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無垢と笑えよサイコパス

地下室の骸-2

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―クリスさんは殺されたんです
 メレンの言葉はゼータの鼓膜に深々と突き刺さった。寒気が背筋を駆け上って行く。大丈夫、メレンの言葉は単なる憶測。彼女は帰国日前夜に地下室で起きた惨劇を知らないのだ。深呼吸を2度、ゼータは必死に平静を装う。

「国家のお偉い様方がそう簡単に犯罪行為を働くとは思えませんけれど。でもメレンがそう考えるには相応の理由があるんですよね?」
「もちろん。丁度クリスさんが行方不明になった頃のことです。魔導大学内の全ての研究室に、王宮の官吏による鑑査が入ったんですよ。それもアポロ国王の勅命による強制鑑査です。研究室の備品は全て改められ、個人が執筆した論文はひとつ残らず回収されました。鑑査の終わった論文は1か月と経たず返却されましたけれど、こんなこと今までになかったんですよ。ルーメンさんに聞いても未曾有の大鑑査だって。きっと魔導大学内の一部研究室で、国家にとって不利益となり得る研究が行われていたんだと思います。何らかのきっかけでその事がアポロ国王の耳に入り、未曾有の大鑑査に至ったんです」

 レイバックの文のせいだ、とゼータは思い至る。魔導大学から帰国した翌日に、レイバックはアポロ宛に文を送っている。王国内に反意有り、そう伝えるための文だと言っていた。レイバックの文の中に対魔族武器に関する事項がどの程度詳細にしたためられたのかは分からない。しかし研究室の強制鑑査はまず間違いなく、文を受け取ったアポロの意志であるのだ。魔族友好派として国政の舵を切りつつあるアポロ政権の足元に、密かに芽生えた反意の芽。成長すればドラキス王国との友好関係を破綻させかねない小さな芽を摘み取るために、アポロは異例の大鑑査へと踏み切った。
 事の詳細を把握しているだけに、メレンの証言はゼータの心にすとんと落ちた。しかし一部分だけ腑に落ちない部分がある。メレンが未曾有の大鑑査とクリスの死を繋げる理由だ。

「そんな事があったんですね。でもそれがクリス殺害を思い至る理由になりますか?仮にクリスが、メレンの言う国家にとって不利益な研究に関わっていたとしましょう。でも関わっていた人間はクリスだけではないですよね。国家規模の研究開発となれば、魔導大学内だけでもかなりの人数が関わっていたように思えますけれど。まさか関わっていた研究員全てが行方不明になっていることもないでしょう?」
「ゼータさんは、クリスさんの研究室を知っていますよね。第3研究棟という2階建ての建物です」

 ゼータの脳裏に6日間滞在した第3研究棟の外装が浮かぶ。これといった特徴のない薄灰色の建物だ。1階部分だけで4つの部屋が設けられていたが、クリス以外に使用者のいない寂しい研究棟であった。

「知っています。数日お世話になった建物ですから」
「その第3研究棟が突然取り壊されてしまったんです」
「…取り壊された?」

 ゼータは息を呑む。その話は知らない。当たり前だ。ロシャ王国の首都リモラ、高い壁に囲まれた街の内部でたった一つの建物が取り壊されたなどという些細な話が、遠い異国にいるゼータの耳に届くはずがない。

「時期で言うと、私がクリスさん行方不明の話を聞いた頃です。大鑑査が始まった頃、とも言うのかな。取り壊しの表向きの理由は建物の老朽化です。研究室の壁に大きな亀裂が入っていて、建物に立ち入った大学関係者が偶然発見したと聞いています。でも、おかしくないですか?魔導大学全域に鑑査の手が入り、ほぼ同時期に一人の研究員が行方不明となった。そしてその研究員の在籍していた研究室は、監査の手を逃れるがごとく取り壊された」

 テーブルの上に置かれたメレンの拳がふるふると震えた。見開かれた2つの瞳に薄い涙の膜が張る。長い睫毛に縁どられた瞳は雫のように揺らめいて、今にも零れ落ちてしまいそうだ。

「クリスさんは国家にとって不利益となる研究の、深いところに関わりすぎてしまったんです。頼まれ事は何でも引き受けちゃう性格ですから、かなり際どいことをやらされていたのかもしれない。詳しいことは分からないですけれど、生かしておいては不味いと判断されたんです。だから口封じのために命を絶たれ、研究内容と殺害現場を隠蔽するために第3研究棟は取り壊された。ゼータさん、私の話を聞いてどう思いますか?ゼータさんはクリスさんの研究室で生活していたんでしょう。当然クリスさんの携わっていた研究についても知っていますよね。私の話、間違っていますか?」

 激情に満ちたメレンの問いかけに、ゼータは返す言葉を持たない。「そうだ」とも「違う」とも叫べない。クリスが、アポロ政権にとって不利益となり得る対魔族武器の研究開発に携わっていたことは確かだ。自らが研究に手をかけずとも、一般の治験場とは一線を画す地下治験場の管理人を請け負っていた。治験に立ち会えば、表には出せない特殊武器や薬剤を目にする機会は当然あったはず。もしも対魔族武器開発の先導者が鑑査に先駆け自らの罪を少しでも軽くしようと考えるのならば、死刑囚である魔族を幽閉し非人道的な治験行為を行っていたという事実を隠蔽しようと目論むのならば、地下治験場の管理人であるクリスは邪魔者である。口封じのために殺害を図るという考え方は強ち間違いではないのかもしれない。
 しかし真実は少しばかり違う。クリス殺害に関与した人物は、魔導大学上層部の人間でも王宮関係者でもない。ドラキス王国の頂に立つレイバックだ。その事実を伝えることができない以上、今ゼータがすべきは黙秘。「研究室には滞在したがクリスの行っていた事については何も知らない」謝罪の一つを添えてそう伝えてしまえばよいのだ。されどメレンの疑問に黙秘を返せない理由がある。最悪の可能性が頭を過ったのだ。

「メレン、一つだけ教えてください。第3研究棟が取り壊される前後で、研究棟内から何かが運び出されたという話は聞きましたか?書物や実験器具ではなく、人一人の力では運び出せないような大きな物」
「いえ…そのような話は聞いていません。第3研究棟は理学部棟本館の窓からよく見えるんです。取り壊しについては私も疑問を感じていましたから、本館在籍者にはかなり詳細に聞き取りを行っています。でも箱詰めの書物以外に運び出された物はない、との証言です」

 やはりそうであったか。暖かな店内で体温が急速に奪われてゆく。手指が冷えて微かな震えを帯びる。喉の奥がからからに乾き、空気を飲み込むことすら辛い。突然他人のもののようになってしまった身体の中で、思考だけが鮮明だ。何かを言わねばと思う。ゼータが問いを口にしたことで、今やメレンの表情は期待に満ちている。クリスの行方に関する有益な情報が提供されるのではないかと、光明に胸膨らませているのだ。しかしゼータはメレンの欲する答えを返せない。

「私は、クリスの研究室で何が行われていたかを知っています。でもその内容をメレンに伝えることはできません。私は所詮部外者ですけれど、メレンは現任の魔導大学研究員ですよ。真実を知り得ると仕事に不都合が生じます。ただいくつか伝えられる事があるとすれば、クリスがアポロ政権にとって非常に不味い仕事を請け負っていたことは確かです。第3研究棟の取り壊しはクリスの研究室を隠蔽するためなんでしょうね。そう思います」
「そう…やっぱり…」
「でも魔導大学上層部、もしくは王宮の人間がクリスの命を奪った、という発言には賛同しかねます。もしかしたら出先で不幸な事件事故に行き会っただけかもしれません。魔導大学は国家直属の機関でしょう。どこで誰が聞いているとも知れませんから、不用意な発言は避けた方が身のためかと思います。…最後にもう一つ。クリスがもうこの世にいないという点については―」

 乾いた唇を舐める。メレンが息を呑む音が聞こえる。

「賛同です。そう思う理由は聞かないでください。上手く説明できないんです」
「そう…」

 メレンは俯き肩を震わせた。頬を伝う涙の一滴が、握りしめた拳に落ちる。賑やかな店内の中で、2人のいる空間だけが静寂を守る。ぱたぱたと涙の落ちる音だけが鼓膜を震わせる。
 丁度その時、老齢の男性店員が前菜料理を運んできた。銀色の盆には彩鮮やかな2人分の料理。ゼータの頼んだ店主のお勧めBコースと、メレンの頼んだAコースは、メイン料理の内容こそ違うが前菜やスープの種類は同一なのだ。真っ新な卓布の上に前菜料理をのせ、男性店員は足早に厨房へと戻って行く。卓布を濡らす涙の粒に気が付いたのか、メレンの料理の脇には数枚の紙ナプキンが添えてある。

 ゼータは両手を膝にのせたまま、メレンの嗚咽が止むのを待った。「飲み物のお代わりはいかがですか」そう尋ねる女性店員を2度やり過ごした後に、メレンはようやく顔を上げた。鼠色のカバンからハンカチを取り出して、涙で濡れた頬を拭う。そしてテーブルに並べられた鮮やかな料理を眺め、不格好に笑顔を作った。

「すみません。折角の料理が台無しですね。頂きましょう」
「無理をしなくても良いですよ。時間はありますから、ゆっくり」

 ゆっくり食べましょう。ゼータが言うよりも早く、メレンは右手に銀のフォークを取った。綺麗に盛り付けられた前菜の一つを切り崩し、小さな一口を口に運ぶ。美味しい、と腫れた目許を綻ばせる。

 食事を続けるうちに、メレンの顔にはいつもの笑みが戻ってきた。コース料理が中盤に差し掛かる頃には、他愛のない話題に花咲かせるほどだ。話題の中心はもっぱらがキメラ。ビットの案内で立ち入った魔法研究所のキメラ棟は、メレンの心に鮮烈な印象を残したようだ。合成直後のキメラに手ずから餌を与えた感動を饒舌に語り、おもむろに口を閉ざす。穏やかな瞳がゼータへと向けられる。

「私、本当はゼータさんと話をするためにドラキス王国に来たんです。ビットさんには言わないでくださいね。ゼータさんと会って、私の勝手な妄想に耳を傾けて欲しかった。肯定でも否定でも良いから、私の言葉に真摯な意見を返して欲しかったんです。ロシャ王国の中にいたのではそれができなかった。ゼータさんの言う通り私は国家直属の研究員ですから。王宮関係者がクリスさんを手に掛けただなんて、間違っても言えるはずがありません。私の自己満足に付き合ってくれて、ありがとうございました」

 ゼータは半ば茫然としながら、メレンの謝辞に答えを返した。何と返したかはわからない。「いいえ」だとか「気にしないで」だとか、恐らくはそんな無難な答え。心が軽くなったのだと笑うメレンとは対照的に、ゼータの笑みはぎこちない。口に運ぶ料理も飲み干すワインの味も分からない。饒舌に語られるメレンの談話も、わけのわからない呪文のように耳朶を通り抜けて行く。頭を過った最悪の可能性が、無制限に増殖を続ける癌細胞のようにして、ゼータの思考を蝕み続けるのだ。

 彼はまだあの場所にいるのか。誰にも弔われることなく、肉も臓腑も腐り果て、体液に塗れた骨を晒してもなお。蛆湧き鼠に食われ、生けとし頃の優美な面持ちなど当に失ってもなお。
 大地に埋められることもなく、生者に別れを告げられることもなく、陽の光の射さぬ地下室に捨て置かれたままなのか。
 ある者にとって不都合な事実とともに、その死すらも隠蔽されてしまったというのか。
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