」と答えた。』[先主せんしゅ伝]

 青州せいしゅう徐州じょしゅうとは曹操そうそう領東部に位置し、東シナ海に面した州である。

 これは本文ではなく、からみた記録である『江表伝こうひょうでん』の記述だが、この時の劉備りゅうびの言葉から、青州せいしゅう徐州じょしゅうから、曹操そうそう水軍が攻めてくる可能性があったことがわかる。

 つまり、曹操そうそう水軍は青州せいしゅう徐州じょしゅうの湾岸に配備されており、そこから長江ちょうこうへ侵入し、遡上そじょうして荊州けいしゅうに攻めこむ算段だったのではないだろうか。

 だが、長江ちょうこうへ侵入してもその支流の漢水かんすいに面した襄陽じょうようにたどり着く前に、江夏こうか荊州けいしゅう水軍に止められてしまう。停泊地を確保せずに長江ちょうこう遡上そじょうしても敵領内で孤立するだけである。なので曹操そうそう水軍が出発するのは、襄陽じょうよう攻略後、陸上部隊が江夏こうか江陵こうりょう攻略に乗り出し、長江ちょうこう沿岸にその停泊地点を確保する目処めどが立った頃、つまり、作戦として第二段階に以降した時だったのではないだろうか。

 これらを整理すると、曹操そうそうが当初、荊州けいしゅう征伐において想定していた戦闘は、新野しんやはん襄陽じょうようでの籠城ろうじょう戦、もしくはその手前の平地にての荊州けいしゅう軍との会戦、これが想定される計画の第一段階。

 そして第二段階として、それら城市の攻略後、陸上部隊は江夏こうか江陵こうりょう等の長江ちょうこう沿岸都市へ侵攻。これに並行して青州せいしゅう徐州じょしゅうで待機させている水軍を出発させる、というものだったのではないだろうか。

 だが、現実には劉表りゅうひょうが死に、後を継いだ劉琮りゅうそう曹操そうそうに降伏し、あっけなく襄陽じょうよう陥落かんらく。ここまでは良かったが、劉備りゅうびはんてて江陵こうりょうへ逃走してしまう。つまり、ここで劉備りゅうび江陵こうりょうを押さえてしまうと、曹操そうそうの当初想定していた第一段階をすっ飛ばして、第二段階へ以降する事態になってしまった。

 そして、江陵こうりょう以南は長江ちょうこうによってさえぎられており、渡るには船が必要となる。だが、襄陽じょうようの船は既に関羽かんうに奪われ、江陵こうりょうまで劉備りゅうびに押さえられては、曹操そうそう軍に長江ちょうこうを渡る手段がない。それから青州せいしゅう徐州じょしゅうより水軍を呼び寄せても到着まで日数を要する。その間、長江ちょうこう以南の荊州けいしゅう南部の地域は劉備りゅうびの自由となり、曹操そうそうの元に船が到着した頃には荊州けいしゅう南部は劉備りゅうび要塞ようさいと化すこともあり得た。

 だから、曹操そうそう劉備りゅうび江陵こうりょうに走ったことを知ると急いで追撃したのだろう。実際に曹操そうそう劉表りゅうひょうの容態や劉琮りゅうそうの降伏について、どこまで事前に情報を得ていたかは不明だが、この時の劉備りゅうびの動きは曹操そうそうの予想を上回り、驚嘆きょうたんさせるものであった。劉備りゅうびに対して後手に回ってしまったのは、曹操そうそうと降伏を勧めた襄陽じょうよう劉表りゅうひょう家臣との連携が決して密でなかったことを示している。

 そう考えると、孔明こうめい曹操そうそうの襲来を知り、劉備りゅうびに提案した襄陽じょうようを占領しようという策も、孔明こうめいなりに勝算はあったであろうが、曹操そうそうが想定する荊州けいしゅう征伐の第一段階の範囲に収まっており、曹操そうそうをここまで狼狽うろたえさせることは出来なかったであろう。

 さて、ここで劉備りゅうびに視点を移してみよう。既に劉備りゅうびの作戦はある程度説明してしまったが、これらをまとめると、関羽かんう襄陽じょうようの船数百そうを奪わせ、南下。自身は陸路で江陵こうりょうを占領。

 さらに長坂ちょうはんの戦いの後であるが、劉備りゅうび関羽かんうと合流後、すぐに江夏こうか劉琦りゅうきとも合流している。

 『劉備りゅうび漢津かんしん関羽かんうの船団と合流したので、漢水かんすいを渡ることができた。そこで劉表りゅうひょうの長子・劉琦りゅうきとその軍勢一万余と出会い、ともに夏口かこうへと移った。』[先主せんしゅ伝]

 この場所での合流はおそらく偶然ではないだろう。また、劉備りゅうび劉琦りゅうきとともに夏口かこう(江夏郡こうかぐんの都市、先代江夏郡太守こうかぐんたいしゅ黄祖こうその代よりここを江夏郡こうかぐんの拠点としていた)へ移ったのだから、劉備りゅうび劉琦りゅうきの拠点を訪ねたのではなく、劉琦りゅうき劉備りゅうびを出迎える形となっている。つまり、劉備りゅうびは逃走に先立ち、江夏こうか劉琦りゅうきとも連絡を取っていた。そして、江夏郡こうかぐんにも水軍があることは、先代江夏郡太守こうかぐんたいしゅ黄祖こうそ孫権そんけんの戦いで水軍が登場していることからも確認できる。

 おそらく、荊州けいしゅう水軍は、襄陽じょうよう江夏こうか江陵こうりょう(江陵こうりょうが最大か?)の三都市が主な拠点であったのだろう。そして、劉備りゅうびの策は襄陽じょうようの水軍を関羽かんうに奪わせ、江夏こうか劉琦りゅうきと連携し、自身は江陵こうりょうを押さえ、その三都市の水軍を江陵こうりょうに結集させ、曹操そうそうを迎え撃つというものだったのではないだろうか。

 そして、曹操そうそうに水軍はない、もしくはすぐ用意できないという状況だ。だから、劉備りゅうびは無理に江陵こうりょうを守る必要もない。船さえ手に入れば、長江ちょうこうという防壁を使い、長江ちょうこう以南の荊州けいしゅう南部を拠点に曹操そうそうに対抗することもできる。実際、赤壁せきへきの戦い後、劉備りゅうびは短期間で荊州けいしゅう南部の四郡を攻略しており、曹操そうそうの水軍が荊州けいしゅうに到着するまでに荊州けいしゅう南部を攻略することも不可能ではなかったのだろう。

 だが、曹操そうそうの日に三百余里という速さの追撃に、劉備りゅうび江陵こうりょうに着く前に急襲され、この劉備りゅうびの計画はついえてしまった。

 『ある人が劉備りゅうびに「(民衆を見捨てて)すぐに江陵こうりょうに向かうべきです。このまま曹操そうそう軍の襲撃を受けたら太刀打ち出来ません」と言ったが、劉備りゅうびは「そもそも大事を成し遂げるためには必ず人を基とする。今、人々が私に身を寄せてくれているのに、見捨てて去ることはできない」と言って退しりぞけた。』[先主せんしゅ伝]

 荊州けいしゅうの民衆を吸収し、遅々ちちと進む劉備りゅうびに対し、ある人は民衆を見捨てて、すぐに江陵こうりょうを占領すべきと進言した。それに対する劉備りゅうびの「大事を成すためには人をもって基とする~」は有名な言葉で、『演義えんぎ』にも採用されている。

 これにより劉備りゅうび長坂ちょうはんにて曹操そうそう軍と戦闘となる。


 ◎長坂ちょうはんの戦い




 『劉備りゅうび曹操そうそう当陽とうよう長坂ちょうはんで追い付かれると、妻子を棄てて、孔明こうめい張飛ちょうひ趙雲ちょううんら数十騎とともに逃走した。曹操そうそう劉備りゅうびの連れていた民衆や物資を多数捕獲した。』[先主せんしゅ伝]

 『曹純そうじゅん曹操そうそうのお供で荊州けいしゅう征伐に赴き、文聘ぶんへいとともに劉備りゅうびを追撃し、彼の二人の娘を捕虜と、物資を捕獲し、敗残兵を手に入れた。進撃して江陵こうりょうを降伏させた。』[曹純そうじゅん伝、文聘ぶんへい伝]

 当陽県とうようけん長坂ちょうはんにて起きた戦闘で、劉備りゅうびは敗北、曹操そうそう劉備りゅうびの娘をはじめ、多くの捕虜を得た。なお、この時捕虜となった劉備の娘のその後について記述はない。

 他に劉備りゅうびの息子・阿斗あと(幼名、後の劉禅りゅうぜん)とその母・甘夫人かんふじん(本編未登場)も敵の中に取り残されることとなったが、劉備りゅうびの将・趙雲ちょううんが救い出している。

 『劉備りゅうび曹操そうそう当陽とうよう長坂ちょうはんにて追撃されると、妻子をてて南へと逃走した。趙雲ちょううんは身に幼子、後の劉禅りゅうぜんを抱き、その母の甘夫人かんふじんを保護し、二人を守って危機を脱した。この時、趙雲ちょううん劉備りゅうびの妻子を助けるために北に向かったのを見て、ある者が趙雲ちょううん曹操そうそうに投降したと言った。劉備りゅうびはその者を手戟しゅげきで打ち、「子龍しりゅう(趙雲ちょううんあざな)が私を見捨てて逃げたりはしない」と言った。ほどなく趙雲ちょううん劉備りゅうびの元に妻子を連れて帰ってきた。』[趙雲ちょううん伝注趙雲ちょううん別伝]

 また、この戦いで劉備りゅうびの配下・徐庶じょしょ劉備りゅうびの元を去ることとなった。

 『孔明こうめい徐庶じょしょ劉備りゅうび随行ずいこうしていたが、曹操そうそうの追撃を受けると、徐庶じょしょの母が捕虜となった。徐庶じょしょ劉備りゅうびに別れを告げ、その胸を指して「元々、劉備りゅうび様とともに王業、覇業を行うつもりだったのはこの心においてでした。今、母を失い心は乱れて、役に立ちません。これでお別れです」と言い、曹操そうそうの元に赴いた。』[諸葛亮しょかつりょう伝]

 また、一説によると、この時の捕虜となった荊州けいしゅう民の中に後にの将軍となりしょくと戦うことになる鄧艾とうがい(本編未登場)が含まれていたという。

 『鄧艾とうがい義陽郡棘陽県ぎようぐんきょくようけんの人。幼くして父を亡くした。曹操そうそう荊州けいしゅうを征伐した時、汝南じょなんに移住し、農民のために子牛を育てる役についた。』[鄧艾とうがい伝]

 義陽郡ぎようぐん南陽郡なんようぐんの一部を割いて一時期置かれていた郡。その含まれる範囲は正確には不明だが、劉備りゅうびが最初、駐屯していた新野しんやを含む一帯であったようだ。棘陽県きょくようけん新野しんやの北、曹操そうそうのいるえんの南で、その間に位置する。

 鄧艾とうがいの正確な年齢は不明だが、長坂ちょうはんの戦いの頃はおそらく十歳前後。幼い頃に亡くなった父の死因は不明だが、あるいはこの長坂ちょうはんで亡くなったのかもしれない。

 その後の彼の人生は、曹操そうそうのこの戦いで捕虜となった者への扱いの一例という見方もできる。彼は汝南じょなんに移住し、子牛を育てる役についたという。また、注の『世語せご』によると、十二、三歳の頃に襄城典農部民じょうじょうてんのうぶみん(予州穎川郡襄城県よしゅうえいせんぐんじょうじょうけん屯田とんでんの労働民)となったという。おそらく他の捕虜の多くも牧畜や屯田とんでんの労働にたずさわることになったのではないだろうか。

 曹操そうそうの攻撃は荊州けいしゅうの民衆を蹴散けちらし、劉備りゅうびの妻子やその家臣の家族にまで及び、多くの犠牲を出すこととなった。

 だが、劉備りゅうびの将・張飛ちょうひの活躍により食い止められ、劉備りゅうびらは危機を脱することが出来た。

 『劉備りゅうび曹操そうそうの襲撃を受けると、妻子を棄てて逃走し、張飛ちょうひに二十騎を預けて背後を防がせた。張飛ちょうひは川をたてに橋を切り落とし、目をいからせ、ほこを構えて、「俺は張益徳ちょうえきとく(益徳えきとく張飛ちょうひあざな)だ。ともに決死の覚悟で戦おう」と叫び、誰も思いきって近付こうとはせず、これによって劉備りゅうびは助かった。』[張飛ちょうひ伝]

 劉備りゅうび曹操そうそうの攻撃から逃れたが、江陵こうりょうは先に占領され、その計画は頓挫とんざすることとなった。

 ここで劉備りゅうびの作戦を転換、江陵こうりょうあきらめ、東進し、漢津かんしん(しんとは船の渡し場のこと)に赴き、その地にいた関羽かんう、さらに劉琦りゅうきとも合流した。

 『劉備りゅうび漢津かんしんへと逃れ、そこでちょうど関羽かんうの船団と合流したので、漢水かんすいを渡ることができた。そこで劉表りゅうひょうの長子・劉琦りゅうきとその軍勢一万余と出会い、ともに夏口かこうへと移った。』[先主せんしゅ伝]

 『劉備りゅうび曹操そうそうの追撃にあうと、脇道に逃れて漢津かんしんに行き、そこでちょうど関羽かんうの船団と出会い、ともに夏口かこうに到着した。』[関羽かんう伝]

 この時、たまたま漢津かんしん関羽かんうがいたため合流することができたという。だが、この時の関羽かんうは船で移動しているのに、その速さは日に十里余りの劉備りゅうび軍と同程度かより遅いことになる。

 考えられるのは、一に、関羽かんうの乗る襄陽じょうようの船は本来、劉琮りゅうそうの指揮下にあり、それを奪取するのに時間がかかってしまった。

 二に、劉琦りゅうきと合流するために漢津かんしんに停泊して待っていた。

 関羽かんうの合流とほぼ同時期に劉琦りゅうきとも合流していることを考えると、二(もしくは両方)の可能性は十分にある。もしかしたら、最初から関羽かんうはこの漢津かんしん劉琦りゅうきと合流する計画になっており、だから、劉備りゅうび関羽かんうらと合流できる可能性が高いと判断して漢津かんしんを目指したのかもしれない。


 ◎劉備りゅうびの進路


 また、劉備りゅうび漢津かんしんに赴く前、長坂ちょうはんにて孫権そんけんの臣・魯粛ろしゅくとも合流している。

 『魯粛ろしゅく夏口かこうまで来たところで、曹操そうそうは既に荊州けいしゅうに向かったと知り、昼夜兼行で急いだ。南郡なんぐん到着時に、劉琮りゅうそうが降伏し、劉備りゅうび長江ちょうこうを渡って南へ行こうとしていると知り、魯粛ろしゅく劉備りゅうびの元へ駆け、当陽とうよう長坂ちょうはんで面会した。』[魯粛ろしゅく伝]

 魯粛ろしゅく孫権そんけんより元々、劉表りゅうひょう弔問ちょうもんの使者という名目で劉琦りゅうき劉琮りゅうそうの元へ派遣された。劉琮りゅうそうが降伏し、劉備りゅうびが逃走すると迷わず劉備りゅうびの元に行ったのは魯粛ろしゅく自身の判断だろう。

 また、注の『江表伝こうひょうでん』によると、魯粛ろしゅく劉備りゅうびに対し「どちらに向かわれるつもりか」と問うと、劉備りゅうびは「蒼梧太守そうごたいしゅ呉巨ごきょ(本編、ゴキョ、63話より登場)と昔馴染みなので、そちらに行くつもりだ」と返している。

 蒼梧郡そうごぐん荊州けいしゅうのさらに南にある交州こうしゅうに属す郡である。かつて劉表りゅうひょうは、蒼梧太守そうごたいしゅ史璜しこう(本編未登場)が亡くなると代わりの蒼梧太守そうごたいしゅとして呉巨ごきょを派遣し、後に交州刺史こうしゅうしし張津ちょうしん(本編未登場)が亡くなると、代わりの交州刺史こうしゅうししとして頼恭らいきょう(本編、ライキョウ、63話より登場)を派遣して、交州こうしゅう支配を目論んだ。[士燮ししょう伝]

 劉備りゅうび荊州けいしゅうにいた頃の呉巨ごきょと交流があったのだろう。劉備りゅうび長江ちょうこうを越え、荊州けいしゅうを通り過ぎ、遠く交州こうしゅうの地へ向かう予定であった。

 では、なぜ、逃走先に交州こうしゅうを選んだのか。話は劉備りゅうび孔明こうめいを三度訪ね、隆中りゅうちゅうにて聞いた天下三分の計にまでさかのぼる。

 孔明こうめい劉備りゅうび漢王朝かんおうちょうを建て直す策をたずねられ、その回答として天下三分の計を話したが、その内容の中で荊州けいしゅうを根拠地とする利点をこう語っている。

 『「荊州けいしゅうは北は漢水かんすいり、“利益は南海なんかいに達し”、東はに連なり、西は巴蜀はしょくに通じ、これは武を用いるべき国…」』[諸葛亮しょかつりょう伝]

 ここに出てくる南海なんかいとは交州こうしゅうの郡の名だが、時に交州こうしゅう地域一帯を指す言葉としても使われる。交州こうしゅうは東南アジアに接し(交州こうしゅう自体が現ベトナムの北部を含む)、真珠しんじゅ翡翠ひすい象牙ぞうげ、バナナといった貴重な品々が得られた。

 『建初けんしょ八年(西暦83年)、交州こうしゅうからの献上品は揚州会稽郡ようしゅうかいけいぐんを経由する海路で運んでいたが、波風にはばまれ、危険な旅であった。そこで当時の大司農だいしのう鄭弘ていこう(本編未登場)は荊州けいしゅう零陵れいりょう桂陽郡けいようぐんに道を作ることを献策し、これを通した。』[『後漢書ごかんじょ鄭弘ていこう伝]

 荊州けいしゅう交州こうしゅうの間に道が通って百二十年余り、その経済的効果は無視できないものとなっていたのだろう。

 孔明こうめいは天下三分の計にて、荊州けいしゅうの経済力は交州こうしゅうまで支配下においてはじめて発揮されるものであることを指摘している。

 つまり、劉備りゅうび交州こうしゅうへ赴くのは天下三分の計に沿った策であり、彼は曹操そうそうに敗れはしたが、まだ天下三分を諦めてはいなかったのではないだろうか。

 ここで劉備りゅうび曹操そうそうから逃げ切り、交州こうしゅうまでたどり着いたと仮定する。曹操そうそうのこの度の侵攻はあくまでも荊州けいしゅうの征服が目的であり、交州こうしゅうまで遠征する用意はない。また、いつまでも許都きょとを留守にするわけにはいかず、交州こうしゅうまで本格的な遠征をすることなく、一度帰還する可能性が高いのではないだろうか。

 劉備りゅうび曹操そうそう荊州けいしゅうよりいなくなったところを狙い北上。荊州けいしゅうを占領し、さらに益州えきしゅうまで駒を進めることができれば、天下三分の計を実現させることができる。そこまで上手くことが運ばないにしても、後数年ねばった可能性は高かったのではないだろうか。

 だが、劉備りゅうびの元に魯粛ろしゅくがやって来て話を聞いた結果、彼は交州こうしゅう呉巨ごきょを頼るのではなく、揚州ようしゅう孫権そんけんと手を組む道を選んだ。

 劉備りゅうび交州こうしゅう逃走にも問題点がある。

 まず、第一に呉巨ごきょらの協力が得られるかということ。この時点で劉備りゅうび呉巨ごきょらとどの程度密に連絡を取っていたかは不明だが、荊州けいしゅう陥落かんらくし、交州こうしゅう(実際の呉巨ごきょらの支配地域はその一部)単独で曹操そうそうに挑まなければいけない。劉備りゅうびには目算があっただろうが、呉巨ごきょらがこれに乗り、曹操そうそうと対立する道を選ぶのか不明だということである。

 第二に、曹操そうそう劉備りゅうび征伐を諦めるかということ。曹操そうそう荊州けいしゅうを占領した今、表向き対立している勢力は劉備りゅうびぐらいであった。漢中かんちゅう張魯ちょうろ(本編、チョウロ、15話名のみ登場)等従わない者もいるにはいるが、益州えきしゅう劉璋りゅうしょう(本編、リュウショウ、41話名のみ登場)や揚州ようしゅう孫権そんけん等主だった勢力が恭順きょうじゅんの姿勢を見せている今、劉備りゅうびさえ倒せば一応の天下統一の体裁を整えることができる。その状況なら曹操そうそう交州こうしゅうまで無理な遠征をしてでも劉備りゅうびを討つ可能性はないわけではなかった。何より、交州こうしゅうまで無事にたどり着ける保証もない。

 そこで劉備りゅうび魯粛ろしゅくの提案に乗り、孫権そんけんと手を組む道を選んだのであろう。

 だが、それはつまり曹操そうそうとの直接対決を意味していた。
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