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第5部 赤壁大戦編
歴史解説 赤壁の戦いその4
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前回は江東に築かれた孫氏政権とその中での孫権の立ち位置について述べた。今回はその孫権がどのようにして赤壁の戦いに参加するのかまでの過程を紹介していこう。
◎魯粛と孔明の天下三分
孫策の後を継いだ孫権であったが、母・呉夫人が政治の実権を握って曹操と接近し、従兄の孫賁・孫輔兄弟が力を増していた。そんな頃に亡き兄の友人・周瑜の推挙により魯粛が孫権の前にやって来た。
『孫権は魯粛の意見を求めていった、「今、漢王朝は傾き、天下は乱れている。私は亡き父・兄の業績を継ぎ、斉の桓公や晋の文公のような功績を上げたいと願っている。あなたは私のところに来てくれたが、どのように助けてくれるのか?」
魯粛は「昔、劉邦様が楚の義帝に助けられなかったのは、項羽がいたからです。今の曹操はまさに項羽ですので、孫権様が桓公や文公になろうとしても無理でしょう。私が考えるに、漢王朝の再興は不可能で、曹操を除くこともできません。
孫権様の最良の策は、江東を足場に、天下の趨勢を見守りください。そして、北方に問題が起きた隙に、黄祖を除き、劉表を伐ち、長江流域を占領するのです。その上で帝王を名乗られ、天下の支配に乗り出すのです」これに対して孫権は「今は自分のところが精一杯で、漢王朝のお力添えを願うばかりで、私の力ではできない」と答えた。』[魯粛伝]
この後、重臣の張昭から、魯粛は傲慢で任用するに早すぎると非難されたため、役職は与えられなかったが、客人として充分な待遇を得ることとなる。
孫権が名前を出した斉の桓公と晋の文公は共に春秋時代の人物で、春秋五覇(春秋時代に周王朝に代わって天下をまとめた五人の覇者)に数えられている。
かつて孫策が江東に赴く前、張紘を訪ねた時に以下のような逸話がある。
『孫策は張紘を訪ねて今後の方策について聞いたが、その時の張紘は、「昔、周王朝が傾いた時、斉の桓公と晋の文公とが立ち、王室を安定させました。あなたが呉で兵を募り、荊州・揚州を一つに纏め、漢王朝を立て直せば、その功績は桓公や文公にも引けをとりません」と答えた。』[孫策伝注呉歴]
孫権が桓公・文公の名を出すのは、兄のやろうとしたことを引き継ぐという意志もあったのではないだろうか。
かつて中華の歴史は黄河文明から始まり、長らく北部が中心地であった。だが、後漢時代になると徐々に長江周辺の地域が発展していった。さらに戦乱や食糧難等により北部より移民が進み、南部の人口はより増えていくこととなる。
この発展する南部に目を付けた人物は少なからずいた。先ほど上げた張紘も孫策が江東に赴く以前より荊州や揚州の長江周辺の地域の重要性に気付いていた。
だが、魯粛の意見はさらにそれを進めたものであった。長江流域の地域を押さえ、曹操に対抗することに加え、当時まだタブー意識の強かった皇帝即位を意識したものであった。
ここで思い返すのは、孔明が劉備にいった天下三分の計である。
『「董卓の乱以降、群雄割拠し、その数は数えきれぬほどです。その中で曹操は袁紹を破ってから、百万の軍勢を擁し、天子(皇帝)を擁立して、対等に戦える相手ではありません。孫権は江東を支配し、堅固なのでこれは味方にすべきです。
荊州は北方は漢水にまたがり、利益は南海に達し、東方は呉会(揚州)に連なり、西方は巴蜀(益州)に通じて、武を用いるべき国なのに、領主(劉表)はそれに堪えれる人物ではありません。まず、この荊州を取るべきです。また、益州は要害で肥沃な土地で、劉邦(漢の高祖)様もこの地で帝業を完成させました。
この荊州・益州を支配し、西方・南方の異民族を慰撫し、外では孫権と手を組みましょう。そして、曹操の隙をついて、上将を荊州から出撃させ、劉備様が益州より出撃すれば、覇業は成就し、漢王朝は復興するでしょう」』[諸葛亮伝]
両者を比べるとよく似ていることがわかる。これはどちらがどちらを真似したというわけではないだろう。そもそも南部に基盤を築くという意見自体は先ほどの張紘のように目端の効く人物なら気付いていた。魯粛は初めて孔明に会った時、兄の諸葛瑾の友人だと名乗った。つまり、孔明と魯粛は諸葛瑾を介して情報を得る術があったのである。
孔明の天下三分の計を読むと、同盟相手として孫権を名指ししている。考えれば、この頃まで孫権は兄・孫策を後を継いだとはいえ、政務や外交は母・呉夫人が執りしきり(呉夫人がちょうど逝去した頃であろうか)、従兄の孫賁・孫輔が曹操に重用され、台頭してきていた。孫権自身に強い意志が無ければこのまま埋もれてしまいかねない状況であった。
だが、孫権は魯粛に語ったように、斉の桓公や晋の文公になりたいと思い、さらに魯粛の皇帝になろうという言葉に強い興味を示すほどの人物であった。
孔明は諸葛瑾や魯粛よりこういった情報を得ていたからこそ、孫権の名を出したのだろう。もっと言えば、益州の劉璋や漢中の張魯は討伐対象なのに、孫権のみ同盟相手に選んだのも、諸葛瑾らを介して話をつける宛があったということであろう。そう考えると魯粛がわざわざ窮地の劉備を訪ねて、孔明とともに孫権・劉備両者の同盟を画策したのも、ある程度、天下三分を唱えた頃からの規定路線といえる。
この中国南部に基盤を築く案に、魯粛は皇帝僭称を加えている一方、孔明はあくまで漢王朝の復興に止まっている。この両者の違いは、両君主の要求の差だろう。孫権は漠然と桓公・文公になりたいと述べたのに対し、劉備は漢王朝の復興と打倒曹操という明確な目標を述べている。質問の内容が違うのだから、両者の回答が変わっているのは当然だろう。
魯粛は孫権の問いからその野心を嗅ぎ取り、皇帝への道を示し、孫権の信頼を得た。一方、後発である孔明はこの時点(三顧の礼のあった207年)での江東や益州・交州の情勢もを取り入れ、かつて張紘や魯粛の語った南部論の207年最新版のような内容となり、劉備の信頼を得ることとなった。
そして、曹操が荊州へ侵攻すると、この魯粛が荊州へと赴き、劉備に孫権との同盟を提案する。
◎揺れる江東政権
『劉表が死ぬと魯粛は孫権に言った。「荊州の地は我が領土と隣接しており、川や山に囲まれた堅固さと、豊かさを有しており、ここを領有すれば帝王への道の資本となるでしょう。今、劉表が死に、その二人の息子が対立し、家臣も両派に別れております。それに加えて劉備という英傑が劉表の元に身を寄せましたが、十分に活かせませんでした。
もし、劉備が劉表の息子達と心を合わせ、一つに纏まるのであれば、同盟を結ぶべきです。しかし、もし彼らの仲が上手くいかないのであれば、対応した新たな計略を立てるべきです。どうか、私を劉表の弔問として二人の息子の元に派遣してください。弔問の最中に、劉表家臣や劉備に、共に曹操と戦うよう説得します。劉備はこの言葉に喜んで従うでしょう」孫権はすぐさま魯粛を荊州に派遣したが、夏口に着いた頃に曹操が荊州に向かったと聞き、南郡に着いた時には劉琮が降伏して、劉備が逃走したことを知った。魯粛は劉備に会うべく当陽に向かい、長阪にて面会した。』[魯粛伝]
江東の孫氏は長らく荊州の劉表と対立関係にあり、孫権は劉表の部下・黄祖をこの年の春に討ったばかりである。そのような相手にいくら代替わりして、曹操が迫っているからといって簡単に同盟が組めるとは思えない。
魯粛は会話の中で、劉備の名を何度も出しているが、初めから劉表の息子ではなく、劉備を説得することを目的に荊州に赴いたのではないか。劉琮は既に曹操に降伏しているので選択肢から外したとしても、まだもう一人の息子・劉琦がいる。彼は江夏郡におり、その後、漢津辺りで劉備と合流しているのだから、魯粛が夏口(江夏郡に属す)に到着した時、最も近くにいたのは劉琦である。
それを無視して劉備の元に一直線に向かい、孔明には兄・諸葛瑾の友人と語るのは、初めから劉備と同盟を結び、さらにはかつて構想した南部を基盤とする天下三分の計(魯粛が劉備を加えて天下を三分する気があったかは不明だが)を実行する気だったのではないか。
こうして魯粛は孔明を連れて、孫権の元に帰還した。だが、孫権の元では既に曹操に対する議論が巻き起こっていた。そして、その多くは曹操への恭順論であった。
『曹操が荊州に侵攻し、劉琮が降伏すると、曹操は荊州の水軍を手に入れ、曹操軍の兵士は合わせて数十万にもなった。これを聞いた孫権の家臣は恐れを抱いた。孫権は群臣達にどう対処すべきか尋ねると、群臣の口を揃えてこう言った。
「曹操は悪人ですが、皇帝を擁していますので、逆らえば逆賊となります。それに加え、孫権様には長江の守りがありましたが、今、曹操は荊州水軍を手に入れ、その船は数千にものぼり、長江の守りは通じなくなりました。しかも、双方の戦力差は歴然であります。これらから考えれば曹操を迎え入れるのが最善です」』[周瑜伝]
この時の議論の中心は『周瑜伝』の注に引く『江表伝』の孫権の発言から察するに張昭・秦松(本編、シンショウ、89話より登場)らであったようだ。
秦松はこのあとあまり長生きしなかったので、知名度が乏しいが、彼も張昭同様、孫策時代から仕える文官であった。
また、『孫権伝』の注の『江表伝』によると『この時、曹操が孫権に送った書簡には「近頃、罪人を討伐せんと、南征したところ、劉琮は抵抗せずに降伏した。今度は水軍八十万の軍勢を整えて、将軍(孫権)とお会いして呉の地で狩猟をしたい」孫権はこの手紙を受け取り、群臣に示したが、誰もが震え上がった』とある。
有名な曹操の孫権に対する降伏勧告の元ネタである。この狩猟をしたいという部分が、合戦で雌雄を決したいの比喩であると解釈されている。
しかし、この文章が実際に曹操から孫権に送られたのかは疑問である。
まず、この時点の曹操の目的は荊州征伐であり、江東の孫権とは何の関係もない。孫権は長らく荊州とは対立関係にあり、対して曹操とは友好的な関係であった。また、前回で見てきたように、曹操は長い時間をかけて、孫権の権力の切り崩しを計っており、従兄の孫賁・孫輔が力を持ち、そちらとも友好的な関係を築いているのに、それを全てご破算にするような降伏勧告を反発覚悟でやる必要性もない。
また、先ほどの群臣達の言葉からわかるように、呉はこの時点の曹操の戦力を陸軍・水軍合わせて数十万、船数千と分析している。それに対して曹操のいう水軍八十万というのは明らかに盛っており、呉の群臣達がこの数字を素直に信じるとは思えない。
そもそもこの書簡の意味がよくわからない。孫権と呉で狩猟がしたいとのみ言い、これを合戦で雌雄を決したいという意味だろうとして解釈している。だが、実際の真意が分かりにくい上に、具体的な要求もない。この書簡からは曹操が孫権に対して何をして欲しいのか、その要求が全く読み取れない。
これらのことを考えれば、実際にこの書簡は当時、曹操から孫権に届けられたものではないのだろう。これはおそらく、この後、孫権が曹操と戦うことになって、その孫権側の正統性を主張するために作られたものではないだろうか。
では、実際はどうであったか。この書簡は事実ではなくとも、孫権は群臣達と曹操を受け入れるかどうか議論しており、やはり、曹操から降伏ではないにせよ、何かしらの要求は出されていたことが推察される。
曹操からの要求を考える上で参考になるのが、当時、孫権とよく似た立場であった益州の劉璋と曹操の外交であろう。
劉璋は荊州の西隣、益州の領主でこちらも長らく曹操とは友好的な関係を続けていた。その劉璋は曹操が荊州を占領すると、部下の張松(本編、チョーショー、92話より登場)を使者に送っている。
これより以前、劉璋は曹操に友好の使者を二度派遣したが、いずれも曹操から歓迎された。対してこの度の使者は曹操が荊州を占領し、劉備を逃走させた直後であったため、冷たくあしらわれ、それを張松は怨みに思い、帰還後、曹操が赤壁でやぶれると、劉璋に絶縁を提案している。
このエピソードは『三国志演義』では赤壁の戦いの後に書かれているが、実際は赤壁の戦いの前の出来事となっている。荊州占領後、曹操がかなり慢心していたことがわかる逸話である。
なお、この逸話は本編ではソウソウではなく、代理のリリツ(本編、91話より登場)が行った行動となっている。後の歴史を考えるとかなりの大失態と言えるので、リリツに貧乏くじを引かせる形となった。リリツのモデルはこの時に曹操が任命した荊州刺史・李立で実在の人物である。
この件もあって張松は曹操が赤壁で大敗すると、彼との絶縁を主張し、劉備に接近することとなるが、赤壁までの間では、劉璋は曹操との友好関係を維持し、その要求を受け入れたようである。
『益州の牧・劉璋が初めて役夫の徴収を受け入れ、兵を派遣して軍に提供した。』[武帝紀]
『武帝紀』の記述から、この時に劉璋が曹操に兵を提供したことがわかる。
孫権にも似たような要求が出されていたと推測できる。この時、孫権は既に柴桑という荊州江夏郡の最前線の都市に駐留していたのも、後に曹操との開戦を決断した時に、周瑜にすぐに兵三万を用意できたのも、これらが本来、曹操へ援軍提供のための準備であったと考えると合点がいく。
劉璋は兵を提供したのみであったが、対して孫権の目前にある江夏郡は劉備や劉琦が逃げ込み、拠点とした場所である。孫権は以前よりたびたび江夏郡には侵攻しており、そのためにより多くの派兵が要請され、具体的な作戦に加わるよう指示があったのかもしれない。
また、これ以外にも曹操からの要求はあったようである。
『孫権の従兄の予章太守・孫賁は、その娘が曹操の息子の嫁になっていることから、曹操が荊州を手に入れると、孫賁は畏れて、息子を人質として曹操へ差し出そうとした。朱治はその事を聞くと、孫賁を説得して、これにより人質を送ることを止めた。』[朱治伝]
これは孫権の従兄・孫賁に関してであり、その内容も孫賁が自発的にやったように読めるが、曹操からの人質要求はあったかもしれない。曹操の人質であれば、その名目は朝廷への出仕(つまり曹操に直接仕える)の可能性も高く、あるいは孫権自身の出仕も要求した可能性があるのではないだろうか。
一見すると、孫権が曹操に仕えるのと、孫権が曹操に降伏するのは同じようにも思えるが、江東の豪族として孫家がそのまま残るか、孫家そのものが解体吸収されるかの差がある。孫権が曹操に仕えても、従兄の孫賁らが江東に残り続けるのであれば江東の豪族としての孫家は維持される。ただ、将来的には吸収されることを視野に入れた要求ではあるだろう。
◎魯粛・孔明の説得
この時の降伏論に対し、魯粛は以下のような行動に出た。
『魯粛は劉備の使者として孔明を伴い、孫権の元に帰還した。群臣の曹操に帰順すべきという意見に、魯粛は何も言わず、孫権が手洗いに立つと魯粛はこれを追いかけ、孫権に答えた。
「先ほどからの群臣の意見は孫権様を誤らせるもので、聞くべきではありません。もし、私が曹操に降伏すれば、高い役職をもらい、いずれは州刺史や郡太守にもなれるでしょう。ですが、孫権様が降伏すれば、どこに居場所があるでしょうか。あのような意見を採用しないように」
これに対して孫権は嘆息していった。「群臣達の意見は私を失望させるものであった。今、あなたの意見は私の考えに齟齬がない。天があなたを私に授けてくださったのだ」
この時、周瑜は使者の役目で鄱陽にいたが、魯粛は孫権に彼を召し返すよう進言した。』[魯粛伝]
援軍であれ、人質であれ、朝廷出仕であれ、孫権は曹操からの要求に答えるのを良しとせず、魯粛の意見を入れ、曹操との開戦を望むようになった。
また、魯粛に同行してきた劉備の軍師・孔明も孫権と会見を行った。
『孔明は孫権を説得しようと言った、「天下は乱れ、孫権様は江東を所有され、劉備様もまた南部で軍勢を従え、曹操と天下を争っております。今、曹操は天下の大半を平定し、さらに荊州を破って、威勢は世を震わせております。英雄は武を用いる余地もなく、やむなく劉備様も遁走してこちらに参られました。
孫権様もご自身の力量を推し量り、もし呉の軍勢で曹操に対抗できるとお思いなら、即刻国交を断絶すべきです。もし、対抗できないとお思いなら、服従すべきです。今、孫権様は外では服従の素振りを見せつつも、内では引き延ばしを謀っております。事態が切迫しているのに、決断されないのであれば、災禍にまみえることでしょう。」
それに対して孫権、「もし、君の言う通りなら、なぜ、劉備は曹操に服従しないのか。」これに孔明が答える、「劉備様は皇帝の後裔であり、その英才は卓越しており、多くの士が敬慕しております。これで事がならないのは天命です。どうして曹操の下につけましょうか」
孫権ムッとして、「私は江東の領地、十万の軍勢を持ちながら、他人の干渉を受けるわけにはいかない。私は決心した。劉備以外に曹操に当たれる者はいないが、今、劉備は曹操に敗れたばかりだ。どうして頼りにすることができようか」
孔明、「劉備様は長坂で敗れたといっても、今、逃げ帰った兵と関羽の水軍を合わせて一万、劉琦の江夏軍が一万おります。対して曹操軍は遠征で疲れております。さらに、北方の人間は水戦に不慣れです。また荊州は曹操を畏れて従っているだけで、心から従っているわけではございません。
今、孫権様が勇猛な指揮官に兵数万を与え、劉備様と協力すれば、曹操を撃破できます。曹操を倒し、北方に追い返せば、荊州・揚州の軍勢は強大になり、三者鼎立の状況が作れます。成功失敗のきっかけは本日にあります。」
孫権は、多いに喜び、すぐさま周瑜・程普(本編、テイフ、9話より登場)・魯粛ら水軍三万を派遣し、孔明を劉備の元に行かせ、協力して曹操を防がせた。』[諸葛亮伝]
『蜀志』(『正史三国志』の蜀(劉備)側の記録)を読む限り、この時に孫権を動かしたのはこの時の孔明の言葉によってである。対して『呉志』(『正史三国志』の呉(孫権)側の記録)を読むと、孫権を動かしたのは、魯粛、そしてこの後に登場する周瑜となっている。同じ『正史三国志』内でも食い違いがあるが、蜀側の公式記録と呉側の公式記録の参考にした結果起きた食い違いだろう。
この三者がどのような順番で孫権と話したからはっきりしないが、孫権が軍を預け、実際に曹操と戦うことになるのは周瑜である。ならば、孫権が最終的に決断できたのは、周瑜が勝算ありと語ったことが決め手であったのだろう。
魯粛はこの時まだ家臣内では下っ端に過ぎず、孔明はよそ者である。この二人の言葉だけで、孫権が曹操との開戦を決断できるとも思えない。だが、この二人の説得は無駄でもなかっただろう。魯粛の話により、孫権は曹操との開戦という選択肢を得、孔明の話により、劉備が未だ有力な協力者になり得るとわかり、孫権の後押しをすることとなった。
しかし、下っ端とよそ者では、孫権が納得しても、群臣をも説得させるまでには至らない。そこで魯粛は周瑜の招集を提案した。
◎周瑜の登場
周瑜がこの時駐屯していた鄱陽は(孫権のいる)柴桑と同じ予章郡内にあり、そこまで遠い場所ではない。周瑜が鄱陽にいた詳細な理由は不明だが、当時、鄱陽には独立勢力があり、呉の時代にもたびたび反乱を起こしていたようなので、その勢力との交渉であったのかもしれない。
『到着した周瑜は降伏論に対し、「曹操の正体は漢に仇なす賊徒です。一方、孫権様は武略と才能を有し、加えて父孫堅様、兄孫策様の偉業を継ぎ、江東に割拠しております。その土地は数千里に及び、兵は精強、英傑が忠誠を誓っておりますから、漢の賊徒を除くべきです。ましてや曹操は自ら死地に飛び込んできたのに、迎え入れる必要はありません。
今、北方は未だ不安定で、馬超(本編、バチョウ、68話声のみ登場)らが関西におり、曹操の後患となっております。さらに騎馬を捨て船を得て、呉に戦いを挑むのは、彼らの得意とするところではありません。また、今の時期は寒さが厳しく、馬に秣無く、敵は遠く湿地を通っているので、風土に慣れず、必ず疫病が生じましょう。これらの点を犯して曹操は進んで来ておりますから、そのうち奴を捕虜にできるでしょう。願わくは私に精鋭三万を預けてください。必ず曹操を打ち破ってみせます」
孫権は言った。「老いぼれの悪党(曹操)が自ら帝位に就こうとしていることは以前から知られたことだ。ただ袁紹・袁術や呂布、劉表と私を憚って出来ずにいた。今は多くの群雄が滅び、私だけが残っている。私とあの悪党は両立できぬ。周瑜の意見は私の意見と合致している。これぞ天が周瑜を私に授けてくださったのだ」』[周瑜伝]
この周瑜の発言に推され、孫権はついに曹操との開戦を決意する。
周瑜は揚州盧江郡舒県の人。その家は代々名家として知られ、周瑜の従祖父・周景(本編未登場)とその子・周忠(本編未登場)という二人の太尉(大臣最高位の三公の一つ)を輩出し、周瑜の父・周異(本編未登場)は洛陽県令(首都である洛陽の長官)であった。
孫堅が董卓討伐で挙兵すると、自身の家族を舒の周家に預けた。孫堅の子・孫策と周家の子・周瑜とは同い年であり(周瑜伝注に引く『江表伝』の呉夫人の言葉によれば周瑜の生まれの方が一ヶ月だけ遅かったという)、特に親しく交わりを結んだ。
孫策伝の注に引く『江表伝』によると、周瑜自ら孫策を訪ね、そこで親しくなり、周瑜の勧めで舒の周家へ疎開したという。だが、おそらく当時の周家のまとめ役は従父の周忠であり、彼は董卓が支配する朝廷で大司農(大臣の一つ)(周忠が太尉に昇進するのは192年)を務めていた。その周忠の実家で、董卓討伐を行う孫堅の妻子を匿うことを当時まだ少年であった周瑜の一存で決められるとは思えない。
おそらく周家の総意で匿われたのだろう。元々、周家の基盤を築いた周瑜の高祖父・周栄(本編未登場)は、袁紹・袁術らの高祖父・袁安(本編未登場)の部下であり、代々周家と袁家は親しい関係にあった。
董卓討伐で挙兵したのは袁紹・袁術らもであり、また袁術は孫堅と手を組んでいた。周家が孫堅に協力するのはこの辺りの事情であろうか。さらに周忠個人の事情でいえば、彼の息子は董卓に警戒され、殺されている。周忠は董卓の側にいたが、心は反董卓側にいたのであろう。
袁術を介して孫家と強い繋がりをもった周家であったが、周瑜個人はともかく、周家自体でいうなら、孫家より袁家との繋がりの方が強かったようで、袁術の力が強い間は周瑜も袁術の指示に従っている。周瑜が正式に孫策の傘下に入ったのは198年頃のことで、袁術が皇帝を称し、その勢力に陰りが見え始めた頃であった。
周瑜が孫策に従ったのは彼の活躍期間から見れば晩年といえる時期であったが、孫策は周瑜を中護軍・江夏太守とし、来て早々に幹部待遇で扱った。
だが、周瑜が来てわずか2年後の200年に孫策は亡くなってしまう。後を継いだ孫権はまだ若かったために、部下の中には軽んじる者もいたが、名門出身である周瑜が率先して孫権に従ったので、周囲も次第に孫権に従うようになったという。
孫家が江東で基盤を維持する上で周瑜の存在は欠かせないものであった。だが、孫権が継いでも実質的な支配者は母の呉夫人であり、彼女は領土の安定を優先し、対外戦争に消極的になったために、周瑜は活躍の場を失うことになってしまう。孫策没後から呉夫人存命の間、周瑜が戦場に出た記録は206年の山越討伐と同年の黄祖侵攻の二度。その次は呉夫人没後の208年の黄祖攻めとなる。
周瑜は孫策と共闘し、その覇業を助けようと思った矢先に、孫策を喪った。さらに方針転換に伴い周瑜はその軍才を活かせずに、数年の時を過ごすこととなった。周瑜はおそらく孫策同様、その方針は領土拡大であり、呉夫人の政策は彼の望むところではなかったのかもしれない。
曹操との開戦は周瑜にとってようやく訪れた自分の力を発揮できるチャンスだったのだろう。
◎孫賁・孫輔兄弟との決別
この頃の揚州の孫氏政権は事実上の連合政権のような状況で、まだ若く、実績の乏しい孫権の立場は決して高いものではなかったと思われる。
その孫権が、ほぼ独断でそれまでの曹操との友好路線を捨て、開戦に舵を切ったのだから、当然、反発は想定された。その中でも特に反発すると思われるのは、曹操との友好路線の恩恵を受け、征虜将軍や平南将軍に任じられた従兄弟の孫賁・孫輔兄弟であろう。
彼らは曹操に接近することで高官に任じられ、曹操も彼らを高官に取り立てることで、孫権の牽制役として活用した。
孫賁は曹操が荊州を平定したと聞くと、自身の子を人質に差し出そうとしたことは既に書いた。朱治によって食い止められたこの事件は、曹操が荊州を獲得し、劉備が孔明を送って孫権と交渉を始めた頃の出来事であった。
朱治は前にも書いたが、父・孫堅以来の旧臣で、孫策にいち早く独立するよう説いた人物である。孫策に独立するよう説いただけあって、このまま孫家が曹操に吸収されていくのを良しとしなかったのであろう。
なお、朱治は呉郡太守であり、孫賁は豫章太守である。お互いの任地に赴任しているのなら、そう気軽に会いに行けるとは考えにくい。孫賁は豫章太守であると同時に孫氏政権の幹部でもある。もしかしたら、任地には代理を派遣し、自身は呉郡にいたのかもしれない。孫権は会稽太守ではあったが、実際には呉郡に留まっていた。おそらく、呉郡は孫氏政権の本拠地であり、その幹部である孫賁らも呉郡に滞在していたのではないだろうか。だからこそ、朱治は孫賁の計画をいち早く知り、すぐに対応が取れたのだろう。
だが、孫権自身は前述した通り、この時点では豫章郡の柴桑にいる。本来は荊州の難事へ対応するための遠征だったのだろうが、結果的に孫賁らと距離をおくことができ、彼らの意見を無視して開戦を決断することができたのではないだろうか。
また、おそらくこの頃にもう一つ事件が起きている。今度は孫賁の弟・孫輔であった。
『孫輔は使者を派遣して曹操と交渉を持っていたことが発覚し、孫権は彼を幽閉した。』〔孫輔伝〕
また、注に引く『典略』によると、孫輔は孫権のいない隙に曹操へ手紙を送ったが、その使者が孫権に報告して発覚。孫権は張昭とともに孫輔を問い詰め、観念した孫輔は東方に強制移住させられたとある。
しかし、曹操とは少し前まで普通に交流していた相手であるし、その相手に手紙を送ったことそのものが問題とは考えにくい。この時の孫輔の手紙の内容は不明だが、兄の孫賁に至っては人質を送ろうとさえしている。その孫賁でさえ幽閉にはなっていないのであるから、一体、孫輔はどれほどの内容の手紙を送ったのかと考えてしまう。ここまで来ると孫権に対して謀叛ぐらい考えていたのではないかとも思えるが、その息子たちはそれぞれしかるべき地位に就いたという。具体的な地位は不明だが、謀叛人の子供とは思えない厚遇である。
実際のところ、孫輔が送った手紙というのはそこまで大きな内容ではなかったのではないか。だが、孫権は曹操との開戦を決断し、独立を計った。当然、孫賁・孫輔の反発は予想されるし、何より彼らがいる限り孫権の権力が強まることはない。そこで孫輔に理由をつけて幽閉し、これを黙らせ、さらに孫賁をも牽制したのではないだろうか。
孫権が具体的に孫賁に対して何かしたという記述はない。だが、曹操がおそらく赤壁の戦いから3年後の211年頃に孫権に送った手紙(『文選』の「為曹公作書与孫権」より)には、『交州(刺史の孫輔)はあなた(孫権)によって捕えられ、豫章(太守の孫賁)はあなたの命令を拒み、指図を受け付けない』という状況であったと綴られている。
孫権は孫賁に罪を科しこそしなかったものの、豫章に押し込み、政権中枢から追い出すことに成功したようである。
なお、その後の孫賁・孫輔であるが、孫賁は『正史』の記述から210年頃に亡くなったと推測され、孫輔も幽閉から数年後に死去したという。偶然にも二人はかなり近い時期に亡くなったことがわかる。あるいは前述の曹操からの手紙を受け、この状況を利用されることを恐れて始末されたのかもしれない。
本編では、ソンフン・ソンホ兄妹は物語の都合で悪役的な立ち位置であったが、実際には孫権との政争に敗れたために不遇をかこった二人と言える。この二人が悪かったというよりは、孫権が権力を得る上で邪魔であったから排除されたのであり、見方によっては気の毒な犠牲者となるだろう。
だが、この二人を排除したことにより、孫権は江東において権力を確立し、これが後に呉の建国へとつながっていった。三国志の時代を迎えるにあたって避けては通れない道であったのだろう。
◎魯粛と孔明の天下三分
孫策の後を継いだ孫権であったが、母・呉夫人が政治の実権を握って曹操と接近し、従兄の孫賁・孫輔兄弟が力を増していた。そんな頃に亡き兄の友人・周瑜の推挙により魯粛が孫権の前にやって来た。
『孫権は魯粛の意見を求めていった、「今、漢王朝は傾き、天下は乱れている。私は亡き父・兄の業績を継ぎ、斉の桓公や晋の文公のような功績を上げたいと願っている。あなたは私のところに来てくれたが、どのように助けてくれるのか?」
魯粛は「昔、劉邦様が楚の義帝に助けられなかったのは、項羽がいたからです。今の曹操はまさに項羽ですので、孫権様が桓公や文公になろうとしても無理でしょう。私が考えるに、漢王朝の再興は不可能で、曹操を除くこともできません。
孫権様の最良の策は、江東を足場に、天下の趨勢を見守りください。そして、北方に問題が起きた隙に、黄祖を除き、劉表を伐ち、長江流域を占領するのです。その上で帝王を名乗られ、天下の支配に乗り出すのです」これに対して孫権は「今は自分のところが精一杯で、漢王朝のお力添えを願うばかりで、私の力ではできない」と答えた。』[魯粛伝]
この後、重臣の張昭から、魯粛は傲慢で任用するに早すぎると非難されたため、役職は与えられなかったが、客人として充分な待遇を得ることとなる。
孫権が名前を出した斉の桓公と晋の文公は共に春秋時代の人物で、春秋五覇(春秋時代に周王朝に代わって天下をまとめた五人の覇者)に数えられている。
かつて孫策が江東に赴く前、張紘を訪ねた時に以下のような逸話がある。
『孫策は張紘を訪ねて今後の方策について聞いたが、その時の張紘は、「昔、周王朝が傾いた時、斉の桓公と晋の文公とが立ち、王室を安定させました。あなたが呉で兵を募り、荊州・揚州を一つに纏め、漢王朝を立て直せば、その功績は桓公や文公にも引けをとりません」と答えた。』[孫策伝注呉歴]
孫権が桓公・文公の名を出すのは、兄のやろうとしたことを引き継ぐという意志もあったのではないだろうか。
かつて中華の歴史は黄河文明から始まり、長らく北部が中心地であった。だが、後漢時代になると徐々に長江周辺の地域が発展していった。さらに戦乱や食糧難等により北部より移民が進み、南部の人口はより増えていくこととなる。
この発展する南部に目を付けた人物は少なからずいた。先ほど上げた張紘も孫策が江東に赴く以前より荊州や揚州の長江周辺の地域の重要性に気付いていた。
だが、魯粛の意見はさらにそれを進めたものであった。長江流域の地域を押さえ、曹操に対抗することに加え、当時まだタブー意識の強かった皇帝即位を意識したものであった。
ここで思い返すのは、孔明が劉備にいった天下三分の計である。
『「董卓の乱以降、群雄割拠し、その数は数えきれぬほどです。その中で曹操は袁紹を破ってから、百万の軍勢を擁し、天子(皇帝)を擁立して、対等に戦える相手ではありません。孫権は江東を支配し、堅固なのでこれは味方にすべきです。
荊州は北方は漢水にまたがり、利益は南海に達し、東方は呉会(揚州)に連なり、西方は巴蜀(益州)に通じて、武を用いるべき国なのに、領主(劉表)はそれに堪えれる人物ではありません。まず、この荊州を取るべきです。また、益州は要害で肥沃な土地で、劉邦(漢の高祖)様もこの地で帝業を完成させました。
この荊州・益州を支配し、西方・南方の異民族を慰撫し、外では孫権と手を組みましょう。そして、曹操の隙をついて、上将を荊州から出撃させ、劉備様が益州より出撃すれば、覇業は成就し、漢王朝は復興するでしょう」』[諸葛亮伝]
両者を比べるとよく似ていることがわかる。これはどちらがどちらを真似したというわけではないだろう。そもそも南部に基盤を築くという意見自体は先ほどの張紘のように目端の効く人物なら気付いていた。魯粛は初めて孔明に会った時、兄の諸葛瑾の友人だと名乗った。つまり、孔明と魯粛は諸葛瑾を介して情報を得る術があったのである。
孔明の天下三分の計を読むと、同盟相手として孫権を名指ししている。考えれば、この頃まで孫権は兄・孫策を後を継いだとはいえ、政務や外交は母・呉夫人が執りしきり(呉夫人がちょうど逝去した頃であろうか)、従兄の孫賁・孫輔が曹操に重用され、台頭してきていた。孫権自身に強い意志が無ければこのまま埋もれてしまいかねない状況であった。
だが、孫権は魯粛に語ったように、斉の桓公や晋の文公になりたいと思い、さらに魯粛の皇帝になろうという言葉に強い興味を示すほどの人物であった。
孔明は諸葛瑾や魯粛よりこういった情報を得ていたからこそ、孫権の名を出したのだろう。もっと言えば、益州の劉璋や漢中の張魯は討伐対象なのに、孫権のみ同盟相手に選んだのも、諸葛瑾らを介して話をつける宛があったということであろう。そう考えると魯粛がわざわざ窮地の劉備を訪ねて、孔明とともに孫権・劉備両者の同盟を画策したのも、ある程度、天下三分を唱えた頃からの規定路線といえる。
この中国南部に基盤を築く案に、魯粛は皇帝僭称を加えている一方、孔明はあくまで漢王朝の復興に止まっている。この両者の違いは、両君主の要求の差だろう。孫権は漠然と桓公・文公になりたいと述べたのに対し、劉備は漢王朝の復興と打倒曹操という明確な目標を述べている。質問の内容が違うのだから、両者の回答が変わっているのは当然だろう。
魯粛は孫権の問いからその野心を嗅ぎ取り、皇帝への道を示し、孫権の信頼を得た。一方、後発である孔明はこの時点(三顧の礼のあった207年)での江東や益州・交州の情勢もを取り入れ、かつて張紘や魯粛の語った南部論の207年最新版のような内容となり、劉備の信頼を得ることとなった。
そして、曹操が荊州へ侵攻すると、この魯粛が荊州へと赴き、劉備に孫権との同盟を提案する。
◎揺れる江東政権
『劉表が死ぬと魯粛は孫権に言った。「荊州の地は我が領土と隣接しており、川や山に囲まれた堅固さと、豊かさを有しており、ここを領有すれば帝王への道の資本となるでしょう。今、劉表が死に、その二人の息子が対立し、家臣も両派に別れております。それに加えて劉備という英傑が劉表の元に身を寄せましたが、十分に活かせませんでした。
もし、劉備が劉表の息子達と心を合わせ、一つに纏まるのであれば、同盟を結ぶべきです。しかし、もし彼らの仲が上手くいかないのであれば、対応した新たな計略を立てるべきです。どうか、私を劉表の弔問として二人の息子の元に派遣してください。弔問の最中に、劉表家臣や劉備に、共に曹操と戦うよう説得します。劉備はこの言葉に喜んで従うでしょう」孫権はすぐさま魯粛を荊州に派遣したが、夏口に着いた頃に曹操が荊州に向かったと聞き、南郡に着いた時には劉琮が降伏して、劉備が逃走したことを知った。魯粛は劉備に会うべく当陽に向かい、長阪にて面会した。』[魯粛伝]
江東の孫氏は長らく荊州の劉表と対立関係にあり、孫権は劉表の部下・黄祖をこの年の春に討ったばかりである。そのような相手にいくら代替わりして、曹操が迫っているからといって簡単に同盟が組めるとは思えない。
魯粛は会話の中で、劉備の名を何度も出しているが、初めから劉表の息子ではなく、劉備を説得することを目的に荊州に赴いたのではないか。劉琮は既に曹操に降伏しているので選択肢から外したとしても、まだもう一人の息子・劉琦がいる。彼は江夏郡におり、その後、漢津辺りで劉備と合流しているのだから、魯粛が夏口(江夏郡に属す)に到着した時、最も近くにいたのは劉琦である。
それを無視して劉備の元に一直線に向かい、孔明には兄・諸葛瑾の友人と語るのは、初めから劉備と同盟を結び、さらにはかつて構想した南部を基盤とする天下三分の計(魯粛が劉備を加えて天下を三分する気があったかは不明だが)を実行する気だったのではないか。
こうして魯粛は孔明を連れて、孫権の元に帰還した。だが、孫権の元では既に曹操に対する議論が巻き起こっていた。そして、その多くは曹操への恭順論であった。
『曹操が荊州に侵攻し、劉琮が降伏すると、曹操は荊州の水軍を手に入れ、曹操軍の兵士は合わせて数十万にもなった。これを聞いた孫権の家臣は恐れを抱いた。孫権は群臣達にどう対処すべきか尋ねると、群臣の口を揃えてこう言った。
「曹操は悪人ですが、皇帝を擁していますので、逆らえば逆賊となります。それに加え、孫権様には長江の守りがありましたが、今、曹操は荊州水軍を手に入れ、その船は数千にものぼり、長江の守りは通じなくなりました。しかも、双方の戦力差は歴然であります。これらから考えれば曹操を迎え入れるのが最善です」』[周瑜伝]
この時の議論の中心は『周瑜伝』の注に引く『江表伝』の孫権の発言から察するに張昭・秦松(本編、シンショウ、89話より登場)らであったようだ。
秦松はこのあとあまり長生きしなかったので、知名度が乏しいが、彼も張昭同様、孫策時代から仕える文官であった。
また、『孫権伝』の注の『江表伝』によると『この時、曹操が孫権に送った書簡には「近頃、罪人を討伐せんと、南征したところ、劉琮は抵抗せずに降伏した。今度は水軍八十万の軍勢を整えて、将軍(孫権)とお会いして呉の地で狩猟をしたい」孫権はこの手紙を受け取り、群臣に示したが、誰もが震え上がった』とある。
有名な曹操の孫権に対する降伏勧告の元ネタである。この狩猟をしたいという部分が、合戦で雌雄を決したいの比喩であると解釈されている。
しかし、この文章が実際に曹操から孫権に送られたのかは疑問である。
まず、この時点の曹操の目的は荊州征伐であり、江東の孫権とは何の関係もない。孫権は長らく荊州とは対立関係にあり、対して曹操とは友好的な関係であった。また、前回で見てきたように、曹操は長い時間をかけて、孫権の権力の切り崩しを計っており、従兄の孫賁・孫輔が力を持ち、そちらとも友好的な関係を築いているのに、それを全てご破算にするような降伏勧告を反発覚悟でやる必要性もない。
また、先ほどの群臣達の言葉からわかるように、呉はこの時点の曹操の戦力を陸軍・水軍合わせて数十万、船数千と分析している。それに対して曹操のいう水軍八十万というのは明らかに盛っており、呉の群臣達がこの数字を素直に信じるとは思えない。
そもそもこの書簡の意味がよくわからない。孫権と呉で狩猟がしたいとのみ言い、これを合戦で雌雄を決したいという意味だろうとして解釈している。だが、実際の真意が分かりにくい上に、具体的な要求もない。この書簡からは曹操が孫権に対して何をして欲しいのか、その要求が全く読み取れない。
これらのことを考えれば、実際にこの書簡は当時、曹操から孫権に届けられたものではないのだろう。これはおそらく、この後、孫権が曹操と戦うことになって、その孫権側の正統性を主張するために作られたものではないだろうか。
では、実際はどうであったか。この書簡は事実ではなくとも、孫権は群臣達と曹操を受け入れるかどうか議論しており、やはり、曹操から降伏ではないにせよ、何かしらの要求は出されていたことが推察される。
曹操からの要求を考える上で参考になるのが、当時、孫権とよく似た立場であった益州の劉璋と曹操の外交であろう。
劉璋は荊州の西隣、益州の領主でこちらも長らく曹操とは友好的な関係を続けていた。その劉璋は曹操が荊州を占領すると、部下の張松(本編、チョーショー、92話より登場)を使者に送っている。
これより以前、劉璋は曹操に友好の使者を二度派遣したが、いずれも曹操から歓迎された。対してこの度の使者は曹操が荊州を占領し、劉備を逃走させた直後であったため、冷たくあしらわれ、それを張松は怨みに思い、帰還後、曹操が赤壁でやぶれると、劉璋に絶縁を提案している。
このエピソードは『三国志演義』では赤壁の戦いの後に書かれているが、実際は赤壁の戦いの前の出来事となっている。荊州占領後、曹操がかなり慢心していたことがわかる逸話である。
なお、この逸話は本編ではソウソウではなく、代理のリリツ(本編、91話より登場)が行った行動となっている。後の歴史を考えるとかなりの大失態と言えるので、リリツに貧乏くじを引かせる形となった。リリツのモデルはこの時に曹操が任命した荊州刺史・李立で実在の人物である。
この件もあって張松は曹操が赤壁で大敗すると、彼との絶縁を主張し、劉備に接近することとなるが、赤壁までの間では、劉璋は曹操との友好関係を維持し、その要求を受け入れたようである。
『益州の牧・劉璋が初めて役夫の徴収を受け入れ、兵を派遣して軍に提供した。』[武帝紀]
『武帝紀』の記述から、この時に劉璋が曹操に兵を提供したことがわかる。
孫権にも似たような要求が出されていたと推測できる。この時、孫権は既に柴桑という荊州江夏郡の最前線の都市に駐留していたのも、後に曹操との開戦を決断した時に、周瑜にすぐに兵三万を用意できたのも、これらが本来、曹操へ援軍提供のための準備であったと考えると合点がいく。
劉璋は兵を提供したのみであったが、対して孫権の目前にある江夏郡は劉備や劉琦が逃げ込み、拠点とした場所である。孫権は以前よりたびたび江夏郡には侵攻しており、そのためにより多くの派兵が要請され、具体的な作戦に加わるよう指示があったのかもしれない。
また、これ以外にも曹操からの要求はあったようである。
『孫権の従兄の予章太守・孫賁は、その娘が曹操の息子の嫁になっていることから、曹操が荊州を手に入れると、孫賁は畏れて、息子を人質として曹操へ差し出そうとした。朱治はその事を聞くと、孫賁を説得して、これにより人質を送ることを止めた。』[朱治伝]
これは孫権の従兄・孫賁に関してであり、その内容も孫賁が自発的にやったように読めるが、曹操からの人質要求はあったかもしれない。曹操の人質であれば、その名目は朝廷への出仕(つまり曹操に直接仕える)の可能性も高く、あるいは孫権自身の出仕も要求した可能性があるのではないだろうか。
一見すると、孫権が曹操に仕えるのと、孫権が曹操に降伏するのは同じようにも思えるが、江東の豪族として孫家がそのまま残るか、孫家そのものが解体吸収されるかの差がある。孫権が曹操に仕えても、従兄の孫賁らが江東に残り続けるのであれば江東の豪族としての孫家は維持される。ただ、将来的には吸収されることを視野に入れた要求ではあるだろう。
◎魯粛・孔明の説得
この時の降伏論に対し、魯粛は以下のような行動に出た。
『魯粛は劉備の使者として孔明を伴い、孫権の元に帰還した。群臣の曹操に帰順すべきという意見に、魯粛は何も言わず、孫権が手洗いに立つと魯粛はこれを追いかけ、孫権に答えた。
「先ほどからの群臣の意見は孫権様を誤らせるもので、聞くべきではありません。もし、私が曹操に降伏すれば、高い役職をもらい、いずれは州刺史や郡太守にもなれるでしょう。ですが、孫権様が降伏すれば、どこに居場所があるでしょうか。あのような意見を採用しないように」
これに対して孫権は嘆息していった。「群臣達の意見は私を失望させるものであった。今、あなたの意見は私の考えに齟齬がない。天があなたを私に授けてくださったのだ」
この時、周瑜は使者の役目で鄱陽にいたが、魯粛は孫権に彼を召し返すよう進言した。』[魯粛伝]
援軍であれ、人質であれ、朝廷出仕であれ、孫権は曹操からの要求に答えるのを良しとせず、魯粛の意見を入れ、曹操との開戦を望むようになった。
また、魯粛に同行してきた劉備の軍師・孔明も孫権と会見を行った。
『孔明は孫権を説得しようと言った、「天下は乱れ、孫権様は江東を所有され、劉備様もまた南部で軍勢を従え、曹操と天下を争っております。今、曹操は天下の大半を平定し、さらに荊州を破って、威勢は世を震わせております。英雄は武を用いる余地もなく、やむなく劉備様も遁走してこちらに参られました。
孫権様もご自身の力量を推し量り、もし呉の軍勢で曹操に対抗できるとお思いなら、即刻国交を断絶すべきです。もし、対抗できないとお思いなら、服従すべきです。今、孫権様は外では服従の素振りを見せつつも、内では引き延ばしを謀っております。事態が切迫しているのに、決断されないのであれば、災禍にまみえることでしょう。」
それに対して孫権、「もし、君の言う通りなら、なぜ、劉備は曹操に服従しないのか。」これに孔明が答える、「劉備様は皇帝の後裔であり、その英才は卓越しており、多くの士が敬慕しております。これで事がならないのは天命です。どうして曹操の下につけましょうか」
孫権ムッとして、「私は江東の領地、十万の軍勢を持ちながら、他人の干渉を受けるわけにはいかない。私は決心した。劉備以外に曹操に当たれる者はいないが、今、劉備は曹操に敗れたばかりだ。どうして頼りにすることができようか」
孔明、「劉備様は長坂で敗れたといっても、今、逃げ帰った兵と関羽の水軍を合わせて一万、劉琦の江夏軍が一万おります。対して曹操軍は遠征で疲れております。さらに、北方の人間は水戦に不慣れです。また荊州は曹操を畏れて従っているだけで、心から従っているわけではございません。
今、孫権様が勇猛な指揮官に兵数万を与え、劉備様と協力すれば、曹操を撃破できます。曹操を倒し、北方に追い返せば、荊州・揚州の軍勢は強大になり、三者鼎立の状況が作れます。成功失敗のきっかけは本日にあります。」
孫権は、多いに喜び、すぐさま周瑜・程普(本編、テイフ、9話より登場)・魯粛ら水軍三万を派遣し、孔明を劉備の元に行かせ、協力して曹操を防がせた。』[諸葛亮伝]
『蜀志』(『正史三国志』の蜀(劉備)側の記録)を読む限り、この時に孫権を動かしたのはこの時の孔明の言葉によってである。対して『呉志』(『正史三国志』の呉(孫権)側の記録)を読むと、孫権を動かしたのは、魯粛、そしてこの後に登場する周瑜となっている。同じ『正史三国志』内でも食い違いがあるが、蜀側の公式記録と呉側の公式記録の参考にした結果起きた食い違いだろう。
この三者がどのような順番で孫権と話したからはっきりしないが、孫権が軍を預け、実際に曹操と戦うことになるのは周瑜である。ならば、孫権が最終的に決断できたのは、周瑜が勝算ありと語ったことが決め手であったのだろう。
魯粛はこの時まだ家臣内では下っ端に過ぎず、孔明はよそ者である。この二人の言葉だけで、孫権が曹操との開戦を決断できるとも思えない。だが、この二人の説得は無駄でもなかっただろう。魯粛の話により、孫権は曹操との開戦という選択肢を得、孔明の話により、劉備が未だ有力な協力者になり得るとわかり、孫権の後押しをすることとなった。
しかし、下っ端とよそ者では、孫権が納得しても、群臣をも説得させるまでには至らない。そこで魯粛は周瑜の招集を提案した。
◎周瑜の登場
周瑜がこの時駐屯していた鄱陽は(孫権のいる)柴桑と同じ予章郡内にあり、そこまで遠い場所ではない。周瑜が鄱陽にいた詳細な理由は不明だが、当時、鄱陽には独立勢力があり、呉の時代にもたびたび反乱を起こしていたようなので、その勢力との交渉であったのかもしれない。
『到着した周瑜は降伏論に対し、「曹操の正体は漢に仇なす賊徒です。一方、孫権様は武略と才能を有し、加えて父孫堅様、兄孫策様の偉業を継ぎ、江東に割拠しております。その土地は数千里に及び、兵は精強、英傑が忠誠を誓っておりますから、漢の賊徒を除くべきです。ましてや曹操は自ら死地に飛び込んできたのに、迎え入れる必要はありません。
今、北方は未だ不安定で、馬超(本編、バチョウ、68話声のみ登場)らが関西におり、曹操の後患となっております。さらに騎馬を捨て船を得て、呉に戦いを挑むのは、彼らの得意とするところではありません。また、今の時期は寒さが厳しく、馬に秣無く、敵は遠く湿地を通っているので、風土に慣れず、必ず疫病が生じましょう。これらの点を犯して曹操は進んで来ておりますから、そのうち奴を捕虜にできるでしょう。願わくは私に精鋭三万を預けてください。必ず曹操を打ち破ってみせます」
孫権は言った。「老いぼれの悪党(曹操)が自ら帝位に就こうとしていることは以前から知られたことだ。ただ袁紹・袁術や呂布、劉表と私を憚って出来ずにいた。今は多くの群雄が滅び、私だけが残っている。私とあの悪党は両立できぬ。周瑜の意見は私の意見と合致している。これぞ天が周瑜を私に授けてくださったのだ」』[周瑜伝]
この周瑜の発言に推され、孫権はついに曹操との開戦を決意する。
周瑜は揚州盧江郡舒県の人。その家は代々名家として知られ、周瑜の従祖父・周景(本編未登場)とその子・周忠(本編未登場)という二人の太尉(大臣最高位の三公の一つ)を輩出し、周瑜の父・周異(本編未登場)は洛陽県令(首都である洛陽の長官)であった。
孫堅が董卓討伐で挙兵すると、自身の家族を舒の周家に預けた。孫堅の子・孫策と周家の子・周瑜とは同い年であり(周瑜伝注に引く『江表伝』の呉夫人の言葉によれば周瑜の生まれの方が一ヶ月だけ遅かったという)、特に親しく交わりを結んだ。
孫策伝の注に引く『江表伝』によると、周瑜自ら孫策を訪ね、そこで親しくなり、周瑜の勧めで舒の周家へ疎開したという。だが、おそらく当時の周家のまとめ役は従父の周忠であり、彼は董卓が支配する朝廷で大司農(大臣の一つ)(周忠が太尉に昇進するのは192年)を務めていた。その周忠の実家で、董卓討伐を行う孫堅の妻子を匿うことを当時まだ少年であった周瑜の一存で決められるとは思えない。
おそらく周家の総意で匿われたのだろう。元々、周家の基盤を築いた周瑜の高祖父・周栄(本編未登場)は、袁紹・袁術らの高祖父・袁安(本編未登場)の部下であり、代々周家と袁家は親しい関係にあった。
董卓討伐で挙兵したのは袁紹・袁術らもであり、また袁術は孫堅と手を組んでいた。周家が孫堅に協力するのはこの辺りの事情であろうか。さらに周忠個人の事情でいえば、彼の息子は董卓に警戒され、殺されている。周忠は董卓の側にいたが、心は反董卓側にいたのであろう。
袁術を介して孫家と強い繋がりをもった周家であったが、周瑜個人はともかく、周家自体でいうなら、孫家より袁家との繋がりの方が強かったようで、袁術の力が強い間は周瑜も袁術の指示に従っている。周瑜が正式に孫策の傘下に入ったのは198年頃のことで、袁術が皇帝を称し、その勢力に陰りが見え始めた頃であった。
周瑜が孫策に従ったのは彼の活躍期間から見れば晩年といえる時期であったが、孫策は周瑜を中護軍・江夏太守とし、来て早々に幹部待遇で扱った。
だが、周瑜が来てわずか2年後の200年に孫策は亡くなってしまう。後を継いだ孫権はまだ若かったために、部下の中には軽んじる者もいたが、名門出身である周瑜が率先して孫権に従ったので、周囲も次第に孫権に従うようになったという。
孫家が江東で基盤を維持する上で周瑜の存在は欠かせないものであった。だが、孫権が継いでも実質的な支配者は母の呉夫人であり、彼女は領土の安定を優先し、対外戦争に消極的になったために、周瑜は活躍の場を失うことになってしまう。孫策没後から呉夫人存命の間、周瑜が戦場に出た記録は206年の山越討伐と同年の黄祖侵攻の二度。その次は呉夫人没後の208年の黄祖攻めとなる。
周瑜は孫策と共闘し、その覇業を助けようと思った矢先に、孫策を喪った。さらに方針転換に伴い周瑜はその軍才を活かせずに、数年の時を過ごすこととなった。周瑜はおそらく孫策同様、その方針は領土拡大であり、呉夫人の政策は彼の望むところではなかったのかもしれない。
曹操との開戦は周瑜にとってようやく訪れた自分の力を発揮できるチャンスだったのだろう。
◎孫賁・孫輔兄弟との決別
この頃の揚州の孫氏政権は事実上の連合政権のような状況で、まだ若く、実績の乏しい孫権の立場は決して高いものではなかったと思われる。
その孫権が、ほぼ独断でそれまでの曹操との友好路線を捨て、開戦に舵を切ったのだから、当然、反発は想定された。その中でも特に反発すると思われるのは、曹操との友好路線の恩恵を受け、征虜将軍や平南将軍に任じられた従兄弟の孫賁・孫輔兄弟であろう。
彼らは曹操に接近することで高官に任じられ、曹操も彼らを高官に取り立てることで、孫権の牽制役として活用した。
孫賁は曹操が荊州を平定したと聞くと、自身の子を人質に差し出そうとしたことは既に書いた。朱治によって食い止められたこの事件は、曹操が荊州を獲得し、劉備が孔明を送って孫権と交渉を始めた頃の出来事であった。
朱治は前にも書いたが、父・孫堅以来の旧臣で、孫策にいち早く独立するよう説いた人物である。孫策に独立するよう説いただけあって、このまま孫家が曹操に吸収されていくのを良しとしなかったのであろう。
なお、朱治は呉郡太守であり、孫賁は豫章太守である。お互いの任地に赴任しているのなら、そう気軽に会いに行けるとは考えにくい。孫賁は豫章太守であると同時に孫氏政権の幹部でもある。もしかしたら、任地には代理を派遣し、自身は呉郡にいたのかもしれない。孫権は会稽太守ではあったが、実際には呉郡に留まっていた。おそらく、呉郡は孫氏政権の本拠地であり、その幹部である孫賁らも呉郡に滞在していたのではないだろうか。だからこそ、朱治は孫賁の計画をいち早く知り、すぐに対応が取れたのだろう。
だが、孫権自身は前述した通り、この時点では豫章郡の柴桑にいる。本来は荊州の難事へ対応するための遠征だったのだろうが、結果的に孫賁らと距離をおくことができ、彼らの意見を無視して開戦を決断することができたのではないだろうか。
また、おそらくこの頃にもう一つ事件が起きている。今度は孫賁の弟・孫輔であった。
『孫輔は使者を派遣して曹操と交渉を持っていたことが発覚し、孫権は彼を幽閉した。』〔孫輔伝〕
また、注に引く『典略』によると、孫輔は孫権のいない隙に曹操へ手紙を送ったが、その使者が孫権に報告して発覚。孫権は張昭とともに孫輔を問い詰め、観念した孫輔は東方に強制移住させられたとある。
しかし、曹操とは少し前まで普通に交流していた相手であるし、その相手に手紙を送ったことそのものが問題とは考えにくい。この時の孫輔の手紙の内容は不明だが、兄の孫賁に至っては人質を送ろうとさえしている。その孫賁でさえ幽閉にはなっていないのであるから、一体、孫輔はどれほどの内容の手紙を送ったのかと考えてしまう。ここまで来ると孫権に対して謀叛ぐらい考えていたのではないかとも思えるが、その息子たちはそれぞれしかるべき地位に就いたという。具体的な地位は不明だが、謀叛人の子供とは思えない厚遇である。
実際のところ、孫輔が送った手紙というのはそこまで大きな内容ではなかったのではないか。だが、孫権は曹操との開戦を決断し、独立を計った。当然、孫賁・孫輔の反発は予想されるし、何より彼らがいる限り孫権の権力が強まることはない。そこで孫輔に理由をつけて幽閉し、これを黙らせ、さらに孫賁をも牽制したのではないだろうか。
孫権が具体的に孫賁に対して何かしたという記述はない。だが、曹操がおそらく赤壁の戦いから3年後の211年頃に孫権に送った手紙(『文選』の「為曹公作書与孫権」より)には、『交州(刺史の孫輔)はあなた(孫権)によって捕えられ、豫章(太守の孫賁)はあなたの命令を拒み、指図を受け付けない』という状況であったと綴られている。
孫権は孫賁に罪を科しこそしなかったものの、豫章に押し込み、政権中枢から追い出すことに成功したようである。
なお、その後の孫賁・孫輔であるが、孫賁は『正史』の記述から210年頃に亡くなったと推測され、孫輔も幽閉から数年後に死去したという。偶然にも二人はかなり近い時期に亡くなったことがわかる。あるいは前述の曹操からの手紙を受け、この状況を利用されることを恐れて始末されたのかもしれない。
本編では、ソンフン・ソンホ兄妹は物語の都合で悪役的な立ち位置であったが、実際には孫権との政争に敗れたために不遇をかこった二人と言える。この二人が悪かったというよりは、孫権が権力を得る上で邪魔であったから排除されたのであり、見方によっては気の毒な犠牲者となるだろう。
だが、この二人を排除したことにより、孫権は江東において権力を確立し、これが後に呉の建国へとつながっていった。三国志の時代を迎えるにあたって避けては通れない道であったのだろう。
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