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第5部 赤壁大戦編
歴史解説 赤壁の戦いその2
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三国志で最も有名な戦い、赤壁の戦い。前回は新たに荊州の主となった劉琮が曹操に降伏したところまでを述べた。今回はまずはそれを受けての劉備の動向から述べていこう。
◎劉備の樊城撤退
『劉備は樊に駐屯していたが、曹操の来攻を知らず、曹操が宛に到着して初めてこれを知り、自分の軍勢を率いて樊を引き払った。途中、襄陽を通過する時、軍師の孔明が劉琮を攻撃すれば荊州を支配できると進言したが、劉備は「私には忍びない」といって従わなかった。』[先主伝]
孔明の劉琮を攻撃すれば荊州を支配できるという発言は、安易として批判的な意見が多いが、劉琮後継と曹操降伏を、襄陽にいる蔡瑁ら一部の重臣たちのみで決定したのであれば、ある程度勝算のある判断だったのではないか。
劉琮を廃しても劉琦を擁立すれば、正統性を確保することができるし、襄陽以南の荊州人が劉琮後継、曹操降伏を知らない、もしくは承服していないなら蔡瑁らさえ除けば、元々、対曹操戦で劉備が中心となることは劉表生前から決まっていたのだから支持を得ることも不可能ではない。
問題は既に目前まで迫っていた曹操軍の到達が早いか、襄陽占領が早いかという時間の問題だが、新野にいる文聘を引き込むことができるのであれば、ある程度の時間稼ぎは可能だろう。
だが、劉備には劉表に申し訳ないという気持ちもあっただろうが、やはり時間の無さが問題であったのだろう。
襄陽占領するには、少なくとも事前に劉琦、文聘の協力を得ておく必要がある。だが、文聘には既に劉琮から曹操軍と戦わないよう連絡がいっているだろうから、その上で自分に従うよう説得しなければならない。劉琦が手許に入ればあるいは説得できるかもしれないが、劉琦は遠く江夏の地にいる。
劉琦のいる江夏郡まで連絡を取り合う時間、文聘を説得する時間を考えたら、やはり曹操襲撃前に襄陽占領を完了するのは難しいと判断したのだろう。
また、劉備が曹操襲来を劉琮に確認したやり取りが『漢魏春秋』にある。
『劉琮は曹操に降伏を乞うたが、劉備には知らせていなかった。劉備はしばらくして気がつき、劉琮に尋ねた。劉琮は宋忠(本編、ソウチュウ、63話より登場)を派遣して劉備に趣旨を説明させたが、既に曹操は宛にいると知り、劉備は驚いて宋忠を問いただした。「相談もせず、敵が目前に迫って知らせるのはあまりにもひどいではないか。」さらに宋忠に刀を突き付け、「今君の首を斬っても怒りは収まらない。それに君をここで斬るのは男として恥ずべきことだ」といって宋忠を帰した。』[先主伝]
また『武帝紀』には、9月、曹操が新野に到達すると劉琮は降伏したとあり、『劉表伝』には、曹操の軍が襄陽に到達すると、劉琮は荊州を上げて降伏したとある。
一見、劉琮の降伏時期がバラバラに見えるが、おそらく曹操率いる本隊が新野に到達した時点で、張遼らの先遣部隊が既に襄陽に達していたのだろう。そう考えると劉備が曹操襲来を知った時点で曹操は宛にいたのなら、その先遣部隊は既に新野付近に到達していたのではないだろうか。
なお、現代のGoogleマップの基準で申し訳ないが、宛(現南陽市宛城区)から新野(現南陽市新野県)までが約62km、新野から襄陽(現襄陽市襄陽区)までが約67kmとそう距離は変わらない。(劉備が駐留する樊は襄陽と漢水(川の名前)を挟んで北隣に位置する)
また、軍隊が一日に進む単位を一舎といい、これは三十里の距離である。これより速い行軍は補給部隊が追い付けなかったり、兵士に脱落者が出たりすることになる。一里は時代によって多少変わるのだが、漢代なら約415m、一舎は約12,4kmとなる。先ほどの距離に換算すると、宛から新野までが約五日、新野から襄陽までが約五~六日の距離となる。
これはあくまでも現代の道路事情からの換算なので当時はもう少しかかると思うが、それでもやはり時間はなく、劉備が焦るのは当然と言えるだろう。
曹操が後10日程で襄陽に到達する距離にいると知り、さらに劉琮も降伏してしまった今、劉備は樊城で抵抗することを諦め、城を棄てて逃走することを選んだ。
『劉備が襄陽を通過する時、劉琮に呼び掛けたが、劉琮は怖れて応じなかった。この時、劉琮の側近や荊州の人々の多くが劉備に同行した。』[先主伝]
『先主伝』注の『典略』によると、劉備は劉表の墓に別れを告げて立ち寄り、涙を流して去ったという。『水経注』によると、劉表の墓は襄陽城の東門の外二百歩(約276m)先にあったという。
この時、劉琮の側近や荊州の人々の多くが劉備に同行したとあるが、側近とは蔡瑁らに同意できなかった者たちだろう。この時に同行したと思われる人物に伊籍(本編、イセキ、63話より登場)らがいる。(この他、新野・襄陽付近出身の劉備家臣では、魏延(本編未登場)・劉邕(本編未登場)・傅肜(本編未登場)・霍峻(本編、カクシュン、63話より登場)・向朗(本編、ショウロウ、74話より登場)・宗預(本編未登場)・輔匡(本編未登場)・馮習(本編未登場)らがいるが、仕えた時期が不明確なため名を挙げるだけに止める。※龐統らこの地域出身者でも赤壁戦後に仕えたことが明言されている人物は省略する)
◎劉備の逃走と荊州の民
樊城を棄て、南へと逃走した劉備一行の様子を『先主伝』と『張飛伝』からまずは引用していこう。
『劉備一行が当陽に着いた頃には十余万の民衆、数千台の荷車が付き従い、一日の行程は十里余りしか進めなかった。別に関羽に命じて数百艘の船に乗せ、江陵にて落ち合うこととした。
(中略)
曹操は江陵に軍需物資があることから、劉備に占拠されることを怖れて、補給部隊を後方に放置し、一足先に襄陽に到達した。曹操は劉備が既に襄陽を通過したと知ると、精鋭の騎兵五千を率いて急いで追撃し、一昼夜に三百余里の行程を駆けて当陽の長坂で追い付いた。』[先主伝]
『劉表が死ぬと、曹操が荊州に侵攻してきたので、劉備は江南へ逃走した。曹操はこれを追撃すること一昼夜、当陽の長坂にて追い付かれた。』[張飛伝]
樊城を棄てた劉備一行は南郡南部の都市・江陵を目指すが、行く先々で民衆を吸収し、行軍は遅れに遅れ、行程の途中、当陽県長坂にて曹操軍に追い付かれてしまう。
当陽県長坂(現当陽市長坂坡)は襄陽より南へ、Googleマップの現代道路事情だと約170km先にある地点。
これを曹操は劉備を追撃するために補給部隊を切り離し、騎兵のみの部隊で三百余里という速さで追撃する。先程算出した速さで計測するなら三百里は約124km、三百“余”なのでこれより幾分か速いスピードで追いかけたことになり、襄陽から当陽までを一日半程度で駆け抜けたことになる。『張飛伝』に曹操軍は一昼夜(原文『一日一夜』)で当陽の長坂で追い付いたとあるが、この速度が事実なら『張飛伝』の記述も決して誇張ではないことになる。
対して劉備一行の移動速度は一日に十里余りとある。これでは日に四、五km程度しか進めておらず、長阪に着くには一月以上かかってしまい、曹操軍の移動速度と計算が合わない。おそらく、劉備一行は行く先々で徐々に民衆を吸収し、移動速度を落としていき、最終的に日に十里余りまで減速してしまったのだろう。
通常の行軍速度なら長坂まで約十四日程度、これより少し遅いぐらいだろうか。曹操の移動が宛から襄陽まで約十日程度+劉琮らとの面会時間+襄陽から当陽まで約一日から二日程度と考えると、合計日数が劉備とかなり近くなる。なので、長坂の戦いは劉備が樊より逃走して約十数日後の出来事であったのだろう。
◎曹操の計画、劉備の計画
曹操は襄陽に軍隊の大多数を待機させているとはいえ、ほぼ通り過ぎる形で劉備討伐を優先させた。劉琮は降伏したが、その真意は未だ不明で、事実、『劉表伝』注の『漢晋春秋』によると、王威(本編、オウイ、63話より登場)という者が劉琮に、今なら曹操も油断しているから捕虜にできると進言している。この意見を劉琮は採用しなかったが、降伏に納得できない者がまだ襄陽に潜んでいる状況であった。
その状況でも曹操が劉備討伐を優先させたのは、劉備自体が油断ならない梟雄と考えていたこともあるだろうが、もう1つの理由として、『先主伝』には劉備が目指した江陵に軍需物資があることから、占領されないように急いだとある。
つまり、曹操にとって戦場が江陵に移るのは想定外の事態であり、さらに言えば劉琮の降伏自体も想定外であった可能性がある。
しかし、この江陵にある軍需物資とはなんだろうか。そもそも劉表は曹操と決戦するつもりだったのだから、襄陽にも武器や食糧はある程度確保されていた可能性が高い。今更劉備が江陵に籠もり、武器・食糧を得たところで、曹操に対して逆転するのは難しい。それでも江陵を目指したのはそれ以上のものがあったのではないだろうか。
考えるに、江陵に豊富にあった軍需物資とはつまり、船だったのではないだろうか。
ここで荊州の地理を少し整理しよう。荊州南郡の北部にある都市が襄陽で、ここを劉表は拠点(州治、州の庁舎がある都市)としていた。同郡南部にある都市が江陵で、南郡の郡治(現代でいう県庁所在地)はこちらである。
そして襄陽の北部から東部に沿うように漢水(沔水、漢江とも、川の名前)が流れる一方、江陵の南側には中国最長の河川・長江が西から東へと流れている。なお、漢水はそのまま南へ流れるが、当陽県辺りで東へと逸れ、東隣の江夏郡内にて長江と合流する。
つまり、大船団を停泊させるなら、襄陽よりも江陵の方が適している。
また、この時、劉備軍の関羽が別行動を取り、水上ルートを移動している。
『劉備は樊より南下して長江を渡る計画をたて、関羽には別に数百艘の船を率いさせ、江陵で落ち合うこととした。』[関羽伝]
この時、関羽が使った数百艘の船とは、本来、襄陽戦で使われるはずだったものではないだろうか。
一方、荊州の水軍について呉の武将・周瑜は後に曹操と開戦するにあたって、『「今、曹操は荊州をそっくり手に入れてしまった。劉表が整備した水軍は、蒙衝(駆逐艦)、闘艦(戦艦)が数千という数に上っていた」』と述べている。[周瑜伝]
数千という数は誇張があるかもしれないが、関羽が率いてた水軍が数百艘であり、数が合わない。また、この水軍は関羽が率いているのであるから曹操の手に渡ってはいない。そして、関羽が襄陽の船を手に入れたのなら、わざわざ曹操のために数千もの船を残していったりはしないだろう。つまり、後に曹操が手に入れることになる数千の船がまだ荊州に残っている。そして、それは長江に面した江陵にあったのではないだろうか。
だから、その江陵まで劉備に占領されてしまうと、襄陽の船は既に関羽に奪われているので、曹操の元に船が全くない状況となる。
ここで一つ疑問なのが、果たして曹操は水軍を保有していなかったのかということだ。『演義』をはじめ多くの三国志物語では曹操は荊州水軍を手に入れ、それをもって赤壁の戦いに挑んでいる。
まるで曹操の水軍は荊州水軍を得て、初めて配備されたような描写だが、曹操はこの年(208年)の正月に鄴城郊外の玄武池にて水軍の訓練を行っている。荊州征伐に備えて水軍の訓練をしたのに、その水軍の当てが荊州水軍を奪うこと前提なのはおかしいのではないだろうか。水軍の訓練をしたのなら、当然、その訓練した自前の曹操水軍があったはずである。
これより先の出来事ではあるが、『先主伝』には以下の記述がある。
『劉備が孔明を呉に送り出し、その援軍を待っていた頃、劉備の元に孫権からの援軍の船が来たと警備の者が知らせに来た。劉備は「なぜ、青州・徐州の軍ではないとわかったのか?」と尋ねると、警備の者は「船を見てわかりました」と答えた。』[先主伝]
青州・徐州とは曹操領東部に位置し、東シナ海に面した州である。
これは本文ではなく、呉からみた記録である『江表伝』の記述だが、この時の劉備の言葉から、青州・徐州から、曹操水軍が攻めてくる可能性があったことがわかる。
つまり、曹操水軍は青州・徐州の湾岸に配備されており、そこから長江へ侵入し、遡上して荊州に攻めこむ算段だったのではないだろうか。
だが、長江へ侵入してもその支流の漢水に面した襄陽にたどり着く前に、江夏の荊州水軍に止められてしまう。停泊地を確保せずに長江を遡上しても敵領内で孤立するだけである。なので曹操水軍が出発するのは、襄陽攻略後、陸上部隊が江夏や江陵攻略に乗り出し、長江沿岸にその停泊地点を確保する目処が立った頃、つまり、作戦として第二段階に以降した時だったのではないだろうか。
これらを整理すると、曹操が当初、荊州征伐において想定していた戦闘は、新野、樊、襄陽での籠城戦、もしくはその手前の平地にての荊州軍との会戦、これが想定される計画の第一段階。
そして第二段階として、それら城市の攻略後、陸上部隊は江夏や江陵等の長江沿岸都市へ侵攻。これに並行して青州・徐州で待機させている水軍を出発させる、というものだったのではないだろうか。
だが、現実には劉表が死に、後を継いだ劉琮は曹操に降伏し、あっけなく襄陽は陥落。ここまでは良かったが、劉備は樊を棄てて江陵へ逃走してしまう。つまり、ここで劉備が江陵を押さえてしまうと、曹操の当初想定していた第一段階をすっ飛ばして、第二段階へ以降する事態になってしまった。
そして、江陵以南は長江によって遮られており、渡るには船が必要となる。だが、襄陽の船は既に関羽に奪われ、江陵まで劉備に押さえられては、曹操軍に長江を渡る手段がない。それから青州・徐州より水軍を呼び寄せても到着まで日数を要する。その間、長江以南の荊州南部の地域は劉備の自由となり、曹操の元に船が到着した頃には荊州南部は劉備の要塞と化すこともあり得た。
だから、曹操は劉備が江陵に走ったことを知ると急いで追撃したのだろう。実際に曹操は劉表の容態や劉琮の降伏について、どこまで事前に情報を得ていたかは不明だが、この時の劉備の動きは曹操の予想を上回り、驚嘆させるものであった。劉備に対して後手に回ってしまったのは、曹操と降伏を勧めた襄陽の劉表家臣との連携が決して密でなかったことを示している。
そう考えると、孔明が曹操の襲来を知り、劉備に提案した襄陽を占領しようという策も、孔明なりに勝算はあったであろうが、曹操が想定する荊州征伐の第一段階の範囲に収まっており、曹操をここまで狼狽えさせることは出来なかったであろう。
さて、ここで劉備に視点を移してみよう。既に劉備の作戦はある程度説明してしまったが、これらをまとめると、関羽に襄陽の船数百艘を奪わせ、南下。自身は陸路で江陵を占領。
さらに長坂の戦いの後であるが、劉備は関羽と合流後、すぐに江夏の劉琦とも合流している。
『劉備は漢津で関羽の船団と合流したので、漢水を渡ることができた。そこで劉表の長子・劉琦とその軍勢一万余と出会い、ともに夏口へと移った。』[先主伝]
この場所での合流はおそらく偶然ではないだろう。また、劉備は劉琦とともに夏口(江夏郡の都市、先代江夏郡太守・黄祖の代よりここを江夏郡の拠点としていた)へ移ったのだから、劉備が劉琦の拠点を訪ねたのではなく、劉琦が劉備を出迎える形となっている。つまり、劉備は逃走に先立ち、江夏の劉琦とも連絡を取っていた。そして、江夏郡にも水軍があることは、先代江夏郡太守・黄祖と孫権の戦いで水軍が登場していることからも確認できる。
おそらく、荊州水軍は、襄陽・江夏・江陵(江陵が最大か?)の三都市が主な拠点であったのだろう。そして、劉備の策は襄陽の水軍を関羽に奪わせ、江夏の劉琦と連携し、自身は江陵を押さえ、その三都市の水軍を江陵に結集させ、曹操を迎え撃つというものだったのではないだろうか。
そして、曹操に水軍はない、もしくはすぐ用意できないという状況だ。だから、劉備は無理に江陵を守る必要もない。船さえ手に入れば、長江という防壁を使い、長江以南の荊州南部を拠点に曹操に対抗することもできる。実際、赤壁の戦い後、劉備は短期間で荊州南部の四郡を攻略しており、曹操の水軍が荊州に到着するまでに荊州南部を攻略することも不可能ではなかったのだろう。
だが、曹操の日に三百余里という速さの追撃に、劉備は江陵に着く前に急襲され、この劉備の計画は潰えてしまった。
『ある人が劉備に「(民衆を見捨てて)すぐに江陵に向かうべきです。このまま曹操軍の襲撃を受けたら太刀打ち出来ません」と言ったが、劉備は「そもそも大事を成し遂げるためには必ず人を基とする。今、人々が私に身を寄せてくれているのに、見捨てて去ることはできない」と言って退けた。』[先主伝]
荊州の民衆を吸収し、遅々と進む劉備に対し、ある人は民衆を見捨てて、すぐに江陵を占領すべきと進言した。それに対する劉備の「大事を成すためには人をもって基とする~」は有名な言葉で、『演義』にも採用されている。
これにより劉備は長坂にて曹操軍と戦闘となる。
◎長坂の戦い
『劉備は曹操に当陽の長坂で追い付かれると、妻子を棄てて、孔明・張飛・趙雲ら数十騎とともに逃走した。曹操は劉備の連れていた民衆や物資を多数捕獲した。』[先主伝]
『曹純は曹操のお供で荊州征伐に赴き、文聘とともに劉備を追撃し、彼の二人の娘を捕虜と、物資を捕獲し、敗残兵を手に入れた。進撃して江陵を降伏させた。』[曹純伝、文聘伝]
当陽県の長坂にて起きた戦闘で、劉備は敗北、曹操は劉備の娘をはじめ、多くの捕虜を得た。なお、この時捕虜となった劉備の娘のその後について記述はない。
他に劉備の息子・阿斗(幼名、後の劉禅)とその母・甘夫人(本編未登場)も敵の中に取り残されることとなったが、劉備の将・趙雲が救い出している。
『劉備が曹操に当陽の長坂にて追撃されると、妻子を棄てて南へと逃走した。趙雲は身に幼子、後の劉禅を抱き、その母の甘夫人を保護し、二人を守って危機を脱した。この時、趙雲が劉備の妻子を助けるために北に向かったのを見て、ある者が趙雲は曹操に投降したと言った。劉備はその者を手戟で打ち、「子龍(趙雲の字)が私を見捨てて逃げたりはしない」と言った。ほどなく趙雲は劉備の元に妻子を連れて帰ってきた。』[趙雲伝注趙雲別伝]
また、この戦いで劉備の配下・徐庶も劉備の元を去ることとなった。
『孔明と徐庶は劉備に随行していたが、曹操の追撃を受けると、徐庶の母が捕虜となった。徐庶は劉備に別れを告げ、その胸を指して「元々、劉備様とともに王業、覇業を行うつもりだったのはこの心においてでした。今、母を失い心は乱れて、役に立ちません。これでお別れです」と言い、曹操の元に赴いた。』[諸葛亮伝]
また、一説によると、この時の捕虜となった荊州民の中に後に魏の将軍となり蜀と戦うことになる鄧艾(本編未登場)が含まれていたという。
『鄧艾は義陽郡棘陽県の人。幼くして父を亡くした。曹操が荊州を征伐した時、汝南に移住し、農民のために子牛を育てる役についた。』[鄧艾伝]
義陽郡は南陽郡の一部を割いて一時期置かれていた郡。その含まれる範囲は正確には不明だが、劉備が最初、駐屯していた新野を含む一帯であったようだ。棘陽県は新野の北、曹操のいる宛の南で、その間に位置する。
鄧艾の正確な年齢は不明だが、長坂の戦いの頃はおそらく十歳前後。幼い頃に亡くなった父の死因は不明だが、あるいはこの長坂で亡くなったのかもしれない。
その後の彼の人生は、曹操のこの戦いで捕虜となった者への扱いの一例という見方もできる。彼は汝南に移住し、子牛を育てる役についたという。また、注の『世語』によると、十二、三歳の頃に襄城典農部民(予州穎川郡襄城県の屯田の労働民)となったという。おそらく他の捕虜の多くも牧畜や屯田の労働に携わることになったのではないだろうか。
曹操の攻撃は荊州の民衆を蹴散らし、劉備の妻子やその家臣の家族にまで及び、多くの犠牲を出すこととなった。
だが、劉備の将・張飛の活躍により食い止められ、劉備らは危機を脱することが出来た。
『劉備は曹操の襲撃を受けると、妻子を棄てて逃走し、張飛に二十騎を預けて背後を防がせた。張飛は川を盾に橋を切り落とし、目をいからせ、矛を構えて、「俺は張益徳(益徳は張飛の字)だ。ともに決死の覚悟で戦おう」と叫び、誰も思いきって近付こうとはせず、これによって劉備は助かった。』[張飛伝]
劉備は曹操の攻撃から逃れたが、江陵は先に占領され、その計画は頓挫することとなった。
ここで劉備の作戦を転換、江陵は諦め、東進し、漢津(津とは船の渡し場のこと)に赴き、その地にいた関羽、さらに劉琦とも合流した。
『劉備は漢津へと逃れ、そこでちょうど関羽の船団と合流したので、漢水を渡ることができた。そこで劉表の長子・劉琦とその軍勢一万余と出会い、ともに夏口へと移った。』[先主伝]
『劉備は曹操の追撃にあうと、脇道に逃れて漢津に行き、そこでちょうど関羽の船団と出会い、ともに夏口に到着した。』[関羽伝]
この時、たまたま漢津に関羽がいたため合流することができたという。だが、この時の関羽は船で移動しているのに、その速さは日に十里余りの劉備軍と同程度かより遅いことになる。
考えられるのは、一に、関羽の乗る襄陽の船は本来、劉琮の指揮下にあり、それを奪取するのに時間がかかってしまった。
二に、劉琦と合流するために漢津に停泊して待っていた。
関羽の合流とほぼ同時期に劉琦とも合流していることを考えると、二(もしくは両方)の可能性は十分にある。もしかしたら、最初から関羽はこの漢津で劉琦と合流する計画になっており、だから、劉備も関羽らと合流できる可能性が高いと判断して漢津を目指したのかもしれない。
◎劉備の進路
また、劉備は漢津に赴く前、長坂にて孫権の臣・魯粛とも合流している。
『魯粛は夏口まで来たところで、曹操は既に荊州に向かったと知り、昼夜兼行で急いだ。南郡到着時に、劉琮が降伏し、劉備が長江を渡って南へ行こうとしていると知り、魯粛は劉備の元へ駆け、当陽の長坂で面会した。』[魯粛伝]
魯粛は孫権より元々、劉表の弔問の使者という名目で劉琦・劉琮の元へ派遣された。劉琮が降伏し、劉備が逃走すると迷わず劉備の元に行ったのは魯粛自身の判断だろう。
また、注の『江表伝』によると、魯粛は劉備に対し「どちらに向かわれるつもりか」と問うと、劉備は「蒼梧太守・呉巨(本編、ゴキョ、63話より登場)と昔馴染みなので、そちらに行くつもりだ」と返している。
蒼梧郡は荊州のさらに南にある交州に属す郡である。かつて劉表は、蒼梧太守・史璜(本編未登場)が亡くなると代わりの蒼梧太守として呉巨を派遣し、後に交州刺史・張津(本編未登場)が亡くなると、代わりの交州刺史として頼恭(本編、ライキョウ、63話より登場)を派遣して、交州支配を目論んだ。[士燮伝]
劉備は荊州にいた頃の呉巨と交流があったのだろう。劉備は長江を越え、荊州を通り過ぎ、遠く交州の地へ向かう予定であった。
では、なぜ、逃走先に交州を選んだのか。話は劉備が孔明を三度訪ね、隆中にて聞いた天下三分の計にまで遡る。
孔明は劉備に漢王朝を建て直す策を訊ねられ、その回答として天下三分の計を話したが、その内容の中で荊州を根拠地とする利点をこう語っている。
『「荊州は北は漢水に拠り、“利益は南海に達し”、東は呉に連なり、西は巴蜀に通じ、これは武を用いるべき国…」』[諸葛亮伝]
ここに出てくる南海とは交州の郡の名だが、時に交州地域一帯を指す言葉としても使われる。交州は東南アジアに接し(交州自体が現ベトナムの北部を含む)、真珠や翡翠や象牙、バナナといった貴重な品々が得られた。
『建初八年(西暦83年)、交州からの献上品は揚州会稽郡を経由する海路で運んでいたが、波風に阻まれ、危険な旅であった。そこで当時の大司農の鄭弘(本編未登場)は荊州の零陵・桂陽郡に道を作ることを献策し、これを通した。』[『後漢書』鄭弘伝]
荊州と交州の間に道が通って百二十年余り、その経済的効果は無視できないものとなっていたのだろう。
孔明は天下三分の計にて、荊州の経済力は交州まで支配下においてはじめて発揮されるものであることを指摘している。
つまり、劉備が交州へ赴くのは天下三分の計に沿った策であり、彼は曹操に敗れはしたが、まだ天下三分を諦めてはいなかったのではないだろうか。
ここで劉備が曹操から逃げ切り、交州までたどり着いたと仮定する。曹操のこの度の侵攻はあくまでも荊州の征服が目的であり、交州まで遠征する用意はない。また、いつまでも許都を留守にするわけにはいかず、交州まで本格的な遠征をすることなく、一度帰還する可能性が高いのではないだろうか。
劉備は曹操が荊州よりいなくなったところを狙い北上。荊州を占領し、さらに益州まで駒を進めることができれば、天下三分の計を実現させることができる。そこまで上手くことが運ばないにしても、後数年粘った可能性は高かったのではないだろうか。
だが、劉備の元に魯粛がやって来て話を聞いた結果、彼は交州の呉巨を頼るのではなく、揚州の孫権と手を組む道を選んだ。
劉備の交州逃走にも問題点がある。
まず、第一に呉巨らの協力が得られるかということ。この時点で劉備が呉巨らとどの程度密に連絡を取っていたかは不明だが、荊州が陥落し、交州(実際の呉巨らの支配地域はその一部)単独で曹操に挑まなければいけない。劉備には目算があっただろうが、呉巨らがこれに乗り、曹操と対立する道を選ぶのか不明だということである。
第二に、曹操が劉備征伐を諦めるかということ。曹操は荊州を占領した今、表向き対立している勢力は劉備ぐらいであった。漢中の張魯(本編、チョウロ、15話名のみ登場)等従わない者もいるにはいるが、益州の劉璋(本編、リュウショウ、41話名のみ登場)や揚州の孫権等主だった勢力が恭順の姿勢を見せている今、劉備さえ倒せば一応の天下統一の体裁を整えることができる。その状況なら曹操は交州まで無理な遠征をしてでも劉備を討つ可能性はないわけではなかった。何より、交州まで無事にたどり着ける保証もない。
そこで劉備は魯粛の提案に乗り、孫権と手を組む道を選んだのであろう。
だが、それはつまり曹操との直接対決を意味していた。
◎劉備の樊城撤退
『劉備は樊に駐屯していたが、曹操の来攻を知らず、曹操が宛に到着して初めてこれを知り、自分の軍勢を率いて樊を引き払った。途中、襄陽を通過する時、軍師の孔明が劉琮を攻撃すれば荊州を支配できると進言したが、劉備は「私には忍びない」といって従わなかった。』[先主伝]
孔明の劉琮を攻撃すれば荊州を支配できるという発言は、安易として批判的な意見が多いが、劉琮後継と曹操降伏を、襄陽にいる蔡瑁ら一部の重臣たちのみで決定したのであれば、ある程度勝算のある判断だったのではないか。
劉琮を廃しても劉琦を擁立すれば、正統性を確保することができるし、襄陽以南の荊州人が劉琮後継、曹操降伏を知らない、もしくは承服していないなら蔡瑁らさえ除けば、元々、対曹操戦で劉備が中心となることは劉表生前から決まっていたのだから支持を得ることも不可能ではない。
問題は既に目前まで迫っていた曹操軍の到達が早いか、襄陽占領が早いかという時間の問題だが、新野にいる文聘を引き込むことができるのであれば、ある程度の時間稼ぎは可能だろう。
だが、劉備には劉表に申し訳ないという気持ちもあっただろうが、やはり時間の無さが問題であったのだろう。
襄陽占領するには、少なくとも事前に劉琦、文聘の協力を得ておく必要がある。だが、文聘には既に劉琮から曹操軍と戦わないよう連絡がいっているだろうから、その上で自分に従うよう説得しなければならない。劉琦が手許に入ればあるいは説得できるかもしれないが、劉琦は遠く江夏の地にいる。
劉琦のいる江夏郡まで連絡を取り合う時間、文聘を説得する時間を考えたら、やはり曹操襲撃前に襄陽占領を完了するのは難しいと判断したのだろう。
また、劉備が曹操襲来を劉琮に確認したやり取りが『漢魏春秋』にある。
『劉琮は曹操に降伏を乞うたが、劉備には知らせていなかった。劉備はしばらくして気がつき、劉琮に尋ねた。劉琮は宋忠(本編、ソウチュウ、63話より登場)を派遣して劉備に趣旨を説明させたが、既に曹操は宛にいると知り、劉備は驚いて宋忠を問いただした。「相談もせず、敵が目前に迫って知らせるのはあまりにもひどいではないか。」さらに宋忠に刀を突き付け、「今君の首を斬っても怒りは収まらない。それに君をここで斬るのは男として恥ずべきことだ」といって宋忠を帰した。』[先主伝]
また『武帝紀』には、9月、曹操が新野に到達すると劉琮は降伏したとあり、『劉表伝』には、曹操の軍が襄陽に到達すると、劉琮は荊州を上げて降伏したとある。
一見、劉琮の降伏時期がバラバラに見えるが、おそらく曹操率いる本隊が新野に到達した時点で、張遼らの先遣部隊が既に襄陽に達していたのだろう。そう考えると劉備が曹操襲来を知った時点で曹操は宛にいたのなら、その先遣部隊は既に新野付近に到達していたのではないだろうか。
なお、現代のGoogleマップの基準で申し訳ないが、宛(現南陽市宛城区)から新野(現南陽市新野県)までが約62km、新野から襄陽(現襄陽市襄陽区)までが約67kmとそう距離は変わらない。(劉備が駐留する樊は襄陽と漢水(川の名前)を挟んで北隣に位置する)
また、軍隊が一日に進む単位を一舎といい、これは三十里の距離である。これより速い行軍は補給部隊が追い付けなかったり、兵士に脱落者が出たりすることになる。一里は時代によって多少変わるのだが、漢代なら約415m、一舎は約12,4kmとなる。先ほどの距離に換算すると、宛から新野までが約五日、新野から襄陽までが約五~六日の距離となる。
これはあくまでも現代の道路事情からの換算なので当時はもう少しかかると思うが、それでもやはり時間はなく、劉備が焦るのは当然と言えるだろう。
曹操が後10日程で襄陽に到達する距離にいると知り、さらに劉琮も降伏してしまった今、劉備は樊城で抵抗することを諦め、城を棄てて逃走することを選んだ。
『劉備が襄陽を通過する時、劉琮に呼び掛けたが、劉琮は怖れて応じなかった。この時、劉琮の側近や荊州の人々の多くが劉備に同行した。』[先主伝]
『先主伝』注の『典略』によると、劉備は劉表の墓に別れを告げて立ち寄り、涙を流して去ったという。『水経注』によると、劉表の墓は襄陽城の東門の外二百歩(約276m)先にあったという。
この時、劉琮の側近や荊州の人々の多くが劉備に同行したとあるが、側近とは蔡瑁らに同意できなかった者たちだろう。この時に同行したと思われる人物に伊籍(本編、イセキ、63話より登場)らがいる。(この他、新野・襄陽付近出身の劉備家臣では、魏延(本編未登場)・劉邕(本編未登場)・傅肜(本編未登場)・霍峻(本編、カクシュン、63話より登場)・向朗(本編、ショウロウ、74話より登場)・宗預(本編未登場)・輔匡(本編未登場)・馮習(本編未登場)らがいるが、仕えた時期が不明確なため名を挙げるだけに止める。※龐統らこの地域出身者でも赤壁戦後に仕えたことが明言されている人物は省略する)
◎劉備の逃走と荊州の民
樊城を棄て、南へと逃走した劉備一行の様子を『先主伝』と『張飛伝』からまずは引用していこう。
『劉備一行が当陽に着いた頃には十余万の民衆、数千台の荷車が付き従い、一日の行程は十里余りしか進めなかった。別に関羽に命じて数百艘の船に乗せ、江陵にて落ち合うこととした。
(中略)
曹操は江陵に軍需物資があることから、劉備に占拠されることを怖れて、補給部隊を後方に放置し、一足先に襄陽に到達した。曹操は劉備が既に襄陽を通過したと知ると、精鋭の騎兵五千を率いて急いで追撃し、一昼夜に三百余里の行程を駆けて当陽の長坂で追い付いた。』[先主伝]
『劉表が死ぬと、曹操が荊州に侵攻してきたので、劉備は江南へ逃走した。曹操はこれを追撃すること一昼夜、当陽の長坂にて追い付かれた。』[張飛伝]
樊城を棄てた劉備一行は南郡南部の都市・江陵を目指すが、行く先々で民衆を吸収し、行軍は遅れに遅れ、行程の途中、当陽県長坂にて曹操軍に追い付かれてしまう。
当陽県長坂(現当陽市長坂坡)は襄陽より南へ、Googleマップの現代道路事情だと約170km先にある地点。
これを曹操は劉備を追撃するために補給部隊を切り離し、騎兵のみの部隊で三百余里という速さで追撃する。先程算出した速さで計測するなら三百里は約124km、三百“余”なのでこれより幾分か速いスピードで追いかけたことになり、襄陽から当陽までを一日半程度で駆け抜けたことになる。『張飛伝』に曹操軍は一昼夜(原文『一日一夜』)で当陽の長坂で追い付いたとあるが、この速度が事実なら『張飛伝』の記述も決して誇張ではないことになる。
対して劉備一行の移動速度は一日に十里余りとある。これでは日に四、五km程度しか進めておらず、長阪に着くには一月以上かかってしまい、曹操軍の移動速度と計算が合わない。おそらく、劉備一行は行く先々で徐々に民衆を吸収し、移動速度を落としていき、最終的に日に十里余りまで減速してしまったのだろう。
通常の行軍速度なら長坂まで約十四日程度、これより少し遅いぐらいだろうか。曹操の移動が宛から襄陽まで約十日程度+劉琮らとの面会時間+襄陽から当陽まで約一日から二日程度と考えると、合計日数が劉備とかなり近くなる。なので、長坂の戦いは劉備が樊より逃走して約十数日後の出来事であったのだろう。
◎曹操の計画、劉備の計画
曹操は襄陽に軍隊の大多数を待機させているとはいえ、ほぼ通り過ぎる形で劉備討伐を優先させた。劉琮は降伏したが、その真意は未だ不明で、事実、『劉表伝』注の『漢晋春秋』によると、王威(本編、オウイ、63話より登場)という者が劉琮に、今なら曹操も油断しているから捕虜にできると進言している。この意見を劉琮は採用しなかったが、降伏に納得できない者がまだ襄陽に潜んでいる状況であった。
その状況でも曹操が劉備討伐を優先させたのは、劉備自体が油断ならない梟雄と考えていたこともあるだろうが、もう1つの理由として、『先主伝』には劉備が目指した江陵に軍需物資があることから、占領されないように急いだとある。
つまり、曹操にとって戦場が江陵に移るのは想定外の事態であり、さらに言えば劉琮の降伏自体も想定外であった可能性がある。
しかし、この江陵にある軍需物資とはなんだろうか。そもそも劉表は曹操と決戦するつもりだったのだから、襄陽にも武器や食糧はある程度確保されていた可能性が高い。今更劉備が江陵に籠もり、武器・食糧を得たところで、曹操に対して逆転するのは難しい。それでも江陵を目指したのはそれ以上のものがあったのではないだろうか。
考えるに、江陵に豊富にあった軍需物資とはつまり、船だったのではないだろうか。
ここで荊州の地理を少し整理しよう。荊州南郡の北部にある都市が襄陽で、ここを劉表は拠点(州治、州の庁舎がある都市)としていた。同郡南部にある都市が江陵で、南郡の郡治(現代でいう県庁所在地)はこちらである。
そして襄陽の北部から東部に沿うように漢水(沔水、漢江とも、川の名前)が流れる一方、江陵の南側には中国最長の河川・長江が西から東へと流れている。なお、漢水はそのまま南へ流れるが、当陽県辺りで東へと逸れ、東隣の江夏郡内にて長江と合流する。
つまり、大船団を停泊させるなら、襄陽よりも江陵の方が適している。
また、この時、劉備軍の関羽が別行動を取り、水上ルートを移動している。
『劉備は樊より南下して長江を渡る計画をたて、関羽には別に数百艘の船を率いさせ、江陵で落ち合うこととした。』[関羽伝]
この時、関羽が使った数百艘の船とは、本来、襄陽戦で使われるはずだったものではないだろうか。
一方、荊州の水軍について呉の武将・周瑜は後に曹操と開戦するにあたって、『「今、曹操は荊州をそっくり手に入れてしまった。劉表が整備した水軍は、蒙衝(駆逐艦)、闘艦(戦艦)が数千という数に上っていた」』と述べている。[周瑜伝]
数千という数は誇張があるかもしれないが、関羽が率いてた水軍が数百艘であり、数が合わない。また、この水軍は関羽が率いているのであるから曹操の手に渡ってはいない。そして、関羽が襄陽の船を手に入れたのなら、わざわざ曹操のために数千もの船を残していったりはしないだろう。つまり、後に曹操が手に入れることになる数千の船がまだ荊州に残っている。そして、それは長江に面した江陵にあったのではないだろうか。
だから、その江陵まで劉備に占領されてしまうと、襄陽の船は既に関羽に奪われているので、曹操の元に船が全くない状況となる。
ここで一つ疑問なのが、果たして曹操は水軍を保有していなかったのかということだ。『演義』をはじめ多くの三国志物語では曹操は荊州水軍を手に入れ、それをもって赤壁の戦いに挑んでいる。
まるで曹操の水軍は荊州水軍を得て、初めて配備されたような描写だが、曹操はこの年(208年)の正月に鄴城郊外の玄武池にて水軍の訓練を行っている。荊州征伐に備えて水軍の訓練をしたのに、その水軍の当てが荊州水軍を奪うこと前提なのはおかしいのではないだろうか。水軍の訓練をしたのなら、当然、その訓練した自前の曹操水軍があったはずである。
これより先の出来事ではあるが、『先主伝』には以下の記述がある。
『劉備が孔明を呉に送り出し、その援軍を待っていた頃、劉備の元に孫権からの援軍の船が来たと警備の者が知らせに来た。劉備は「なぜ、青州・徐州の軍ではないとわかったのか?」と尋ねると、警備の者は「船を見てわかりました」と答えた。』[先主伝]
青州・徐州とは曹操領東部に位置し、東シナ海に面した州である。
これは本文ではなく、呉からみた記録である『江表伝』の記述だが、この時の劉備の言葉から、青州・徐州から、曹操水軍が攻めてくる可能性があったことがわかる。
つまり、曹操水軍は青州・徐州の湾岸に配備されており、そこから長江へ侵入し、遡上して荊州に攻めこむ算段だったのではないだろうか。
だが、長江へ侵入してもその支流の漢水に面した襄陽にたどり着く前に、江夏の荊州水軍に止められてしまう。停泊地を確保せずに長江を遡上しても敵領内で孤立するだけである。なので曹操水軍が出発するのは、襄陽攻略後、陸上部隊が江夏や江陵攻略に乗り出し、長江沿岸にその停泊地点を確保する目処が立った頃、つまり、作戦として第二段階に以降した時だったのではないだろうか。
これらを整理すると、曹操が当初、荊州征伐において想定していた戦闘は、新野、樊、襄陽での籠城戦、もしくはその手前の平地にての荊州軍との会戦、これが想定される計画の第一段階。
そして第二段階として、それら城市の攻略後、陸上部隊は江夏や江陵等の長江沿岸都市へ侵攻。これに並行して青州・徐州で待機させている水軍を出発させる、というものだったのではないだろうか。
だが、現実には劉表が死に、後を継いだ劉琮は曹操に降伏し、あっけなく襄陽は陥落。ここまでは良かったが、劉備は樊を棄てて江陵へ逃走してしまう。つまり、ここで劉備が江陵を押さえてしまうと、曹操の当初想定していた第一段階をすっ飛ばして、第二段階へ以降する事態になってしまった。
そして、江陵以南は長江によって遮られており、渡るには船が必要となる。だが、襄陽の船は既に関羽に奪われ、江陵まで劉備に押さえられては、曹操軍に長江を渡る手段がない。それから青州・徐州より水軍を呼び寄せても到着まで日数を要する。その間、長江以南の荊州南部の地域は劉備の自由となり、曹操の元に船が到着した頃には荊州南部は劉備の要塞と化すこともあり得た。
だから、曹操は劉備が江陵に走ったことを知ると急いで追撃したのだろう。実際に曹操は劉表の容態や劉琮の降伏について、どこまで事前に情報を得ていたかは不明だが、この時の劉備の動きは曹操の予想を上回り、驚嘆させるものであった。劉備に対して後手に回ってしまったのは、曹操と降伏を勧めた襄陽の劉表家臣との連携が決して密でなかったことを示している。
そう考えると、孔明が曹操の襲来を知り、劉備に提案した襄陽を占領しようという策も、孔明なりに勝算はあったであろうが、曹操が想定する荊州征伐の第一段階の範囲に収まっており、曹操をここまで狼狽えさせることは出来なかったであろう。
さて、ここで劉備に視点を移してみよう。既に劉備の作戦はある程度説明してしまったが、これらをまとめると、関羽に襄陽の船数百艘を奪わせ、南下。自身は陸路で江陵を占領。
さらに長坂の戦いの後であるが、劉備は関羽と合流後、すぐに江夏の劉琦とも合流している。
『劉備は漢津で関羽の船団と合流したので、漢水を渡ることができた。そこで劉表の長子・劉琦とその軍勢一万余と出会い、ともに夏口へと移った。』[先主伝]
この場所での合流はおそらく偶然ではないだろう。また、劉備は劉琦とともに夏口(江夏郡の都市、先代江夏郡太守・黄祖の代よりここを江夏郡の拠点としていた)へ移ったのだから、劉備が劉琦の拠点を訪ねたのではなく、劉琦が劉備を出迎える形となっている。つまり、劉備は逃走に先立ち、江夏の劉琦とも連絡を取っていた。そして、江夏郡にも水軍があることは、先代江夏郡太守・黄祖と孫権の戦いで水軍が登場していることからも確認できる。
おそらく、荊州水軍は、襄陽・江夏・江陵(江陵が最大か?)の三都市が主な拠点であったのだろう。そして、劉備の策は襄陽の水軍を関羽に奪わせ、江夏の劉琦と連携し、自身は江陵を押さえ、その三都市の水軍を江陵に結集させ、曹操を迎え撃つというものだったのではないだろうか。
そして、曹操に水軍はない、もしくはすぐ用意できないという状況だ。だから、劉備は無理に江陵を守る必要もない。船さえ手に入れば、長江という防壁を使い、長江以南の荊州南部を拠点に曹操に対抗することもできる。実際、赤壁の戦い後、劉備は短期間で荊州南部の四郡を攻略しており、曹操の水軍が荊州に到着するまでに荊州南部を攻略することも不可能ではなかったのだろう。
だが、曹操の日に三百余里という速さの追撃に、劉備は江陵に着く前に急襲され、この劉備の計画は潰えてしまった。
『ある人が劉備に「(民衆を見捨てて)すぐに江陵に向かうべきです。このまま曹操軍の襲撃を受けたら太刀打ち出来ません」と言ったが、劉備は「そもそも大事を成し遂げるためには必ず人を基とする。今、人々が私に身を寄せてくれているのに、見捨てて去ることはできない」と言って退けた。』[先主伝]
荊州の民衆を吸収し、遅々と進む劉備に対し、ある人は民衆を見捨てて、すぐに江陵を占領すべきと進言した。それに対する劉備の「大事を成すためには人をもって基とする~」は有名な言葉で、『演義』にも採用されている。
これにより劉備は長坂にて曹操軍と戦闘となる。
◎長坂の戦い
『劉備は曹操に当陽の長坂で追い付かれると、妻子を棄てて、孔明・張飛・趙雲ら数十騎とともに逃走した。曹操は劉備の連れていた民衆や物資を多数捕獲した。』[先主伝]
『曹純は曹操のお供で荊州征伐に赴き、文聘とともに劉備を追撃し、彼の二人の娘を捕虜と、物資を捕獲し、敗残兵を手に入れた。進撃して江陵を降伏させた。』[曹純伝、文聘伝]
当陽県の長坂にて起きた戦闘で、劉備は敗北、曹操は劉備の娘をはじめ、多くの捕虜を得た。なお、この時捕虜となった劉備の娘のその後について記述はない。
他に劉備の息子・阿斗(幼名、後の劉禅)とその母・甘夫人(本編未登場)も敵の中に取り残されることとなったが、劉備の将・趙雲が救い出している。
『劉備が曹操に当陽の長坂にて追撃されると、妻子を棄てて南へと逃走した。趙雲は身に幼子、後の劉禅を抱き、その母の甘夫人を保護し、二人を守って危機を脱した。この時、趙雲が劉備の妻子を助けるために北に向かったのを見て、ある者が趙雲は曹操に投降したと言った。劉備はその者を手戟で打ち、「子龍(趙雲の字)が私を見捨てて逃げたりはしない」と言った。ほどなく趙雲は劉備の元に妻子を連れて帰ってきた。』[趙雲伝注趙雲別伝]
また、この戦いで劉備の配下・徐庶も劉備の元を去ることとなった。
『孔明と徐庶は劉備に随行していたが、曹操の追撃を受けると、徐庶の母が捕虜となった。徐庶は劉備に別れを告げ、その胸を指して「元々、劉備様とともに王業、覇業を行うつもりだったのはこの心においてでした。今、母を失い心は乱れて、役に立ちません。これでお別れです」と言い、曹操の元に赴いた。』[諸葛亮伝]
また、一説によると、この時の捕虜となった荊州民の中に後に魏の将軍となり蜀と戦うことになる鄧艾(本編未登場)が含まれていたという。
『鄧艾は義陽郡棘陽県の人。幼くして父を亡くした。曹操が荊州を征伐した時、汝南に移住し、農民のために子牛を育てる役についた。』[鄧艾伝]
義陽郡は南陽郡の一部を割いて一時期置かれていた郡。その含まれる範囲は正確には不明だが、劉備が最初、駐屯していた新野を含む一帯であったようだ。棘陽県は新野の北、曹操のいる宛の南で、その間に位置する。
鄧艾の正確な年齢は不明だが、長坂の戦いの頃はおそらく十歳前後。幼い頃に亡くなった父の死因は不明だが、あるいはこの長坂で亡くなったのかもしれない。
その後の彼の人生は、曹操のこの戦いで捕虜となった者への扱いの一例という見方もできる。彼は汝南に移住し、子牛を育てる役についたという。また、注の『世語』によると、十二、三歳の頃に襄城典農部民(予州穎川郡襄城県の屯田の労働民)となったという。おそらく他の捕虜の多くも牧畜や屯田の労働に携わることになったのではないだろうか。
曹操の攻撃は荊州の民衆を蹴散らし、劉備の妻子やその家臣の家族にまで及び、多くの犠牲を出すこととなった。
だが、劉備の将・張飛の活躍により食い止められ、劉備らは危機を脱することが出来た。
『劉備は曹操の襲撃を受けると、妻子を棄てて逃走し、張飛に二十騎を預けて背後を防がせた。張飛は川を盾に橋を切り落とし、目をいからせ、矛を構えて、「俺は張益徳(益徳は張飛の字)だ。ともに決死の覚悟で戦おう」と叫び、誰も思いきって近付こうとはせず、これによって劉備は助かった。』[張飛伝]
劉備は曹操の攻撃から逃れたが、江陵は先に占領され、その計画は頓挫することとなった。
ここで劉備の作戦を転換、江陵は諦め、東進し、漢津(津とは船の渡し場のこと)に赴き、その地にいた関羽、さらに劉琦とも合流した。
『劉備は漢津へと逃れ、そこでちょうど関羽の船団と合流したので、漢水を渡ることができた。そこで劉表の長子・劉琦とその軍勢一万余と出会い、ともに夏口へと移った。』[先主伝]
『劉備は曹操の追撃にあうと、脇道に逃れて漢津に行き、そこでちょうど関羽の船団と出会い、ともに夏口に到着した。』[関羽伝]
この時、たまたま漢津に関羽がいたため合流することができたという。だが、この時の関羽は船で移動しているのに、その速さは日に十里余りの劉備軍と同程度かより遅いことになる。
考えられるのは、一に、関羽の乗る襄陽の船は本来、劉琮の指揮下にあり、それを奪取するのに時間がかかってしまった。
二に、劉琦と合流するために漢津に停泊して待っていた。
関羽の合流とほぼ同時期に劉琦とも合流していることを考えると、二(もしくは両方)の可能性は十分にある。もしかしたら、最初から関羽はこの漢津で劉琦と合流する計画になっており、だから、劉備も関羽らと合流できる可能性が高いと判断して漢津を目指したのかもしれない。
◎劉備の進路
また、劉備は漢津に赴く前、長坂にて孫権の臣・魯粛とも合流している。
『魯粛は夏口まで来たところで、曹操は既に荊州に向かったと知り、昼夜兼行で急いだ。南郡到着時に、劉琮が降伏し、劉備が長江を渡って南へ行こうとしていると知り、魯粛は劉備の元へ駆け、当陽の長坂で面会した。』[魯粛伝]
魯粛は孫権より元々、劉表の弔問の使者という名目で劉琦・劉琮の元へ派遣された。劉琮が降伏し、劉備が逃走すると迷わず劉備の元に行ったのは魯粛自身の判断だろう。
また、注の『江表伝』によると、魯粛は劉備に対し「どちらに向かわれるつもりか」と問うと、劉備は「蒼梧太守・呉巨(本編、ゴキョ、63話より登場)と昔馴染みなので、そちらに行くつもりだ」と返している。
蒼梧郡は荊州のさらに南にある交州に属す郡である。かつて劉表は、蒼梧太守・史璜(本編未登場)が亡くなると代わりの蒼梧太守として呉巨を派遣し、後に交州刺史・張津(本編未登場)が亡くなると、代わりの交州刺史として頼恭(本編、ライキョウ、63話より登場)を派遣して、交州支配を目論んだ。[士燮伝]
劉備は荊州にいた頃の呉巨と交流があったのだろう。劉備は長江を越え、荊州を通り過ぎ、遠く交州の地へ向かう予定であった。
では、なぜ、逃走先に交州を選んだのか。話は劉備が孔明を三度訪ね、隆中にて聞いた天下三分の計にまで遡る。
孔明は劉備に漢王朝を建て直す策を訊ねられ、その回答として天下三分の計を話したが、その内容の中で荊州を根拠地とする利点をこう語っている。
『「荊州は北は漢水に拠り、“利益は南海に達し”、東は呉に連なり、西は巴蜀に通じ、これは武を用いるべき国…」』[諸葛亮伝]
ここに出てくる南海とは交州の郡の名だが、時に交州地域一帯を指す言葉としても使われる。交州は東南アジアに接し(交州自体が現ベトナムの北部を含む)、真珠や翡翠や象牙、バナナといった貴重な品々が得られた。
『建初八年(西暦83年)、交州からの献上品は揚州会稽郡を経由する海路で運んでいたが、波風に阻まれ、危険な旅であった。そこで当時の大司農の鄭弘(本編未登場)は荊州の零陵・桂陽郡に道を作ることを献策し、これを通した。』[『後漢書』鄭弘伝]
荊州と交州の間に道が通って百二十年余り、その経済的効果は無視できないものとなっていたのだろう。
孔明は天下三分の計にて、荊州の経済力は交州まで支配下においてはじめて発揮されるものであることを指摘している。
つまり、劉備が交州へ赴くのは天下三分の計に沿った策であり、彼は曹操に敗れはしたが、まだ天下三分を諦めてはいなかったのではないだろうか。
ここで劉備が曹操から逃げ切り、交州までたどり着いたと仮定する。曹操のこの度の侵攻はあくまでも荊州の征服が目的であり、交州まで遠征する用意はない。また、いつまでも許都を留守にするわけにはいかず、交州まで本格的な遠征をすることなく、一度帰還する可能性が高いのではないだろうか。
劉備は曹操が荊州よりいなくなったところを狙い北上。荊州を占領し、さらに益州まで駒を進めることができれば、天下三分の計を実現させることができる。そこまで上手くことが運ばないにしても、後数年粘った可能性は高かったのではないだろうか。
だが、劉備の元に魯粛がやって来て話を聞いた結果、彼は交州の呉巨を頼るのではなく、揚州の孫権と手を組む道を選んだ。
劉備の交州逃走にも問題点がある。
まず、第一に呉巨らの協力が得られるかということ。この時点で劉備が呉巨らとどの程度密に連絡を取っていたかは不明だが、荊州が陥落し、交州(実際の呉巨らの支配地域はその一部)単独で曹操に挑まなければいけない。劉備には目算があっただろうが、呉巨らがこれに乗り、曹操と対立する道を選ぶのか不明だということである。
第二に、曹操が劉備征伐を諦めるかということ。曹操は荊州を占領した今、表向き対立している勢力は劉備ぐらいであった。漢中の張魯(本編、チョウロ、15話名のみ登場)等従わない者もいるにはいるが、益州の劉璋(本編、リュウショウ、41話名のみ登場)や揚州の孫権等主だった勢力が恭順の姿勢を見せている今、劉備さえ倒せば一応の天下統一の体裁を整えることができる。その状況なら曹操は交州まで無理な遠征をしてでも劉備を討つ可能性はないわけではなかった。何より、交州まで無事にたどり着ける保証もない。
そこで劉備は魯粛の提案に乗り、孫権と手を組む道を選んだのであろう。
だが、それはつまり曹操との直接対決を意味していた。
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